四小節目

 向日葵畑から家に帰る頃には、疲れが限界に達していた。

「無理させてごめんね」

「気にするな。俺がしたくてしているんだから」

「ありがとう。ハルちゃんは優しいね」

 突然、真冬の顔がぐにゃりと歪んだ。目をこすり、もう一度真冬を見た。部屋に置かれたピアノも、真冬のお気に入りだった花瓶も、はっきり見えるのに、真冬だけがなぜかぼやけて見えた。

「ハルちゃん、どうかした?」

 心臓が早鐘を打ち、背中にいやな汗が浮ぶのが感じられた。

「ごめん。夕飯を買うのを忘れたから、近所のスーパーまで行ってくる」

「私も行こうか?」

「疲れただろ。すぐに帰ってくるから、真冬はここにいてくれ」

「分かった。気をつけて行ってらっしゃい」

 玄関の扉を閉めた後、息を深く吸い込み、ゆっくりと吐いた。

『ハルちゃんにもう一度会うために、少しの間、この子に身体を譲ってもらったの』

 真冬の言葉を思い出し、小さく舌打ちした。

 俺の目がおかしくなったのではない。真冬がこの世に留まれる時間が迫ってきているのだ。

 真冬が再びいなくなるなんて想像するだけでぞっとしたが、いくら願っても、時間は止まってはくれない。

「よし、やるぞ」

 両頬を叩いて気合を入れ直すと、俺は全力疾走でスーパーまで向かった。


「ただいま」

 家に帰ると、真冬がピアノを弾いていた。俺が帰ってきたことに気づくと、真冬はピアノを弾く手を止めた。

「おかえりなさい」

「懐かしいな。真冬が好きで、よく弾いていた曲だ」

「父が私のために作ってくれた曲だから、最後にもう一度弾いておきたくて」

 譜面台に置かれた楽譜には、『愛する我が子へ』というタイトルが書かれていた。

「父の声も顔も、もう朧げにしか覚えていないけれど、この曲だけはずっと私のそばにいてくれた。とても大事な、私の宝物」

 真冬が消えたら、もう二度とこの曲を聞くことはないのだと思うと、胸が苦しくなった。

「真冬。今の曲をもう一度初めから弾いてくれないか」

「もちろん。何度でも弾いてあげる」

 真冬はもう一度例の曲を弾いてくれた。その演奏は、泣きたくなるほど悲しく、美しかった。


 夕飯を食べた後、真冬と夜の散歩に出かけた。近くの河原に着いたところで、リュックからライターと花火セットを取り出した。

「なんで花火?」

「叶えたいことリストに書いてただろ。俺と花火がしたいって」

「書きました」

 袋から花火セットを取り出し、そのうちの一本を真冬に渡した。

「線香花火をするのははじめてか?」

「うん、はじめて。ずっとやってみたかったんだけど、なかなかする機会がなくて。結局一回も挑戦しないまま、死んじゃった」

「それじゃあ、なおさら楽しんでもらわないとな。ほら、火をつけるぞ」

 はじめは緊張していた真冬だったが、花火に慣れてくると、次々に火をつけ、子供のようにはしゃいでいた。

「これで最後だね」

「そうだな」

 暗闇に二つの火花がパチパチと爆ぜた。

「ハルちゃん」

「どうした?」

「私の夢を叶えてくれてありがとう」

 真冬の姿がぼやけて見えるのは涙のせいだと言い聞かせながら、俺は静かに頷いた。伝えたいことはまだまだあるのに、思うように言葉にならないもどかしさに苛立ちが募った。

「真冬、好きだ。愛してる」

「私も。ハルちゃん、今までありがとう」

 真冬は泣きながら笑っていた。頼むから、そんな悲しい顔で笑わないでほしい。

「ありがとう、なんて言うなよ。真冬の叶えたいこと、まだ残ってるからさ。全部終わるまで、俺のそばにいて」

 ぽとりと、彼女の花火が地面に落ちた。次の瞬間、真冬は糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。

「真冬!!」

 その後、何度彼女の名前を呼んでも、真冬が目を覚ますことはなかった。


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