2 男なら一度は口にしたい台詞

“どうやら、異世界に転移したらしい。”


 日本人なら一度は口にしたい憧れの台詞、№1であろうそれを、青年は口にする、、つもりだったが、すぐに否定した。まだ何も分からない、と。


 青年は佇立していた。濃霧に沈む森。朧に、白く発光するような周囲。見知らぬ静寂が満ちている。足元に視線を移す。苔で覆われた大きな岩盤。自分の足に履いているものが懐かしい学校の上履きであることを知るが、同時に、自身が全裸であることも認識する。


“え?なんだ?これ?”


 陰部を覆い隠す葉もなく立っている。視線を左右に動かす。霧で明確には分からないが、太く巨大な樹木が壁のように聳え立っているのが見て取れる。樹齢何百年と思えるそれらは天高く伸び、空間を閉鎖するように立ち並んでいた。時々、猛禽類のような啼き声が響くが、全てが濃霧に飲まれ、消えていく。


 上手く周囲の状況を理解できない中『なんで全裸なんだよ!!』と叫ぼうとするが、舌と喉で言葉を構成することができず、畸形な発音だけが口唇から零れた。


“あれ?話せない?”


 視線はそれなりに動かせる。ゲーム画面特有のスピードで視界がスクロールされる。だが、意思と発語のリンク、意思と身体動作のリンクは切れたままでいる。舌も喉も確認できない。青年は、何度か発声や身体コントロールを試みるも、悉くうまくいかなった。


 青年は自分の身体の未完成を覚えた。もどかしさから、これが夢ではないかとの疑念を抱く、、が、肉体に迫る冷感が否定した。痛みを伴うような冷たさ。岩盤に含まれていた鋭い痛みが、薄い靴裏を通し足を浸食していくのを感じる。その恐怖感が、夢ではないことを教える。


”このままでは凍死する。”


 本能が叫ぶ。だが、リンクしない身体は自分の意思では動かず、氷結の痛みが全身を切り刻んでいく。痛い、、どうなっている、、叫ぼうとしても構音が上手くできない。意識で感じることはできても、意思で考えることはできても、声は出ず、身体も動かない。このままでは死ぬ、、焦る青年だが、それとは別な自分が陽気に青年に言葉を投げかけていく。落ち着け、と。


“大丈夫、大丈夫。冷凍保存されても蘇生可能だよ。コールドスリープってSFの定番だろ?タイムトラベラーとかも宇宙を光速で移動している間は、、大丈夫、、いやいや、そんな状況じゃねぇだろ!”


 叫びたい青年だが、やはり口から零れるのは言葉にならない、輪郭のない発音だけだった。


 焦る青年。焦り、恐怖する。



 、、が、結果としては青年は凍死することはなかった。


 突如、電子レンジで解凍されるかのように、肉体の中でバチバチという破裂音が響いた。同時に、神経と意思がリンクしていき四肢が同期していく。今まで感じられなかった肉体の重み、肉体の輪郭を意識が認識するようになっていくにつれ、冷感は消え、代わりに暖かさが肉体に宿っていったのであった。


 暖かさが戻っていくと、青年は指先や関節の可動が可能になるのを覚えた。自身の肉体に何かがダウンロードされていくような感覚。この全裸の肉体を動かすプログラムがダウンロードされていくようなものが、、


“はぁ、助かった。死ぬかと思った、、でもこれって、意識だけ先に転送されて、その後に心身のリンクが構築されていったってこと?でもそれだと『精神』は『肉体』とは別に存在できるってことだよね???肉体の完成が先にあって、後に『自我』が宿るんじゃないの?身体という『壺』の中に自分という『魂』が宿るってこと?壺と魂は別々の存在?それなら魂が寄生しない壺も存在することになる?壺のない魂も存在する、、ハードプロブレム?哲学ゾンビ?意識は、、意思は、、精神は、、魂は、、いや、そもそも、自我って、、




 あれ?僕は、何考えてるんだ?”


 青年は、自分が知らない言葉を呟いていることに驚く。何時の間にか声帯での構音が可能になり、呟く程度に発語を取り戻したことに気づく。肉体と意識のリンクが終了し『自我』と肉体がリンクしたことを悟る。


 幾つかの部位を動かしてみる。今まで当然のようにしていた行為を繰り返す。掌で肌を摩り、感覚を確かめる。自分の股間にある「あれ」を触り、確認する。これが単なる肉叢でないこと、自分がゾンビでないことを確かめる。そして漸く、『自分』が普段通りに肉体をコントロールできることに落ち着き、安堵する。


“自分の意思で動き、自分の意識で感じ、自分の肉体で話せることがこんなにも自分を安心させるなんて、”


 長く息を吐く。自分で自分の肉体を操ることが人間にとってどれほど大切かを認識した青年は、その場で何度か軽くジャンプし、軽く腕を上下左右に動かした。深く呼吸をし、鼻腔の奥を森林の匂いで肺を満たす。パタカラ、パタカラと、謎の言葉を無意識に発し続けた。





 ある程度の確認を終えた青年は、指の関節を伸ばした後、ゆっくりと歩きだした。


 ふらふらと、プログラムされたゾンビのような動きで歩き始めた。全裸のまま。歩行バランスを調整しながら、口腔内が異常に乾いていることを感じながら、、、


「それにしても、ここはどこなんだ?」


 改めて周囲を見渡す。変わらず濃霧に包まれてはいるが、先よりは視力、聴力、肌などから受ける感覚も増えている。認識できる情報が増えるにつれ、周囲の景色も先よりは把握できるようになっている。だが、未だこの状況、この事態は霧に包まれたままであり、あらゆる面で不確実さが占めていた。


 薄い靴裏で、腐葉土や雑草を踏み潰し歩く。実際歩いてみると、時折小石や枝を踏んだ際に軽い痛みを覚えるも、歩みを阻害するほどの障壁はなく足を進めることができていた。それでも、戸惑い歩く青年。巨木の根が地面を這う大蛇のようにうねり、その陰影が青年の怯えを刺激していく。腰ほどの高さの針葉樹が肌に触れる度、刺激に表情を顰める。


 進むにつれ、先まで宿っていた寒さは熱へと変わり、実は、周囲が高温多湿の森林であることを知る。先までとは異なり、蒸し暑い湿度が全身に張り付き、いつの間にか青年の肌には汗が浮かんでいた。鳥の羽搏きが警戒心を煽る。ゆっくりと、重く湿った風が背を撫で、未知なる危険を知らせてくる。


 確かめるように視線を上空へと向ける。神殿の円柱の如く、威風堂々、地面より垂直に伸びる樹木の先。神経細胞のように、複雑に重なる枝葉の先々。先よりも明確な猛禽類の視線が落ちてくる。それとは別に、霊長目のような眼が周囲に点在していることに気づく。虹彩を小刻みに動かしながら、森の侵入者を見張るかのような視線が青年をとらえていた。不透明な霧の中、人とは異なる類の視線。


“どうやら、本当に異世界に転移してしまったようだ。”


 男なら一度は口にしたいランキング1位の台詞だ、


 との冗談を口にする青年ではあったが、その口調とは裏腹に、額には不安からくる脂汗が浮かんでいた。歩き続けた時間を正確に把握はできないが、肉体には相当な疲労が溜まり、足裏や足首、膝の関節に強い痛みを覚えている。それなりに時間を要し歩んできたが、青年を取り囲む状況に変化はなく、聳え立つ巨大な樹木、その間で朧に発光する霧が支配するだけの光景が延々と続いていた。何処に向かって歩いているのかも分からないまま進むだけ。本当は自分が歩いているのでなく、台地が、森そのものが回っているのでは、、、そんな感覚に陥っていく青年は、一旦歩みを止め、額の汗を拭い、この世界が本当に異世界なのでは、と考え始めていた。


“、、でも、本当にそんな現象があるのか?異世界転移、、かっこいい言葉なんだけどな、、いやいや待て、早まるな、、何等かの理由で見知らぬ森に放置されただけかもしれないし、、でも、もしここが普通の森林なら、昆虫がいないことは不自然だ。先から、まったく虫の存在を感じられない。虫がいない森なんてありえない。そんな森があるとしたら、、やはり、本当にここは異世界なのだろうか?この巨大な樹木も、霧も、草木も、岩も、、


 、、だが、なんにせよ、なんにしてもだ。全裸でこんな場所を徘徊し続けるなんて、、



「パニックになって、当然だろ―――!!!」


 自虐的に叫んだ。


 突然、見知らぬ森の中に放置され、冷静に過ごせる者など存在しない。たとえそれが勇者と称される者であっても、見知らぬ土地で、全裸でいることを、平然と受け入れられる者などいるわけない!!!と。青年は、そんな内容を早口で、一方的に叫んだ。





 時間が経過するにつれ、そんな青年を別な要因が追いこんでいた。


 それは、この世界に来た原因や過程となる『記憶』が一切ないことだった。


 何かしらの理由で死んだ結果として転生したのかもしれない。もしくは、死んではいないが強制的に召喚された結果、転移したのかもしれない。また、ここは地球上のどこかにある森林であり、第三者によってこの場所に放置されたのかもしれない、、


 だが、それらを解明する記憶が、青年には一切なかった。


 自分が日本という国で16年近く暮らしていたという記憶はある。全てを事細かくデータとして保持している訳ではないが、以前の日常生活な記憶、個人を特定する経験的な記憶はある。経歴的な記憶もある。だが、この状況に至る原因、過程はまったく存在していなかった。どれほど探っても、検索しても、頭を振ってみても、そこに関わる記憶は一切存在していなかった、、、


“仮にだ。ここが地球上のどこかで、僕が何らかの理由で第三者に拉致されこの森に放置されたとする、、いや、僕を拉致して森に放置することに何の意味がある?14歳から2年間近く、自宅に引き籠ってただけの僕を、、そうだ。わざわざ苦労して、僕を森に放置するメリットなんてありえない。得をするとしたら両親ぐらいだけど、、でも、、この森の奇妙な状況、大切な部分の記憶が消えていることからしても、僕は異世界に転生/転移したと考えるべきなのか?何等かの理由で、、いやいや、それも決定じゃないだろ、、でも、”


 次第に高まる不安と怯えが巨大な津波へと変貌する。


“畜生、分かんねぇ。分かんねぇし、関節は痛いし、畜生、”


 水嵩を増して自分に迫ってくる不安。押し寄せる狂暴なまでの不安が暑さで沸騰した青年の精神を蝕む。自分の中から冷静さが消えていき、自我が崩壊する寸前であることを青年は知る。


“あぁ、畜生、、分かんねぇ、不安だよ、不安!怖い、怖くて仕方ない、、あぁ、誰が説明しろよ!ここが異世界なら、そろそろ説明してくれる女神とか、近隣の村人とかが登場するのがテンプレートだろうが、、早くしろよ、早く説明しろよ!おい!ふざけんな!早くしろ、、早く、もう、、


 ・・・・・限界だ。




「◎●●×!!!!!!!!!!!」


 臨界点を突破した青年は、堪らず、叫んだ。不随意運動のように、森に響き渡る声で、叫んだ。今まで発したこのとがないほどの大声で。周囲の霧同様に、何一つ目明確にならない疑問に対する苛立ち、何一つ分からない現状への不安、何一つ予測できない恐怖から決壊した青年は、叫んだ。


「◎●●×!!!!!!!!!!!」

「◆□□×!!!!!!!!!!!」

「▼△△×!!!!!!!!!!!」

「!!!!!!!!!!!!、、、、


 それは、宗教的な呪詛といった類のものではない。青年が日常的にプレイしていたゲームの中で、魔法を使用する際に発するコマンドのようなものであった。


 無論、この状況で魔法が使えるかを試す意図など微塵もなかったが、感情が決壊した青年は、単に、思考を停止し叫び続けた。自分が最も熱中したゲームのコマンドを、緊張で台詞が絡まった役者のような声で、四肢を不自然に動がしながら、何の変化もおきない森の中、コマンドを叫び続けた





    ****





 どれほど時が過ぎたかは分からないが、青年は台地に伏していた。声帯が擦り切れるような痛み。口腔に血の味が滲む。汗ばむ身体が落葉落枝、腐葉土で汚れている。


 青年は、泣いていた。どうしてよいか分からず、全裸のまま泣いていた。低い嗚咽と鼻汁を啜る音が森に響いていた。


 状況は何等変化しなかった。都合よくこの現状を変えてくれるような魔法は発動されず、都合よくこの状況を説明してくれる女神や村人といった人物も登場せず、深い絶望だけが青年を満たしていた。誰も、助けてくれない絶望。誰も救ってはくれない絶望。無残に泣くだけの絶望、、


“畜生、なんなんだよ、これは、”


 絶望からか、無意識に、腰部から臀部にかけて点在する痕に触れる。火傷の痕。その痕が、青年に残る『ある記憶』を導いていく。消えることのない記憶。無理矢理、身体と心身に押された烙印の記憶、、、それは、イジメの記憶


 人権を平気で蹂躙する連中から受けた暴力と嘲笑。無理やりに衣服を奪い、臀部から腰部にかけて、何か所もタバコの火を押し付けられた記憶。助けを無視する教師と同級生の仮面。何等解決策のない相談センターの音声。学校に行かない自分を蔑む肉親の視線。そして、嘘を平気で語った少女の横顔。世界と青年の関係を切断した少女の嗤笑、、、


 それらの記憶が青年を追い詰めていく。


“思い出したい記憶はまったく蘇らないのに、思い出したくない記憶は、消したい記憶はこんな簡単に蘇るのかよ。畜生、異世界に来てもイジメの記憶は残るのかよ、”


『イジメ』の記憶だけが消えず残っていることに、青年は更なる絶望を覚える。不条理さに胸が締め付けられ、思わず身を捩る。泣きながら、落ち葉を雑草の上で身を震わす。溢れ出る絶望が、激しい怒りが、青年の体を蝕んでいく。


“イジメは、僕の感情を殺し、僕の人格を殺し、僕の人生を殺した。だから、イジメは犯罪だ。犯罪で殺人なんだ。でも、法では裁かれない。あいつらは裁かれない。本当は、あいつら全員、法で裁かれるべき殺人鬼なんだ、、


 、、だから、僕が、僕があいつらを◎◎しても、あいつら全員を●●しても、いや●●しておくべきだった、、こんな状況になるらいなら、あいつら全員、、いや、あの嘘つき女だけでも●●しておくべきだったな、、畜生、”


 瞋恚の炎に煽られ、青年は物騒な後悔を呟き続けた。何度も、、何度も、、




 、、やがて、呟きに疲れ、報復感情にも飽きた青年は台地で寝返り、仰向けになり、汚れた手の甲で涙を拭い、先から覚えていた周囲の視線に意識を移した。この霧に包まれた空間で、初めて現れた明確な輪郭。初めて訪れた変化。


 漸く、訪れた変化、、だが、それが、この状況を説明してくれる存在であったり、ましてや救済の女神でもないことを、青年は理解していた。近づいてくる目的も含め、理解していた。


 薄暗い霧に隠れていたそれらは青年を囲むように点在し、肉食獣特有の唸りで迫ってきていた。犬歯から涎を垂らし、どうやって噛みつくかを話合いながら、それらは群れとなり近づいて来る、、低い唸り声が長い舌から漏れ落ちるのが分かる。


 このまま、自分は見知らぬ森の中で、狼のような獣に喰い殺されるのか?学校で消され、社会に消され、見知らぬ暴力に消され、また、ここでも、、、でも、、もう、それでいいや、と青年は諦念を示す。


“もういいや、、どうせ中学も卒業せず、家に引き籠っていただけだし。2年以上、誰とも話をしてなかったし、、あぁ~あ、どうせなら、一度でいいから、妄想を実現化したかったな。どうせならあいつを、あの女を、、どうせ死ぬなら、、”


 再び物騒な思惑を呟いた青年は、肉叢を嚙み千切る鋭利な牙と、骨に絡む臓物を啄む猛禽類の嘴を想像した。餌となる自分を想像する。


 連動するように日々が蘇る。


 暗い、4畳半の部屋。洞窟という自室に引き籠った日々

 自分を過保護な状態にしならが、自分の死を望んでいた日々

 社会から逃げて引き籠りながらも、社会との接点を求め苦しんだ日々

 救いを求めながら、救いの手を振り払い続けていた日々

 あらゆる矛盾に苦悩し続けていた日々


 自分を貫き続ける『最弱の矛』と、自分を過剰に保護する『最弱の盾』

 脆弱で、臆病で、苦しむだけの日々


 反動から、ネットに暴言を書き込むだけの日々


 拷問のような日々



“あぁ、これで、漸く解放される、、、お前たちなら、僕を、過去の記憶を消せるんだろ、、神様が、僕に向けた、最大の祝福が、お前たちなんだろ、、、僕は、これで、漸く、、



 近づく捕食者の跫を感じながら、青年は、ゆっくりと眼を閉じた





 颯と、周囲の湿度が劈開し、強く、鋭い冷気が駆ける。


 眼に見えぬ、巨大な亀裂を全身で感じる。狼爪が慌ただしく落ち葉を弾く音がする。獣が咆え、唸る。小さな悲鳴のような啼き声が、何かが鈍く砕ける音が鼓膜に溜まる。


 そして、趾行が台地を蹴り、駆け、逃げ去る音が消えると、奇妙な静寂だけが残った。


 その後も何も起こらないことを不思議に思った青年は、開眼することを決めた。


 このまま眼を閉じたままでいたかったが、不安定な静寂や、自分の肉体が痛みを覚えないなどの『変化がない不安』から開眼を決意する。冷気が首筋を撫でていくのが分かる。嚙み殺されない理由。その冷気の正体を確かめなければ、、呟き、決意した青年はゆっくり、恐る恐る開眼する。


 、、すると


 上手く合わない視点、、その先には、幾つもの氷柱が、青年を中心とし、台地から天を突き刺すように存在していた。槍のような縦長の円錐氷柱。その表面は針葉樹のような鋭さに覆われている。高さとして3mほどの氷の槍。それが、青年を中心とした台地を覆いつくしていた。


 突然の出来事に息を忘れる青年。大きな狼のような獣の数匹が、氷の槍に貫かれ痙攣している。腹部、頭部など、至る箇所を貫かれている。既に絶命し動かぬ肉もある。氷の表面を流れる血腥い臭い。瞬間的に氷柱を創造した為であろう、周囲には縷々と立ち昇る白煙も多数見られるが、それが強い冷気となり青年の肌を痺れさせていた。


「これは、どうして、こんなことが、、」


 青年は自分が殺されなかったことに安堵するより、氷の槍が突如発生したことに困惑した。初めて観る獣の遺体。初めて嗅ぐ血の臭いに困惑する。


 だが、世界はそんな青年に考える暇を与えなかった。


 突如発生した巨大な氷柱の槍。その氷の竹林のような奥に、それはいた。青年を覆っていた氷柱が崩れる。いや、切り裂かれ、大地に落ち、砕ける。氷と同じような色をした長い髪を揺らし、氷柱を斬ったと思われるサーベルを構え、深紅の両目で青年を睨むそれが、青年を凝視していた。


 キャットスーツのような全身フィットの服。鈍く、闇を反射するような素材の表面が濡れているのが分かる。スーツ同様、光沢のあるマスクで顔の下半分を覆い隠し、表情を知ることができないそれ。膝上まである厚底のブーツで氷を踏み砕き、獣の死骸を踏み、警戒心を露わに青年に近づくそれは、サーベルの刃先を青年の喉元に向けた。


 そして、低い声で、問うた。


「お前、何者だ、」と。


 共通言語を持つ存在。男とも、女とも分からない存在だが青年が待ちわびた、他者。漸く登場した、会話ができる存在。だが、青年はその存在の登場に安堵するどころか、その存在の放つ殺気、刃先に込められた鈍い光に恐怖した。初めて突きつけられた刃、初めて突きつけられた殺意。理解できぬ状況。理解できない現状


 それら全ての初体験に青年は恐怖し・・


 そして・・



 失禁した。


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