逃亡せよ、むくつけき民衆から

東の空に朝日が昇り、小鳥たちがさえずりはじめる。

 どーも、上岡です。私は今、山あいの旅籠にいます。王都や港街に比べると、人も店も少なく、見渡す限り森か畑。大変にのどかだ。

ここに来てもう一月ほどになる。

 本音を言うと、この生活にも飽きて来たしそろそろ帰りたい。原稿も書くし、姫の寵愛もおとなしく受けるからさ。

 それなのに、なんだってこんなところにとどまっているかというと、姫の使い込みが明らかになったからだ。

 山師まがいに騙されて、異世界へつながる蒸気機関車の開発に手を出し、湯水のごとく金をそそぎこんだらしい。

 そりゃあもう、国庫が傾くほど。

 今までは作家に対する姫の寵愛も、ほほえましく見守っていた民衆も今度ばかりは黙っていなかった。

 あれもこれも、例の妙ちきりんな作家にそそのかされたせいに違いない。

 民衆の不満は愛らしい姫君ではなく、おかしな小説家に向いた。

 というわけで、発明されたばかりのラジオと有り金すべてを持って、私はこの村に逃げ延びてきたのである。

 旅籠の亭主の横っ面を札束でひっぱたき、従姉妹の娘という体で居候中だ。

 だが、ここ最近はラジオから聞こえる都会の声にも「いつまでもちんけな作家ごときにかまけている場合ではない」というものが混じりはじめ、ほとぼりの冷める気配があった。

 ふふ、計画通り。

 あと二週間ほど過ぎたら、編集と姫に頭を下げて王都に戻ろう。気楽な印税ライフに戻るのだ。

 そう、考えたときだった。

「なあ、あんた」

 旅籠の亭主が私の部屋にやって来た。

「あれだけもらった手前、やっぱり悪いと思うから白状するけど」

 チワワみたいにつぶらな目をした亭主は、丸い体を縮こませ心の底から申し訳なさそうに言った。

「西の村から追手が来ている。千人はいる」

 民衆たちの怒りの火が息を吹き返し始めたのは、とある人物がこの世界に出現したせいだ。

 ラジオのスピーカーが懐かしい声を吐き出す。

「コラァ! 上岡ァ!」

 まぎれもなく、リョーコ先輩だった。


 ここで少し時を戻そう。私が最初の単行本を出したときのことだ。

「少しパンチが足りないね」

 編集は私の原稿を一読するなりそう言った。

「話の筋は王道だし、舞台も一風変わっていて面白い。文章も及第点を超えている。でも、何か足りないんだよな」

 編集は玄人ぶって偉そうにため息をつくが、そんなことを言われても困ってしまう。だって、その「何か」が分かれば、わびしいOLなどさっさと辞めて現世でとっくに夢の印税生活に入っているはずだからだ。

「子爵には大ウケでしたよ」

「そりゃあ、キミが直接身振り手振りを交えて面白おかしく話したからだ。文章だけで面白味を伝えるには、もう一つ必要なんだよ。そうだな、たとえば、」

編集はぱちんと指を鳴らした。芝居がかった仕草だった。業界人というのは、どこの世界も嫌味っぽいものなのだろうか。

「実話ってことにするのはどうだろう?」

 うんうん、それがいい、と素晴らしい名案を思いついたかのように、編集は何度もうなずいた。

 しかし、私は気が乗らない。

「いや、でも嘘をつくのはちょっと…」

 罪悪感ってやつもあるし、親に顔向けできないような詐欺師稼業には手を染めたくない。何よりバレたら怖いし…

 私が口ごもると、編集はウィンクを一つ投げかけた。

「そんなの気にすることはない。どうせ本当のことなんて誰も確かめようがないんだから」

 先立つもののない私は、この甘言にうっかり乗ってしまったのである。


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