トラントの渓谷
この世界も冬があるようで、朝はだいぶ遅れてやってきた。時計がないので正確な時間が分からないが、そろそろ六時くらいにはなるだろうか。
こんな朝早い時間でも市場はすでに始まっている。早朝から出立する冒険者たちが色々と買い込んでいくからだ。
教会前広場からほど近いこの宿屋は、その喧騒がかすかに聞こえてくる。人々の活気が目に見えるようで、聞こえてくるその音を望海は心地よく感じていた。
三十分ほどで支度をして宿の広間に行くと、
「おはよう。気が利くわね」
「おう、おはよう。朝市が気になって色々見てたんだ。せっかくだし一緒に食べようぜ」
香ばしいにおいの丸いパンと、香辛料のようなものがかかった鳥の肉が紙袋の中に入っていた。匂いをかぐだけで口の端がキュッとなって唾が勝手に出てくる。
それにしてもこっちの食生活にギャップがなくて良かった。生肉を丸かじりする食文化が中心の世界だったら早々に餓死していたに違いない。
「美味いなこれ……!」
「……。……!」
明の選んだ朝食はとっさに言葉が出ないほど美味しかった。それでもその気持ちを共有したくて赤べこのように首を縦に振りまくる。
「食いきってから返事しろよ……」
「……んぐ。マジで美味い……帰ってきたら絶対リピするから、あとで店教えなさいよね!?」
私の勢いに若干引きながらも明は地図を広げる。それは、王都から北西に分布する『トラントの渓谷』という瘴気域周辺のものだった。
「それは良かった。次の行先はここにしようと思うんだけど、どうかな?」
私もそれには異論がなかった。ドルボォスの森よりも難易度が低い瘴気域として名前を聞いていた場所だ。自分たちの瘴気耐性を探るには丁度いいだろう。
「賛成。どのくらいに出る?」
宿屋のチェックアウトもそうだし、保存食などを色々……できれば一週間分くらい買い込んでおきたい。大荷物にはなるだろうから準備の時間が欲しかった。
「とりあえず昼くらいには出立したい。荷物をまとめる時間があるからさっさと買い物に行きたいんだけど大丈夫か?」
「了解。チェックアウトしてくるから十分くらいで宿の外の通り集合で」
昼から出たとしても目的地に着くのは夕方だ。さっさと動いた方がいいだろう。
十分後。予定よりわずかに早く集合した私たちは市場へと足を運んでいた。
「買わなくちゃいけないものって?」
お金周りは完全に明に任せている。計算が苦手というのも理由としてあるが、現実ではお金を貯めるために節約をし過ぎていたため、必要なものを買うのを我慢してしまうという恐れがあったからだ。
「とりあえず二人分の保存食を一週間分。それと前の任務で使った
「OK。さっさと買って回りましょ」
まずは食料品の購入。詩片のおかげで重たい水を買う必要がないのはこの世界の良いところだ。乾パンや干し肉、干し魚と元の世界ではあんまり口にしたことのないものばかりだ。
詩片の取り扱いは教会の中でしか行われていない。魔法の内容にもよるが、大体のものが食事一食分から宿屋一泊分までが相場だ。大規模な威力を発揮する詩片もあるらしいが、そういったものは個人向けでは滅多に取り扱いされないそうだ。
「個人で買えない詩片っておいくらくらいなんだろうね」
「数百万ガルとか? どんなことできる魔法なのか想像もできないな」
ガルと呼ばれるこの世界の通貨は金銀銅の硬貨で取引されている。それぞれの価値は銅貨十枚で銀貨一枚、銀貨十枚で金貨一枚といった具合だ。
とりあえず、前回消費した分と追加をいくつか。他より割高な回復の詩片も前回の稼ぎのおかげで買うことができた。
あとは色々な雑貨や荷物を収める大き目なバッグを買ったら予算は空っぽだ。
「ナイフは買えなかったか」
「とりあえずは予備でどうにかするしかないわね」
教会に寄ったついでに併設された組合で瘴気域探索の申請をする。これは組合で冒険者の人数を管理し、必要なら救助を行うためなのだという。
「トラント渓谷ですね~。植物系の魔物が多く出没するので解毒薬は多めに持っていくのをお勧めしますよ~」
受付さんのアドバイスをありがたく受け取りながら手続きを済ませる。サーシャさんたちにこの場所を紹介してもらった時に、同じことを言われていたので解毒薬は十分な量を買い込んである。
外に出るころには、予定通り昼に差し掛かるくらいの時間になっていた。腹ごしらえに買ったハンバーガーみたいな食べ物を昼食にする。
「よしそれじゃ、しゅっぱーつ」
「おー」
今回は攻略が目的ではない。それもあって前回ほどの緊張はなく、掛け声も自然と緩いものになった。
***
休憩もはさんで大体三時間ほど。前回とは違い大荷物なのでそれなりに時間がかかったが、ようやくトラント渓谷と思われるエリアにたどり着いた。
「こっちに来た時はあんまり気にならなかったけど、なんか……違和感のある空気よね」
「最初気にしてなかったのかよ。鈍感すぎないか?」
「それより気にしなきゃいけないことが多くて余裕なかったの!」
トラントの渓谷はその名の通り、川沿いに瘴気域が広がっている。そのため、エリア自体は細長く伸びていて、最奥にたどり着けた人は未だにいないのだという。
「で? 今回の探索の目標は?」
目標を明確にするために、依頼の度にすると決めた打ち合わせだったが、直前のやりとりの照れ隠しもあってつっけんどんな言い方になってしまった。
明はそれを意に介さず私の質問に答える。
「今回は俺たちの瘴気耐性がどれだけもつかの検証だ。だから、俺たちはあまり奥へは進まない。帰るのも大変だしな。とりあえずこんな感じか?」
「OK~。とりあえず毎日三回それぞれの健康状態を報告し合うこと。お金稼ぎは魔物の集魔石を集める感じで」
探索を進めて未発見の地域の地図を作ることができれば、その情報を組合が高値で買い取ってもらえるが、今回はアテにできない。
「よし、事前打ち合わせはこんなもんか。もうちょい奥に行って開けたところに陣地を作るぞ」
約二十分ほど奥に進むと、開けた河原が見えてきた。しかし、数体の獣もそこで水分補給をしているようだった。
「あれって魔物?」
望遠鏡のような魔道具を覗き込む明に声を潜めて聞いてみる。いつの間にそんなものを買っていたのかとも思うが、役に立っているので今回は不問にすることにしよう。
「う~ん……目は赤くないしたぶん普通の野生動物かな。どうする? 食料にするか?」
持ってきた食糧はなるべく大事にしたい。そのためにも、狩りは必要になると考えていたところだ。
「ええ、さっそく新しい詩片を試してみてもいいかしら」
王都で購入した新しい詩片を試し打ちするにはいい機会だ。ローブのポケットから取り出した詩片と天使を、体の前で構えて魔法を撃ちだす準備に入る。
「待て! なんかおかしい!」
せっかくの機会だったのに。そんなことを考えて詩片を下ろす。
唇を尖らせながらそれらを観察してみると、確かに様子がおかしいことに気付いた。それらは突然痙攣した後、バタバタと倒れだしたのだ。
「なにアレ……」
呆然とする私たちの目の前でまた不可思議な現象が起こった。倒れた動物たちの体が、何かに引きずられるかのように同じ方向に動き出したのだ。
「植物型だ!」
明の言葉でようやくピンときた。憐れなあの動物たちは植物型の魔物の毒によって身動きが取れないようにされてしまったのだ。
「どうする? 離れる?」
幸い距離はあるため逃げようと思えば逃げられる。しかし、これだけ開けた水場と魔物の落とすであろう集魔石を手放すのは少し後ろ髪を引かれるものがあった。
昔から作戦立案は、主に明の役目だった。私の無茶ぶりに毎回作戦を考えてきたという実績への信頼があるから、今回も彼の指示を仰ぐ。
同じことを悩んでいたようで、明もしばらくうんうんと唸っていた。しかし、何かを思いついたようで、こちらに耳打ちしてくる。
声変りをすっかり終えた低い声がちょっとだけくすぐったくて、小さく身をよじる。
「やっぱりここは拠点として手放すのが惜しい。それに、動物型じゃない魔物を倒す経験を得るためにも、あいつは今ここで倒そう」
幸いにも身もだえする私の様子に気が付くことはなく、簡単な作戦を明は続けた。
「俺が突っ込んで本体を攻撃する。やつは触手みたいな
「それ、私が遠くから攻撃すれば済む話じゃないかしら? わざわざアンタが突っ込まなくても……」
「いや、あの触手がこっちに届く可能性もある。触手に捕まって毒で動けなくなったら一気にゲームオーバーだろ? その点、俺は機動力だけはあるから逃げるのだってそこまで難しくない」
「それ、本体にアンタが到達するまで、私が触手を撃ち漏らしたらどうするのよ」
「望海なら大丈夫だろ」
心配する私の気持ちを知ってか知らずか、明はケロっと言ってのけた。
「気軽に言ってくれるわね……まあいいわ。私はアンタが飛び出した後に伸びてきた触手を片っ端から撃ち落とす。これでいい?」
「上出来だ」
すでに明は準備万端のようだ。腰のホルダーに刺していたナイフをすでに構えて、風の詩片をいつでも使える状態だ。
(人の気も知らないで……! ならやってやるわよ!)
作戦が決まったら最後まで私はついていくのみ。ローブをはためかせて両腕を突き出す。右手に天使の髪飾りを。左手に火の詩片をそれぞれ握りこんで準備完了だ。
「よし、いくぞ!」
【コード:ウインド=エクシード】
クラウチングスタートのような低姿勢から射出される明。弾丸のような速さで魔物との距離を詰める。
さしもの魔物も反応が遅れて、触手の行き場が定まっていないようだ。急場しのぎで彼の進路をふさぐように、触手が展開される。
【コード:ファイア】
天使に詩片をこすりつけて魔法を発動させる。
私にはフーラさんのような命中精度はないので数で勝負だ。
無数の火球が望海の周りに展開する。しかしそれだけでは止まらない。
ただの火球じゃ明に追いつけない。だから、求めるのは着弾までの速さ。
【コード:サンダー】
詩片二枚の同時使用。格段に制御が難しくなるが、望海は鼻で笑ってねじ伏せる。
(明の魔法に比べればこれくらい屁でもないわ!)
火球に雷の性質を混ぜ合わせる。イメージするのは雷光の速度で敵を焼く散弾。
明に殺到する触手たち。しかし明は最低限の動きでしか回避を行わない。
望海は自身の口の端がわずかに上がるのを感じる。彼は私に全幅の信頼を置いているのだ。この触手は私が対処してくれると。
「全く……やってやろうじゃない!」
「――
火と雷の合わせ技。無数の火球が、雷光のごとき速度で触手に迫る。狙いがそれていくつかどこかへ飛んで行ってしまったものもあるが、数が数だ。いくつも伸びる触手だったが、どれも明に触れる前に焼き尽くされる。
この隙を逃す明ではなく、本体をしっかりと仕留めたようだ。重たいものがドサッと倒れる音がする。
「明~! そっちに行っても大丈夫かしら!」
明は大丈夫だというように手を振ってくれたので、魔物の死体に駆け寄る。着いた頃には完全に灰になっていて、消化されていなかった動物の死骸と拳大の集魔石がそこには転がっていた。
「ナイス援護!」
明が片手を上げて手のひらを見せていたので、私も同じようにしてハイタッチ。実戦で初めて使った連携魔法が予想以上に上手くいったので、かなり気分がいい。
「さっきの奴って練習してたのか?」
「まあね。フーラさんが最初にやってたみたいなことを出来ないかなと思って」
フーラさんは矢に風の魔法を二重に纏わせて、速度と追尾性能を付与していた。それと似たようなことができないか、私も色々試していたのだ。
明は、足元に転がる動物の死骸を指して言う。
「この動物も
あの魔物は現実でいう捕食植物のような生態だったのだろう。食べられた動物の毛皮の一部がすでに溶けている。しかし、その肉自体はまだ溶かされていない。
「しっかりと水で洗った後、皮を厚めに剥いでから料理に使いましょ」
「うへえ」
「文句言わない。洗うのは川でいいから、あっちまで移動するときに直接触れないようにね」
全部で三体の死骸は小規模な群れだったらしい。ウサギのようにも見えるが、とくに耳が長いわけでもないので、イマイチしっくりくる呼び方が浮かばない。
帰ったら図鑑でも眺めてみようかなんてことを考えながら、死骸を水洗いする。ついでに腹をさばいて内側もしっかり洗う。
「うぅ……なんでそんなに手際よくできるんだよ」
ナイフが武器のくせに明のナイフさばきは恐ろしく鈍かった。
「こんなのは慣れでしょ。現実の猟師さんだってやってるって考えたらどうってことなくない?」
「俺は慣れるまでもうちょいかかりそうだわ……」
「男のくせに……」
「なんか言ったか!?」
「なんでもな~い。ほらさっさと手を動かす!」
「へいへい」
三体あった死骸の内、二体は私がさばいて今日の夕飯にした。明がさばいた分は保存用に加工すればいいだろう。
今いる河原を野営地として利用できるように、手分けして整備する。灯りの魔法が使えない明は、松明で片手が塞がって大変そうだった。
獣除けの匂い袋を設置したり簡易的な罠を設置したりで、なんとか一息つくころには夜もいい時間帯だった。今日からはそれぞれで見張りをして周囲を警戒することになるだろう。
「とりあえず、俺が起きてるからしばらく寝てて大丈夫。交代のときは起こすから」
明が先に寝ずの番をしてくれるようだ。お言葉に甘えて寝具に潜り込む。
一日目は大きな波乱もなく超えることができたという達成感と共に、私は眠りに落ちていった。
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