二小節目
真冬が死んでから、何日が経過しただろう。時計の針は進んでいるのに、自分のなかでは時が止まっているように感じた。寝ても覚めても真冬のことばかり考えてしまって、もう二度と彼女に会えないのかと思うと、死にたいとさえ思ってしまう。
「もう一度。もう一度だけでいいから、お前に会いたいよ。真冬」
ソファの下に転がっていた薬瓶を手に取り、錠剤を口の中へ放り込んだ。
夢を見た。
真冬が台所で何かを作っていた。テーブルには、すでに鰆の西京漬けやほうれん草のおひたし、ナスの漬物が並べられていた。
「うまそうだな」
「ハルちゃんが好きなものを作ったよ。口に合うといいんだけど」
真冬がお椀を両手にテーブルへやって来た。豚汁の登場に歓声をあげる俺を見て、真冬は嬉しそうに笑った。
「・・・・・・ん」
豚汁の匂いに、ふと目が覚めた。
「豚汁?」
おかしいのはそれだけじゃない。リビングのソファで寝たはずなのに、今は自分のベッドの上にいた。
ベッドから起き上がり、部屋の扉をそっと開けると、ぐつぐつと何かが煮える音がした。台所を見ると、知らない男が立っていた。
自分の家に知らない人間がいると分かると、俺はすぐに部屋の扉を閉めた。警察に通報しなければと携帯を探したが、リビングに携帯があることを思い出し、探す手を止めた。ベランダから逃げることも考えたが、マンションの七階から落ちて無事に済むとは思えない。
男の目的が分からない以上、このままじっとしている訳にもいかない。意を決し、ドアを力強く開けた。
「おい!そこで何をしている!」
男は俺を見て、ふっと微笑んだ。拍子抜けするほど柔和な笑みに、一瞬ひるんでしまった。
「ハルちゃん、おはよう。いや、こんばんは、かな。会いたかった」
男が自分に近づいてきたので、手近にあった陶器の置物を掴んだ。
「お前は誰だ?どうやってこの家に侵入した?」
「私は真冬。ハルちゃんにもう一度会うために、少しの間だけ、この子に身体を譲ってもらったの」
「質の悪い嘘をつくな。真冬は死んだ」
「嘘じゃないよ。二人で決めた鍵の隠し場所が変わっていなかったから、私はこの家に入れたんだよ」
男はそう言って、エプロンのポケットから家の鍵を取り出した。
この家の鍵の隠し場所は、俺と真冬以外知らない。それを知っているということは、彼は本当に真冬なのか。いや、これはきっと罠だ。俺の警戒心を解いた後、俺を殺すつもりなんだ。
「出ていけ!今すぐ、ここから出ていけ!」
俺はテレビのリモコンをつかむと、男に向かって投げた。リモコンは彼のすぐ横にある冷蔵庫に当たった。
「ハルちゃん、待って!落ち着いて」
「黙れ!もう二度と、その名前で俺を呼ぶな!」
声を荒げる俺を見て、男は静かに家を出て行った。
「・・・・・・最悪だ」
男が家の鍵を持ったまま出て行ったことに気づいたのは、彼が去ってから数分後のことだった。
警察に届け出を出すのが先か、鍵を交換する方が先かを考えながらリビングに戻ると、鍋が勢いよく吹きこぼれていた。
火を消し、鍋の蓋を開けると、そこには豚汁が入っていた。何やら嫌な予感がして、冷蔵庫の扉を開けると、ほうれん草のおひたしとナスの漬物が入っていた。
「馬鹿か、俺は」
もう一度だけでいいから妻に会いたいと願ったのは、俺じゃないか。
玄関を飛び出し、マンションの階段を駆け下りた。
「真冬!どこにいるんだ、真冬!」
辺りが暗いせいでよく見えない。
諦めかけたその時、ブランコが軋む音が聞こえた。
「真冬」
真冬と名乗った男は、マンションのすぐ近くにある公園にいた。ブランコに座りながら、ぼろぼろと泣いていた。
「お前は、真冬なんだな」
男はこくりと頷いた。
真冬がはじめて自分のために作ってくれた料理を用意されていたぐらいで、目の前にいる男を信じるなんて、我ながら軽率だと思うが、それでも俺は、目の前にいる男が真冬だと信じたかった。
「真冬、さっきはごめん。一緒に帰ろう」
手を差し伸べると、男は目に涙を浮かべながら俺を見た。
「見ず知らずの人間を簡単に信じちゃダメだよ。心配になる」
「見ず知らずの人間じゃなくて、俺の愛する妻だから問題ない」
「そういうところ、本当に心配になる」
「なんだよ、それ」
吹き出して笑う俺を見て、男はむっと口を尖らせた。その姿が、生前の真冬と重なって見えた。
「帰ろう、俺たちの家へ」
真冬が俺の手をそっと掴んだ。今にも離れてしまいそうなその手を、俺は強く握りしめた。
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