第三章 満ちる本
第11話 満ちる本①
俺が図書委員に所属してから一週間が経とうとしていた。少しずつだが、この仕事にも慣れてきた。
と言っても、俺にできることは受付で生徒からのレファレンスに応対したり、返却された本をチェックして本棚に戻すことくらいだ。特に難しい仕事はやっていない。日頃から人より多くの本を読んできたせいか、レファレンスで苦労することはほとんどなかった。既に、自分よりも図書委員としては少しだけ先輩にあたる羽原よりも実績を残せている。
そしてその対価として、俺は第二多読室にこもって、哲学者ニーチェ・クロイツェフの著書『善悪を超えた領域』を読んでいた。
国家図書館などでしか目にすることができないと言ってもいいレベルの、超激レアなプレミア本である。
絶版なうえに、希少すぎてネットで古本を探してもヒットすることも皆無。それが当たり前のように置いてあるのだから、我が校の図書室の蔵書数は本当に異常である。もはや、これが現実であることを受け入れられないほどだ。
きっと今、鏡を見れば俺の気持ち悪いニヤニヤした顔が映り込むことだろう。
そして俺の傍には、ニーチェが『善悪を超えた領域』に自分なりの答えとして書いた『道徳の彼岸と系譜』が置いてある。
これをセットで読むことのできる贅沢を、俺は深く噛み締めていた。
「燈画、ずいぶんと楽しそうだね」
すると、横から白銀色の髪をした小柄な少女が俺の顔を覗き込み、珍妙なものでも見るかのように目を細めている。
「うおっ! せ、先輩! いつからそこに!」
「君がウキウキでこの部屋に入ってきて本を読み始めた時よりもずっと前からだよ。ここは薄暗いし、積んである本が邪魔で私の姿はよく見えないからな。単純に燈画が見落としたんだ」
先輩、自分が小さいって自覚は結構あるんだな。正直、マジで気がつかなかった。
「仕事にも慣れてきて調子いいらしいじゃないか。難解なレファレンスなど特になければ、少し語り合わないかい?」
そう言って、先輩はナチュラルに俺の隣へと腰を下ろした。
この人、引きこもりのくせに人よりパーソナルスペース狭いんだよな。
年頃の男子にとって、女の子の隣というのは相手が誰であっても少しドキッとする。
「しかし、ニーチェの書いた『善悪を超えた領域』と『道徳の彼岸と系譜』とは、本当に高校生なのか疑いたくなるチョイスだな」
「は、はは……そうですよね」
たしかに、拗らせている中学生ですら読んだりはしないだろう。
「私も一度読んだことがあるよ。初めて目を通した時は、ニーチェは哲学者に恨みであるのかと感じたほどだが、彼らが道徳的に欠けているのも事実なんだよね。それについてニーチェ自身が答えとして提示したのが『道徳の彼岸と系譜』だが、第三論文まで一気に読み進めてしまうほどだったよ。善性についてはありきたりだが、人間の持つ善悪の負い目を記憶力という観点から攻めるのは非常に興味深かった。能力として必然的に差別化されるものだが、普通なら一般的すぎて疑問にも感じなかっただろう」
人間は何かに対して責任を負うことができ、罪悪感などを持つこともある。だが、それは感情的なものではなく、そもそも過去の事象を覚えていることが可能な人間の能力あっての感情だと、ニーチェは指摘した。
負い目などを感情ではなく、知識や記憶の概念で結びつける論理は、後にも先にもニーチェ固有の表現だ。
さすが先輩、よく目を通してる。複雑な内容を忘れずに知識として記憶できている点は、単に本を読むことが好きというだけで得られる力ではない。
「ニーチェの代表作を語り合える学友なんて、人に話しても信じてはもらえないだろうね」
「いや、そもそも学校の図書室にニーチェの代表作が置いてあるって時点で信じてもらえないですよ。これがどれだけ貴重な本か、先輩ならわかるでしょうに」
「ふふ、まったくだ。おっと、だからと言って盗んだりしてはダメだぞ? あくまで許されているのは貸し出しまでだ」
「そんなことしませんって」
「まあ、私は君を信じているが、他の人はどうかわからないぞ? 誰しも出来心から犯罪に手を染めてしまうなんて、別に不思議ことでもないからね」
言いたいことはわかるが、やはりどこか非現実的に感じてしまう。ドラマや小説では、給食費が盗まれるという定番の事件があったりするが、現実では体験したことがない者がほとんどだろう。無論、実例がないというわけじゃないが、それでも犯罪というものは、現実と乖離しているように思える。単に、俺が楽観的なだけかもしれないが。
「この図書室には、絶版の本や中々手に入らないマイナーな本がたくさんある。バイトするよりも遥かに儲かるだろうね」
「それこそ、盗む必要ないでしょう。この図書室を利用できる生徒なら、盗まなくても借りれば済む話じゃないですか」
「でも絶版作品にはプレミアがついていて、恐ろしく高かったりするよ。お金目当ての犯行なら、十分にこの図書室は宝の山なんじゃないかな」
たしかに、そう言われれば納得できる。本はあくまでも読み物だが、必ずしも読むだけに使われるとは限らない。値打ちのある本を売って儲けようという者が出てきても、別におかしくないというわけだ。そしてそれが生徒や教師であっても変わらない。お金とは、それほどまでに人を変貌させてしまうのだから。
「しかし、俺には理解できないですね」
「ん? 何がだ?」
「本を売るなんて、ありえないですよ。俺は将来、たとえ本に押しつぶされて命を落としたとしても本望です」
「あー、本だけに?」
「低次元なことを言うのはやめてください」
「ふふ、ごめんごめん。でもたしかに、君は蔵書を集めて潰れてしまいそうだな。そう言う意味では、非常にその将来が心配だよ」
将来の心配って、先輩にだけは絶対に言われたくないんですが。
いや、むしろ俺と違って学がある分、苦労とかなかったりするのだろうか。
「そうだ、君には何か将来の夢とかはないのかい?」
「なんですか……急に」
「別に流れ的にはそこまで藪から棒でもないだろう? やっぱり本を扱う仕事に就きたかったりするのか? 例えば図書館の職員とか」
「それって、まんま今の状況と同じじゃないですか」
「ふふ、たしかにな、ここは普通の図書館よりも蔵書が充実している。既に経験しているに近いわけだ」
「それに俺は、別に図書館の職員になりたいとは思ってませんよ。むしろ仕事に集中できません」
「あー、それはあるかもしれないなぁ、私の園であるこの第二多読室にまでずかずか入ってくるほどだし」
いや、普通は誰かが私物化してるなんて思わないから、生徒も利用できて当たり前だから。
「あ、そうそう、急に話を変えて悪いが、図書委員の仕事で一つ伝えなければならないことがある」
「一気に真面目な話題にすり替わりましたね。で、なんですか?」
「蔵書チェックだよ。ほら、例の上巻が紛失した下巻、覚えてるでしょ?」
当然、忘れるわけがない。俺が先輩の推理力を知ったのは、一度も読まれたことがないという謎めいた本の事件からだ。事件、と呼べるほどではないが。
実はあの後、本当に上巻が抜け落ちている下巻が見つかったらしい。先輩としては依頼者を納得させるのが目的だったが、実際は本当に正解を導き出していたのだ。
「あの件で、他にもイレギュラーがないか調べるって話になってね、それが明日の放課後に決まったんだよ。でもこれ、本当は毎月恒例の業務なんだよね。今月は二回目になるのかな」
「なるほど、たしかにこれだけ多いと見落としとかが他にあっても不思議じゃないですよね。改めてやるのはいい考えだと思います」
「私としては大丈夫だと思うが、やらないわけにもいかないからな」
当然、それで後から問題が起きた時、何もしていなかったとなれば司書や図書委員会の責任になってしまう。つまり形だけでも、一応やっておいたほうがいい。自分たちは良くても、この図書室を利用する他の生徒を納得させなくては意味がないからだ。
「てことで、今のうちにチェックリストの方は渡しておくから」
「一人ずつ、自分の目で確認するんですか?」
「この数は面倒だけどね、手分けしてなんとかって感じになるかな」
三万冊以上ある図書室の蔵書チェックか、下校時刻までに終わればいいが、恐らく長丁場になるだろうな。
「まあ、まさか盗まれるなんてことはないと思いますけどね」
俺は発言してから気づいてしまった。これはフラグ、というやつなのではないかと。
このことに後悔の念を抱くのは、当日になってのことだった。
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