第12話
それは、今よりずっと昔の話だ。
「やめてくれ! 俺が人間と話したいと言ったんだ。レンティルは悪くない!」
今よりずっと幼いソーハは、老人にしがみついて
彼の前には、打ち据えられてぼろぼろになったレンティルがいる。
背中には痛ましい血の線がいくつも
老人はソーハの方は見ない。冷たい顔でレンティルを見下ろしたまま、ゆっくりと首を振った。
「いいえ、ソーハ様。あなたはまだ人に対する知識がない。ですから悪くない。悪いのは、知を持ちながらそれに賛同したこの者です」
レンティルは打ち据えられながらも、必死に頭を垂れた。彼女を無感情に見下ろして老人は続ける。
「人間は我々に劣る劣悪種。だが繁殖力が高く数だけは多い。自分より優れた者を恐れ、数の力で根絶やしにしようとする
老人の目がソーハへ向いた。
その目の奥のドス黒い感情に当てられて、声が出なくなる。
「ソーハ様。我らの希望。あなたが授かりし偉大な魂は、人間を殺し尽くすために受け継がれたものです。どうかそれをゆめゆめお忘れなきよう」
老人はそれだけ言って闇に消えていった。
ソーハは転びそうになりながらレンティルに駆け寄る。
「レンティル、レンティル!」
レンティルはなんとか身を起こし、途切れ途切れに謝罪した。
「ソーハ様、申し訳、ありません。私のせいで、怖い思いを」
「違う、違う」
ソーハは必死に首を振った。
ごめん、と言おうとして口を閉じる。「上に立つ者がむやみに謝ってはいけない」といつも厳しく言われているからだ。
「みんなを怒らせるつもりじゃなかったんだ。ただ、知りたかった。人間がどんな生き物なのか」
優れたものを恐れ、魔人を
レンティル以外の魔人は、人という生き物について繰り返しそう言い聞かせる。
だけど、ソーハはそれしか知らない。彼らがどんなふうに生活して、何が好きなのかを知らない。
自分の目で見て人間を知りたかった。
なぜなら。
「──知らないものを憎むのは、難しいんだ」
レンティルはただ黙ってソーハを抱きしめた。震えていたのは、レンティルか、ソーハか。
ただ、レンティルは祈るように言った。
「いいんです。あなたは何も憎まなくていいんですよ」
□■□■□■
もやし観察、3日目。
ソーハは昔の自分の愚かな行動を思い出し、顔をしかめた。その手には、もやしの成長を書き留めた観察ノートが握られている。
(なにが人間を知りたい、だ。下等種族のことなど知ってなんになる)
ソーハは皆が望む魔人へと成長している。異世界人を召喚して恐怖する様を見る「遊び」は、老人達からこれぞ魔人よとたいへん褒められた。お前の教育がよかったのだと、レンティルだって褒められていた。
なのに、レンティルだけがいつも喜ばない。
(……なんであんな目をするんだ、レンティル)
ここ2日の行動は、魔人として褒められたものではないと自分でも分かっている。それなのに、レンティルは嬉しそうに笑っていた。とても優しい目で。
だけど、そんなのはおかしい。魔人のあるべき姿ではない。
自分は人間の苦しむ姿にこそ、喜びを感じるべきなのに。
(俺は、魔人なんだから)
豆太郎はもやしの水替えをしていたらしい。黒い豆が並んだ容器と、緑の豆が並んだ容器。それぞれ地面に並べていた豆太郎は、ソーハの存在に気がついて笑った。
「よう、坊主」
屈託なく笑う人間を見て、ソーハは思う。
(俺がおかしくなっているのはこの人間のせいだ)
今までの人間のように、怯えて怒り泣き喚く姿を見れば、このおかしな状況も終わるだろう。
ソーハは地面に置かれたもやしを見た。
豆太郎が固執する、もやしという植物。
これを壊せばこいつは泣き喚くだろうか。
自分は正しい魔人に戻れるだろうか。
ソーハはもやしに向けて小さな手をかざす。
壊した瞬間の相手の反応を見ようと、手はそのままに顔だけ上げて豆太郎を見た。
だが豆太郎はソーハを見てはいなかった。驚愕に満ちた顔で、ソーハの背後を見つめていた。
「?」
ソーハも彼の視線を追って振り返る。そしてそこにいた生き物を見て拍子抜けした。
(なんだ、ビッグビークか)
ビックビーク。ダンジョンに生息する魔物の一種だ。
鋭い嘴に似合わぬ草食性で、雌は1日に数個卵を産む。平たく言えば、ちょっと大きくて凶暴な
普段は集団で行動しているビッグビークだが、群れからはぐれたのだろう。
よく見れば足を怪我している。
そしてビッグビークは、あろうことかダンジョンの主であるソーハに飛びかかってきたのだ。
おそらく怪我をして迷子になり、
(バカが)
ソーハは心の中でため息をついた。
これを吹っ飛ばして、それからもやしをふっ飛ばそう。
そう決めた瞬間だった。
「避けろ、坊主!」
「は」
背後からの衝撃を喰らって、ソーハは地面にべしゃりと倒れた。
がしゃんと何かが倒れる音、ビッグビークの鳴き声と、水音。
背中が重くて動けない。おそらく豆太郎が自分を守るように
ソーハは呆然としていた。自分の状況がとっさに理解できなかったのだ。
だって人間に庇われるなんて、思ってもみなかった。
「いてて……、大丈夫か、坊主」
背中の重みが消える。
ソーハはのろのろと起き上がった。
視界に映ったのは、地面に座り込んだ豆太郎と、
どうやらビッグビークは、勢い余って水に飛び込んだらしい。間抜けなことだ。
「あーあーあー」
豆太郎が体を起こし、錯乱するビッグビークの元へと向かった。
まさか助けるつもりだろうか。
信じられない。先日のビッグホーンといい、彼の感覚はどうなっているのか。
ソーハは呆然と豆太郎の様子を目で追っていたが、地面に落ちたあるものに気がついて叫んだ。
「あああ!!」
「うわっ、なに!?」
豆太郎もつられて声をあげる。
彼は、暴れるビッグビークを水から救出したところだった。
ソーハは指差して叫んだ。
「も、もやしが!」
そう、豆太郎が世話をしていた、黒と緑の豆もやし。
その容器が見事に地面にひっくり返っていた。
水はこぼれ、伸びた芽がぐちゃぐちゃにこぼれ落ちている。そんな無惨なもやしの様子を、ソーハは呆然と見つめた。
「あー、やっちまったな」
あまりにも軽い豆太郎のリアクションにソーハは眉を吊り上げた。
「なんだ、そのリアクションは!」
「え、なにが?」
「もやしが壊されたんだぞ! もっと絶望して泣き喚け! 床を抉るように地団駄を踏み、地面に背中をこすりつけて暴れろ!」
「ええー……、三十路にはちょっと厳しいリアクション……」
豆太郎は戸惑った。いい年のおっさんがそれをやると、なにか大事なものが失われそうな気がする。
けれど、ソーハがもやしにそこまで愛着を持ってくれたのだと思い、ちょっと嬉しかった。
(観察日記のおかげかな。食べ物を大切にする考えが生まれたのはいいことだ)
達成感を感じながら豆太郎は頷いた。
「な、なんだ。なんで笑いながら頷いている」
大切なもやしがひっくり返ったのに、怒るどころか嬉しそうな豆太郎が不気味で、ソーハは一歩後ずさった。
「はは、悪い悪い。豆は洗えばなんとかなる。それより、お前が無事でよかったよ」
豆太郎はソーハの髪を無遠慮にかき回した。
ソーハは思わず固まり、されるがままになってしまう。
「なあ、そろそろ名前教えてくんねえ? 坊主だけだと呼びにくい……」
「コココココ!」
「うわびっくりした!」
助けたビッグビークが、カゴの中で暴れだした。豆太郎は慌ただしくビッグビークの元へと駆け寄る。
「あー、落ち着け、落ち着け。また水に落ちるぞ。坊主、そっちの布を……、あれ?」
豆太郎が振り返った時には、ソーハの姿は忽然と消えていた。
地面には、彼の書いていた観察ノートだけが取り残されていた。
□■□■□■
「おかえりなさいませ、ソーハ様」
「…………」
ソーハは無言でレンティルを見上げ、そのまま寝床に向かった。
「今日は災難でしたね。はぐれビッグビークが出てくるとは」
「レンティル」
ソーハはレンティルに背中を向けたまま、静かに告げた。
「……明日、あいつを元の世界に返す」
レンティルは眼鏡の奥で目を見開いた。
「よろしいのですか。あの男はまだ」
「いいんだ」
大切なものが壊れても、豆太郎はまったく変わらなかった。
きっと自分が何をやっても、あの男は怖がらない。
これ以上共にいれば、おかしくなるのはきっと自分の方だ。
ソーハは毛布にくるまって、きつく目を瞑った。
心にぽっかりと穴が空いたような感覚には、気づかないフリをした。
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