二小節目
転校して数日が経ったある日のこと。
「お前の母親、ヤバイ店で働いてるんだろ?」
クラスメイトのひとりが俺にそう言った。その男や周囲にいる男たちの顔が何とも不愉快で、俺は聞こえないふりをした。
「おい。黙ってないで、なんか言えよ」
男が乱暴に肩を掴んできたので、思わず殴り返してしまった。
転校早々、問題児となった俺は、周囲から危ない奴だと避けられるようになった。問題児なら問題児らしくあれと、後日、髪を銀色に染め、両耳にピアスを開けた。どうでもいい連中とつるむよりも、ひとりでいる方が気が楽だった。
その日は確か雨が降っていた。
当番だった美術室の掃除を終えて鍵を返しに行こうとしたその時、遠くで懐かしい曲が聞こえた。ピアノの音色に誘われて辿り着いた先は、旧校舎にある第二音楽室だった。
扉を開けると、ひとりの女性がピアノを弾いていた。年は二十代前半だろうか。目の覚めるような美しい人だった。
彼女は俺の視線に気づくと、ピアノを弾く手を止めた。
「びっくりした。いつからそこにいたの?」
「驚かせてすみません。あの、今の曲をもう一度初めから弾いてくれませんか?」
「生徒はもう帰る時間よ。遅くなったら、ご両親が心配するでしょう?」
「いえ。母はいつも朝帰りなので、家に帰っても誰もいません」
言ってから、失言だったと後悔した。
彼女は椅子から立ち上がると、出口に向かって歩き出した。部屋から追い出されるかと思いきや、彼女はパイプ椅子を手に取り、ピアノの側へ置いた。
「座って。一曲だけ弾いてあげる」
俺が椅子に座ると、彼女は白い指を鍵盤の上に置いた。
その曲は、亡くなった父親が一度だけ俺に弾いて聞かせてくれた曲だった。父親の声も顔も忘れてしまったけれど、この曲だけは不思議と覚えていた。
「大丈夫?」
先生に聞かれるまで、自分の目から零れ落ちるものに気づかなかった。彼女はレースのハンカチをポケットから取り出すと、俺の頬に優しく押し当てた。柔らかい素材のハンカチからは、優しい花の香りがした。
「すみません。普段はこんな風に泣いたりしないんですけど」
「泣くほどよかった?」
ハンカチで顔を覆いながら頷いた。
「昔、父親が弾いてくれた曲と同じだったから。懐かしくて、つい泣いてしまいました」
先生の声を遮るように、最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。
「俺、帰ります。ありがとうございました」
先生に一礼し、音楽室を出ようとしたその時だった。「待って」と、後ろから彼女が駆け寄ってきた。
「あなたの名前は?」
「〆野です。〆野冬樹」
「〆野君。また、いつでも聞きに来てね」
彼女の無邪気な笑顔に、胸がドクンと跳ねあがった。
その日から、放課後になると彼女のいる音楽室へ行くようになった。
先生は俺が音楽室に行くと、いつも笑顔で迎えてくれた。彼女と他愛ない話をして、時にはピアノを教えてもらい、そして、最後には必ず例の曲を弾いてもらった。
高校二年の夏休みが終わり、いつものように音楽室へ入ると、先生が手を振って歓迎してくれた。
先生の左手薬指にはめられた指輪を見て、俺は、あ、と呟いた。彼女は俺の反応を見て、少し照れくさそうに笑った。
「この夏休みに結婚したの。苗字は変わったけど、これまで通り、柊木先生って呼んでくれていいからね」
「柊木先生」
「なに?」
愛おしそうに指輪に触れる先生の手を強引に掴んでキスしたいと思った。
あなたのことが好きです。結婚したその男よりも、俺の方がずっと先生のことを大事に出来ます。なんて、言えるわけがなかった。
「良い人に出会えてよかったですね」
「うん。ありがとう、〆野君」
自分の口から乾いた笑みがこぼれた。
彼女を自分のものにしたい。俺以外、要らないと思われたい。ヘドロみたいな汚い感情が、腹の奥底に溜まっていくのを感じた。
残り一年と半年。俺が卒業したら、きっと先生は俺のことなんて忘れてしまうだろうから、この気持ちは胸にしまっておこう。美しい思い出だけ大事にしようと、自分にそう言い聞かせた。
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