第1章 1 酒場でピアノを弾く女と壺を割る男

 その女は、薄汚い酒場にいた。


 インディゴブルーの空。遠くで積み上がる積乱雲。低いサーモンピンクの岩山がそのまま地平線となる荒野。熱く乾燥した風が蜥蜴と共に駆けていく。植物の類はなく、岩と砂の乾燥地帯。標識のない国道が陽炎で揺れる。熱で弛んだ電線がだらしなく道に寄り添う。


 折れた電柱に突っ込んだまま、その身を錆びつかせているキャデラック。折れ曲がったフロントフォークが印象的なストリートドラック型のバイク。焼け焦げたようなタイヤが幾つか転がる。その先にある木造二階建て。昼過ぎの、気怠い灼熱に満ちた酒場。安いテキーラとジンが詰まった棚が女を見下ろしていた。


 吸いかけのタバコから上る煙が天井で撓む。羽の折れたシーリングファン。汚れた窓硝子から差し込む光が、南米特有の埃に反射する。翳りの中に沈む湿度。タバコの脂と酒で分厚く塗装されたカウンター。転がる酒瓶とグラスを横に、女はカウンターへ体を預け、背もたれのない椅子に座っていた。


 薄く開けた女の視線の先には、木肌が剥き出しの丸テーブルが幾つかあった。脚の長さが異なり、がたがたと揺れるテーブル。その下で床板が軋む。砂埃と釘錆びが溜まる床。多くの男女の嘔吐物を吸い、多くの愚か者たちの血を吸い、多くの人の穢れを吸い続けた床を、女は眺めていた。


 店の入り口の対面には、古いジュークボックスがあった。陽気なサルサから、激しいタンゴ、フォルクローレや欧米式のバラードまで、そのボックスには多様なジャンルのシングルレコードが詰まっていた、、が、未だレコード針は折れたままであり、この店では女が好きなロカビリーを聴くことはできなかった。


 それでも、レンガとコンクリートで出来た壁は振動していた。


 そう、、酒場は、振動していた。


 その振動に急かされたのか、女は二日酔いの髪を何度か指で梳き、気怠そうにカウンターから上半身を起こした。


 汗で湿る首筋。細いシルバーのネックレスが飾る。刳り抜いた見慣れぬ銀貨が谷間で鈍く鳴る。アップルグリーンのシュミーズ。キャンディアップルのショーツが露出する下半身。長い素足はヒールのみが許されている。薄れてはいるが、その年齢に相応しくない傷痕が身体の至る箇所に見て取れた。


 立ち上がる女。酒場の振動が次第に大きくなっていくのを知る。


 それを気にすることなく、ジュークボックスとは反対に位置する、古いアップライトのピアノの傍に立った。もう何年も調律していないが、音を弾くことはできるピアノ。白鍵が黄色く変色し、本体の塗装は殆ど剝がれているピアノ。どこの国のものかは分からないが、女性に負けないほど傷だらけのピアノ、、


 女は、ピアノの上にあったタバコの箱から最後の1本を取り出すと、無造作に箱を捨て、片手で金属製のオイルライターに火を灯す。肺を壊す勢いでニコチンを吸い、長く、深い煙を吐く。もう一度それを繰り返した女は、銜えタバコのまま幾つかの鍵盤を弾いていった。軽く、指先で舐めるように。


 そして、調律のされていないピアノで旋律を奏でていく。調和のない無秩序な音が重なり、旋律が床に溜まっていく。玩具のピアノのような、奇妙なビブラートが効いているのが分かる。スプリングリバーブのようなエフェクトが、五線譜では記すことのできない、調律された世界では描けない色彩を生み、不協ゆえに見える世界を生み出していく。


 やがて、その世界に呼び出されるように、板張りの床は水鏡のような危うさに染まり、振動が、ワルツのような水紋を描いていった、、



「どう、こっちの世界は?」


 知らぬ間に描かれていた女の影。カウンター端に座る影が問いかける。転がっていたボトルを拾い、残っていたジンをグラスに注ぐそれは、氷ぐらいないのかと言いながら立ち上がると、勝手にカウンター内にある冷蔵庫を開けた。


「どうやら、、あなたが思い描いた世界にはならなかったようね、」


 カウンター内の翳りに、グラスに氷が入る音が響く。


「それ、金とるからな。」

「薄まってない酒なら、お金払うわよ、」

「酒代はいらない。ここでは氷の方が貴重だ、」


 その言葉に舌打ちした女の影は、カウンターに数枚の硬貨を置いた。そして、氷を入れたグラスを片手で鳴らすと、一気に中身を飲み干した。


「この世界のお金なんて、もう意味ないんじゃない?」

「お前に酒を奢る気になれないだけだ、」

「嫌な女ね、」


 嫌な女でけっこう、、と、誰もいない酒場で呟いた女は、ピアノを弾き続けた。鍵盤に落ちるタバコの灰。目に染みる煙。それらを気にすることなく弾き続けた。奇妙なワルツを、先よりも多くの指を使い、テンポを速めたり遅くしたりし、不均等な旋律で世界を描き続ける。それに応えるよう、水面鏡には先より多くの水紋が生まれていく。


「もう一度、試してみる?」


 水紋を眺めていた女の影が話す。フード付きのマントのような外套。その前を軽く開き、ピアノに向け話をする。


「試す?生贄になるの間違いだろ。」


 銜えタバコを片手で外し、ピアノの上にあったスティールの灰皿に押し付け応える。


「仕方ないでしょ。今のところ誰も成功してないのだから、」


 生贄が必要なのよ、と女の影はグラスを置き、再び棚にあった瓶を片手に取ると、コルクを抜き、中身のテキーラをラッパ飲みする。これなら、無料(ただ)で良いのよね、と口を拭う。皮手袋が酒で濡れ、鈍く反射する。


「あぁ、そうだな、、まぁ、再び実験台になるのも悪くないかもな、」


 ここでの失敗で色々学べたし、と皮肉っぽく笑う女。


「創造は、自分が想像していたより、遥かに難しかった?」

「そうだな、、苦難は想像していたが、、


 どうやら、私の楽園には誰も入りたくないらしい、」


 呟いた女は、鍵盤を叩く指に力を込めた。悲しそうに笑いながら、しな垂れる長い髪が唇に絡まるのも気にせず、力を込めた。


 すると、その力に呼応するよう、誰もいないはずのカウンターで、ショットグラスが割れた。破裂するような音が響く。続き、カウンターの後ろにある酒瓶も割れていく。棚にあったテキーラボトルも砕け、女の影が握っていた瓶も破裂する。服と靴が濡れたと、不満を口にする影。


 だが、そんな不満を打ち消すよう、女の奏でる世界が強さを増していく。ピアノの波動と女性の指先とが連動し、床の水紋が互い共鳴し、無数の光の環が周囲で回り始める、、


「行くしかないんだよな、、」


 人の聴覚が感知できない音域が混ざり合い、様々な輪郭が熔けるように失われ、虹のような不安定な世界が完成に近づいていく中、女が繰り返した。行くしかないよな、、と。


 一旦、鍵盤を叩く指を止める。もう既に、誰にも溶ける世界を、描く世界を止めることができないと分かってはいるが、女は指を止め、視線を女の影へと移した。


「この世界はどうなる?」

「あなたが旅立つと同時に、消滅する。」


 1秒もかからず、全てが消滅する。無に帰する、と。


「そうか、仕方ないな、」

「あなたが残して欲しいって願えば、滅亡までの時間を少しは延ばせるけど、」

「いや、、まったく願う気はない、」

「まったくって、、自分が創造した世界でしょ?少しは愛着ないの?」

「ないね。タバコや酒を『悪』とするような世界に、未練はない、」

「、、そう、なら、」

「あぁ、旅立つよ。また、あっちで会おう、」

「分かった、待ってるわね、、


 告げた影は、徐々に影を薄めていった。だが、辛うじて輪郭が残った程度に薄まったそれは、消える直前、女に向かって残した。一つ伝えとくね、と。


「なんだ?」

「あっちの世界でも、公共の場での酒タバコは『悪』だからね、」

「・・・・・・」


 女の影が完全に消えると共に、誰もいないはずの酒場は消滅した。


 アップライトピアノのワルツも、ジュークボックスも、影が残したコインも、女の胸に埋まっていたネックレスも、それまでの時間も含め、数秒も要せず、風船が破裂したかのように、世界は収縮し、消えた。


 そして、酒場があったはずの場所には、壊れたキャデラックと、爛れたように伸びた電線と、乾いた風と灼熱の荒野だけが転がっていた。




   ****




 そこは、見慣れた光景だった。


 見慣れた、路線バスの車内。見慣れた、バス最後尾からの絵柄。


 男は、普段自分が座っている座席からみるそれを眺めながら、その光景に宿る違和感、異質さに戸惑っていた。強めの冷風を受けながら、高い湿度が首筋を撫でていくのを感じながら、戸惑い続けていた。


 その戸惑いを高めるよう、天井のスピーカーから何かが垂れ落ちていく。結露で染まった窓ガラスを滑る雫のように、誰かの声が落ちていく、、


『、、古代エジプトではミイラを作成する際、遺体から胃、肝臓、肺、腸を取り出した。これらの古い壺は、それら臓器を保管することを目的とし、女神と精霊が、、』


 博物館の音声ガイドのような声が、男の感じる異質さを説明する。デジタルな説明が、男の違和感を撫でていく、、


 そこには、見慣れたはずの光景、見慣れたはずのバス車内が、多数の壺で埋まる状況があった。視点の合わない3D映像のように輪郭がぶれる壺。5フィートほどある多数の壺が、古そうな、無数の罅が刻まれた壺が、バス車内を埋めていた。


 それら壺の説明が続く。胴体部は丸みを帯びた筒形になっているが、蓋にあたる部分には古代エジプトで拝められていた神々の頭部が象形されており、その神によって納める臓器が決まっていると。また、ミイラ復活の儀式についてなど、デジタルな説明が続いていく、、


 やがて、自然と音声ガイドは消えていき、周囲には、深海のような静寂が漂っていった。車外は強い雨なのだろうか、遥か遠くで激しく動くワイパーが見える。翅のように動き続ける。その揺れの中で、男は眼を凝らしながら車内を見つめた。大きな壺で犇めくバス車内を。


 バス車内の輪郭は、見慣れた輪郭である。座席も、男に浴びせる冷房の風も。液晶モニターに映る退屈な広告内容も、普段と何等変わりはない。だが、その空間を埋める存在だけが、普段とは、男の記憶と違っていた。


 座席に座る壺。つり革につかまり立つ壺。男の近くで眠り続ける壺。それらを眺めながら先の音声ガイドを思いだす。本当にこの壺には臓器が納められていたのだろうか、と。


“臓器が納められていた壺って、、確か、カノプス壺とか言うんじゃなかったっけ、、でも、あれって棺の四方に置かれるんだよな、、なんで、そんな壺がこんなに大量に、、”


 先のガイド通り、壺の蓋は古代エジプト神の頭部となっており、その無機質な作り物のような頭部が、動かない動物を模した表情が、古く、罅だらけの壺の異様さを深めていく。


 男は、額や背に、やたらと冷たい汗が滲んでいることに気づく。雨のためか、湿度が高く蒸し暑い車内ではあるが、男の身体の芯が冷えていた。両手で自身の上腕を摩るも、全身に絡むような冷たい湿度は拭えず逃げるように視線を車窓へと這わす、、が、結露の幕が外の様子を窺い見ることを許さなかった。


 車天井からハウリングノイズのような運転手のアナウンスが聞こえる。降車を示すチャイムがリフレインし、ボタンの発光が結露で撓む窓に吸われ消えていく。


 やがて、男は確信する。これは夢であると。自分は通勤で使用するバスの中、レム睡眠のような状態でいる。薄く認識する視界と過去の記憶が撹拌された状態でいるのだと。


“そうだよな、、これは夢だよな、、夢だ、、”


 そんな安心感から、夢の中で、男は眠りに着こうとした。やがて訪れるであろう覚醒の時を待つように、、




 、、だが、覚醒より先に、その眠りを妨げる大きな音が訪れた。車内に響く巨大な破裂音。聞き覚えのある音色。陶器が激しく砕ける際に発するあの特有の衝撃音が、男の夢を強制的につなげた。


“何が起きたんだ?”


 夢の中で薄く眼を開ける男の先には、床に散乱する壺の破片があった。細かく、無残に散らばる陶器の欠片と囁くような周囲の声。どうやら、壺同士が開いた席を巡って争った果てに、片方が片方の壺を破壊したようであった。


”なんだ、壺同士の喧嘩か、”と呟く男。


 すると、バスの振動が止まり、運転手らしき人物が車内に現れ、塵取りと帚で散在した壺の破片を掃除し始めた。無機質に、事務的に掃除する運転手。そして、掃除を終え、壺の破片を外へと投げ捨てた運転手は、何事もなく戻っていった。


 やがて、エンジンが床下に響く。短く、バスの運行を阻害する言動は慎むよう、車内アナウンスが流れるとバスは発車した。何事もなかったように、、


 そして、運転が再開されたことに安堵した男は、再び目を閉じ、夢の中で眠ろうとした。これで帰宅できる、と。これで、無事に家に帰ることができると安堵する自分を、夢の更に奥へと沈めようと、、



”いや、まて、、 帰宅? 帰宅ってなんだ?”


 男は、自分の声に疑問を抱いた。薄目を開けながら、奇妙な夢の世界での出来事を噛み締めながら、「帰れる」と安堵した自分に疑問を抱いた。


“帰る?僕は帰る、、だが、僕の家はどこにあるんだ?僕はどこに帰るんだ?いや、まて。帰るってなんだ?帰るってどういう意味なんだ?”


 焦る男。高まる焦燥感と疑念。不安が高まるにつれ、男は何も思い出せない恐怖に捕らわれていく。帰る場所、帰る方法、帰る目的、帰る意味も、自分が何者なのかも思い出せない恐怖に、、


“まて、、落ち着け、、これは夢だ。夢でしかない。通勤バスの中でみている夢でしかないんだ、、いや、、通勤ってなんだ?僕は、働いていたのか?僕は、仕事なんかしていない、、僕に帰る場所なんて、、僕は、、


 ・

 ・

 ・


 混乱する意識の中、男は気づいた。


 男は自分の手が金槌を握っていることに気づいた。知らぬ間に握っている指先。それが、冷たく紫色に染まっていることに。拘縮したような指で、自身では動かせない指で、金槌の柄をしっかり握り締めていることに。そして、その指の固さを確認した男はゆっくりと席を立つと、怯えるような叫び声をあげ、顎を震わしながら、、


 自分の席の近くにある壺を破壊していった。


 順に、後部座席に置かれた壺、通路に立つ壺、手摺りに掴っていた壺まで、その金槌で、破壊していった。


 額に汗を浮かべながら、解放されるような、報復するような快感を覚えながら、壺を破壊していく。そして、それが単なる「破壊」でないことを知りながらも、男は壺を破壊し続けていった。狂気を滾らせた目で、奇声を発しながら、大きなバックミラー越に、その様を眺める運転手の笑みを知りながら、、


 ・

 ・

 ・


 暫くの後、男は知った。自分が知らぬ間にバスを降り、篠突く雨の中、傘もささずに、昼前の住宅街を歩いていることを。知っているはずなのに、知らない住宅街を歩いていることを。自分の服が水浸しになっていることを。


 そして、あの壺がなんであったのかを、、男は知った。


“まだ、夢から醒めることはできないのか?“


 男は、まるで、竹林の中で迷子になったかの如く、逃げるように空を見上げた。手を翳し、雨滴の矢を避け、細く、眦が吊り上がった一重の眼を片方だけ開け、灰色の空を見上げた。頬に、掌に、鼻梁へと無数の痛みを覚える。貫かれるような痛みが身体を走る。灰色の空の上を、墨のような筋が流れていく。


 男は、唱えた。赦しを乞う信者のように、己の罪を告解する者のように唱えていた。


 先から自身に付きまとい、自身を浸食していく感情に怯えなから、否定することができぬそれに震えながら、自分の知らぬ言語で、自分の知らぬ神へ、責め続けるような痛みの中、


 赦しを、赦しを、、、




『赦しますわ』




 激しい雨音が、空中で全て滴として静止すると共に

 分厚い灰色が劈開し、その隙間から滴る虹が囁く

 男の罪を赦すと




 直後、ピアノの鍵盤を全て鳴らしたような音が鳴り響くと、男の意識は発光に包まれ、そこで途絶えた。そして、再び意識が捉えた視線の先には、市のゴミ収集車の後部、ロータリー式のプレスプレートの作動音、ゴミ袋が弾ける音と一緒に、荷箱へと収集され、砕けていく自分の身体があった。



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