第4話

 夏の深緑ほどの眩しさはないものの、秋の紅葉も目に映える。未だに表情に暗さのあるジーンも、本邸での誕生日パーティーにはその陰りを微塵も見せることはなかった。これをやせ我慢と知っているから姉としてなにもしてやれない不甲斐なさに肩を落とし、ロディの腕に手を絡め身をしなだれさせる。

 ジーンは笑顔でお友達からプレゼントを受け取り、お喋りをして、次の声に金の髪を揺らし振り向きまた笑顔を咲かせている。彼女を遠目に、ロディは呆れた声で吐息する。


「あいつも役者だな」

「けれど、感情を少し大きく表現しているだけで全てを演じているわけではないわ」

「だからタチが悪いんだ。友達にくらい素直に感情そのままで寄りかかればいいだろ。傷が膿んだままでも人は喜べるし笑える。あいつのは単に壁を作って一人で耐えてるって言うんだ」

「……あなた、もうすっかりお義兄ちゃんね」


 驚きに目を丸め見上げると、心外だとでも言うように丸められた目で視線を返される。


「エドが姉になった日から俺だってずっと義兄でいるだろ?」


 そう言われてしまえば手料理への忌憚ない意見は友人を相手にしたものと言うよりも家族としての容赦ないダメ出しだったのかもしれない。

 くすりと微笑み、うんと頷く。


「わたくしが居ない時は代わりに支えてあげてね、お義兄ちゃん?」

「エドの代わりが俺に勤まるわけないが、エドの頼みなら善処する」


 頬を撫でられ目を細める。そのまま近付く唇を受け入れ表面が触れるだけの軽いキスをして、もう一度最愛の妹に視線を向ける。

 釣り好きジーン。水面に伏し目で魚が疑似餌にかかるのを待つ表情は絵画の聖母の微笑みに似ているけれど、それは殺気をきれいに消すための表情筋の努力の賜物であるとお姉ちゃんとお義兄ちゃんは、ちゃんと知っている。……でも、お父様はその殺気にすら気付いていないみたい。

 友人の波が止み、お父様がジーンの前に立つ。プレゼントを携えたメイドがお父様の合図でジーンの前に衣装ケースを差し出し蓋を開け……ジーンは苦笑交じりにお父様へお礼を述べる。

 近付きなにをプレゼントにしたのかを確認し、わたくしの場合は苦笑もしてさしあげずお父様に溜め息を吐く。ジーンの手元には刺繍のための生地に絹糸、高級素材品の詰め合わせがあった。

 噂に聞く淑女のジーンならこの糸布に感激したはず。実際の彼女の好みは釣り具にブーツにズボン。料理も趣味ではあるけれど、使用人が作るものという認識のあるお父様では料理に関するプレゼントなど意識から先んじて除外されたことも理解できる。それでも。


「お父様ったら……」


 ここまで好みに掠らないのであれば助言をして差しあげればよかったと後悔も生まれる。

 苦笑交じりにお礼を述べたジーンの大人の対応にお姉ちゃんは少し悲しくなってしまう。自分にも覚えのある対応だったこともあったけれど、わたくしがもう少し妹のことで父に寛容になれてさえいればこの微妙な雰囲気は防ぐことができたはずですもの。

――こうなったら、わたくしのプレゼントで巻き返すしかないわね。

 よし、と密かに心を燃やし胸元で拳を作ると、このタイミングでロディがジーンへと話しかける。


「ジーン。俺からも用意したものがある」

「……ロドリックさんから、ですか。お姉さまの隣なら今日一番のプレゼントになるんですけど」

「それだけは今後もないから諦めろ。エドが好きな料理のレシピだ。グラム数の違いなく思いつきも奇抜な工夫もオリジナリティもなくこの通りに作ればエドは喜んで完食するだろう」


 差し出したのはラッピングもなにもない一冊のブックノート。これには覚えがある。


「そっ、そんなのなくてもお姉さまは私の料理大好きですう! でもせっかくなので貰ってあげます……」

「貰うだけじゃなくこの通りに作ってやれ。楽しみだろ、エド?」

「ええ、去年から一年かけてロディったらわたくし好みのお菓子をたったひとつ口に放り込むの。まだ食べたいって思ったレシピの詰め合わせになってるから、お姉ちゃんに作ってくれると嬉しいわ」

「ロドリックさんとコソコソしてたのは癪ですが! 作ります!」


 お父様のプレゼントはメイドに託し、手書きのレシピ本を胸にぴょんととび跳ねる。若干ロディのプレゼントに負けそうな雰囲気に怯むけれど、お姉ちゃん、負けないわ。


「私たちからはこちらを」


 わたくしが勇気を振り絞り得た友人――リアーニァさんとすっかりあっさりとお友達枠に収まったジーンは、当然のようにリアーニァさんとレグルスさんをパーティーに招待していた。

 リアーニァさんが取り出したのは一枚のカード。わたくしも中身が見たいと隣から覗き見る。ジーンの手には手描きの……魚のグリーティングカード?


「……釣り、体験……? わぁ……!」


 えっ、あっ、待って、負けそう。ジーンの輝きだした声色に冷や汗が出て背筋をなぞる。


「ジーンさんは魚がお好きのようでしたので。本物ではないですが、私の魔法で出した魚を釣って遊びませんか? 開催日は未定なので、一週間前に仰っていただければスケジュール調整いたしますね。このカードはレグルスが描いてくれました」

「魚釣り! 嬉しいです! とってもとっても! お二人ともありがとうございます!」

「俺は絵を描いただけだが……」

「このカード込みで嬉しいんです! お部屋に飾りますね!」

「……よ、よかったわね、ジーン……」


 今世紀最大の危機。わたくし、こんなに焦ることができたのね。ドキドキと鼓動する胸を抑え、次はわたくしとふたつの箱をメイドに目配せし手元に用意する。

 ベルベット生地の四角いそれは、一見するとただの宝石箱がふたつ。中身は……。


「ルアー?」

「行けるかどうかは別として、海釣り用と川釣り用の二種類、それぞれニ十個セットで計四十個あるわ。市販は半分で残り半分は手作りしてみたの。一年ある、と思ってスケジュールを組んだけれどあっという間だったわね。港街への社交の時に漁師さんに色々聞いてね、ナイフや彫刻刀の類いを使うのは初めてだったけれど、最終的に及第点は貰っているからちゃんと使えるのよ?」

「手作り……! 使います! 一生使います……!」

「お姉ちゃんの手製でよければ古くなったり壊れたりお魚に取られたときにまた作ってあげる。アフターケアも充実しているから安心してね」

「まずはリアーニァさんのお魚に使います~!」


 抱きついて来ようとした身体を受け止めるため両手を広げ、ジーンはノートとカード、ルアー箱を一瞬どうするか迷い、目についたロディに全て託しわたくしの胸に飛び込んだ。この反応、お姉ちゃん、負けなかった気がする。


「お姉さま、大好きです!」

「ふふっ、わたくしもジーンが大好きよ」


 これでプレゼントタイムは終わりかしら、というタイミングでヘレイスとマーセルがぽすんとわたくしたちの足に抱きついた。


「ジーンねえさま、ぼくらもよういしたよ!」

「まあ嬉しい。双子さんはなにをくれるのかな?」

「これ!」


 双子の前にしゃがんだジーンに、弟たちは一枚のカードを取り出す。


「えっ、わっ! すごい!」


 覚えたての文字はぐにゃりと曲がっていたけれど、しっかりと『エディットお姉さまとおでかけ券』と読み取ることができた。


「あら、わたくしを景品にしたの?」


 うん! と悪びれず事後報告の双子がその場で跳ねる。


「これつかったらとうさまがクルマだしてくれるって!」

「うみつり? に、ねえさまつれていけるんだって!」

「ぼくらもついてく!」

「うみ!」


 むふんと胸を張る双子をジーンが抱き上げる。いつか大物を釣るからと意気込んでいるジーンはわたくしよりも力持ちで、弟たちは安定した抱っこに姉へ頬をすり寄らせる。


「一番嬉しいわ!」


 遠目でこちらを気にしていたお父様が、ジーンの反応に胸を撫で下ろす。これはお父様の入れ知恵ね。


「完敗してしまったわ」


 可愛らしいことこの上ない光景に頬をほころばせるも、「はぁ」と肩を下げ息を吐く。負けちゃったけど、お姉ちゃん、今回の負けはそんなに悔しくない。

 残念だったなと片手でジーンのプレゼントを持ちながら肩を引き寄せてきたロディに頷き身を寄せて数分、弟妹の仲の良さを堪能する。そうしてひとしきり弟を褒め称え撫で愛でたジーンがこちらに向き直り、薄紅色の頬でぴとりと寄り添い腕を絡めてきた。


「お姉さま、お姉さま! リアーニァさんの魚釣り、冬が来る前にお願いしようと思っているの。来週なんだけど、お姉さまも一緒にするよね? ね?」

「来週……」


 放課後に遊ぶなんて、絶対にしたい。したい、けれど……。

 お父様に目配せをして、無理だと首を横に振られる。


「来週は……雪が積もる前に周辺の町を周って領地の視察に……お父様と一緒に出ずっぱりなの……。学校自体にも来れないわ……」

「えーっ!」


 日程を確認したところ、その次の週には帰ってこられるものの、そうなると今度はリアーニァさんの都合が悪い。残念だけれどふたりで楽しんで、と。言わなければよかった。

 ジーンとリアーニァさんが居なくなったと知ったのは、視察から帰ってきてから。わたくしたちが帰宅する一日前からふたりの消息が掴めない。電話よりも役に立たなかった手鏡は、ずっと胸ポケットでわたくしのみを映し沈黙している。



 冬枯れを告げる風が肌を叩き、頬が赤く染まる。体温は表層から奪われ身肉の芯にまで底冷えが広がる。震えているのはその寒さから。けれどそれだけではない。

――ジーンが居なくなった。リアーニァさんも。


「っ……」


 恐怖に心が竦み、身体の震えが止まらない。誰が居なくなろうと同じように捜索はしてきた。その上今回ばかりは彼女たち自身の人望に、クラスメイトとその家族、有志も集まっての言葉通りの大捜索。視察から共に帰って来たばかりのお父様も声を荒げ、新聞社は事を速報として道にばら撒く。街中が二人の安否を気にかけて、けれど結果は虚しくも予想通りに成果はない。

 騒ぎは二日も経てば終息に向かい、三日目には街全体が喪に伏した。四日目。寝不足に頭痛と眩暈はあるけれど、今日も日が出る前に別邸の客室から抜け出し街を歩く。

――ジーンが標的になる前に、こうしていればよかった。

 だだ景色に視線を向けるだけで光に眩む目で、全てを見ようと瞼を開く。神経が焼け、脳まで溶ける。この表現に近い熱量が眼底から頭蓋内部へと肉をじりじり焦がし、痛みに涙が溢れる。脂汗がこめかみや背筋を不愉快に濡らしている。それでも見ることだけは止めずに店先や路地裏、小道までしっかりとこの目に映し歩く。人々の歩みの残光だけでなく、窓越しになんとか住人の纏う光そのものを見ようとだってした。それは太陽を見つめるのと同じこと。けれど見るのは、探すことだけは止めない。痛みや熱に何度もうずくまり、溢れた涙で熱さを鎮め、もう一度同じことを繰り返す。

――だって、目が潰れたって探すと、言ったもの……。


「エド!」

「っ」

「エド……、探しただろう」


 息切れをした見知った声の主の顔は見ない。今は彼に眩む時間も痛みも欲しくない。けれど……。

 冬の近い風は冷たくて。何時間もあてもなく彷徨うよう歩き続けた足は踵の上の皮が剥け血が滲む。考えないよう意識をそらしても、ふとした瞬間、今まさになにかをされている彼女たちの恐怖を想像しただけでとめどなく涙が出るの。

 怖くて、痛くて、腕を引かれ真正面に抱きしめられた暖かさに簡単に縋ろうとする、邪魔な涙。お願いだから今すぐにでも枯れてほしい。枯れてほしいのに止まらない。こんな姿で離してなんて自傷の言葉に従う殿方だったら恋なんてしなかった。わかってる。わかっているけれど離してほしい。今ばかりは好きにさせてほしい。


「帰るぞ」

「い、いや……」

「抵抗もできないくらい疲れてるんだ、今この状態で無理をしたところで見つけられるわけがない」

「そんなこと……わからないわよ……」

「わかる。なにせエドはこれから俺に連れ戻されるからな」

「あっ」


 抱きかかえられ、そのまま身体を支える腕に力を込められる。これじゃあどうしたって逃れられない。


「今のエドはなにを言おうが説得力に欠ける。ほら、しっかり掴まってくれ」


 なにを言っても結局は横抱きに別邸へと連れて帰られ、ベッドに降ろされ目元に冷水で濡らしたタオルを当てられる。だから昨夜そうしたように、今回もまた、夜明け前にまたお忍びでここを出ようと心に決める。暖かいお布団に自分ばかりが緊張を解くなんて甘受できない。はずなのに……。

 むっとへそと唇を曲げベッドに横たわるわたくしの隣へと腰を下ろしたロディが口を開く。なにを言われても心を動かされないようぐっと奥歯を噛み締めたのに、ロディはわたくしの意地っ張りの決意をいとも簡単に壊してみせる。


「少し休んだら一緒に探しに行こう」

「……いい、の?」

「一人で外に出られるよりずっといい。義父さんにも了承はもらってる。だから、ちょっと寝たらスープだけでもいいから遅い昼飯腹に入れてくれ。倒れて一番後悔するのはエドだ。まあ、俺が居るんだ、その場合抱き上げて代わりに走ってやるけどな」


 胴体同様ベッドにただ力なく置いていたわたくしの手にロディの温かな手が重なる。ようやく自身の冷たさに気付き、おずおずながらも握ると握り返され、当たり前にそのまま入眠を促される。


「あなたの……」

「うん?」


 甘えるように、応えるように、繋いだ手の指先を絡める。


「あなたの顔が見えなくて、こんなに残念なことはないわ」


 はは、と小さく笑う声につられくすりと微笑む。


「見えてたらキスのタイミングだったな」

「タオルが邪魔ね」


 本当は、タオルがあってくれて助かった。泣いていると知られることもなく涙を流せるのだもの。

 ぎしりと小さくベッドが軋み、見えないけれど、近くなった吐息に添い寝してくれているのだと知る。逆立った神経は落ち着くことなく、目の下にはうっすらと隈ができるほどこの数日は不眠が続いていた。……それなのに、ただ、好きな人と隣合い手を繋ぎ、呼吸音を聞いているだけで眩暈のように睡魔が意識を揺るがせる。抗うには気力と体力が必要で、今のわたくしはそのどちらとも必要数が足りていない。落ちるように数分もかからず深い眠りに入り、起きたのは、夕方になってから。たった数時間の仮眠だったけれど、疲れはだいぶ軽減していた。


「じゃあ、学校に行くぞ」


 ロディの言うとおり野菜スープを完食し、今後の予定を話そうとした第一声のことだった。

 学校。なにをしに? あまりの突拍子のなさに閉口すると、勘違いするなよと焦った顔が真剣にわたくしを諭す。


「他意はないぞ。軍犬、警察犬だって『居た』はずの場所から捜索するのはわかるだろ?」

「それは……」

「レグルスはリアーニァの生真面目さが好きなんだと。そんなリアーニァがわざわざ縁遠い工業区や街外れで拐われるか? ジーンはどこにでも探しに走るからな。探すならリアーニァの痕跡だ。ある程度絞った方がいい。見当外れと思うか?」


 今までの自身の頭のかたさが嫌になる。ふるふると顔を横に振り、その胸へぎゅっと抱き付きに行く。


「っ、あなたが好きよ、ロディ」

「俺もエドが好きだよ。妹と弟のこととなるとがむしゃらですぐ無理をするところとか、放っておけないからな。……それに」


 あたたかな手のひらで頭を撫でられ、顔を上げる。


「よりにもよってエドの留守に、あいつから目を離した。義兄として不甲斐ない」


 眉間を寄せた硬い表情に泣きたくなる。どうしようもなかった。だってあの子、じっとしていられるのは釣りの時だけ。子どもと言ってしまうにはすでに大人に近しい自我を持った、ひとりの女の子だもの。一から十まで目を離さないでいるなんて現実的に不可能で、そんなの、侮辱行為でもあるでしょう。

――それでも、悔やむのよ。

 家族、友人。そういった繋がりを持ち、あの子を大事に思うほど自分の間違いに、行動や選択の過ちにカウントしてしまうの。


「……絶対、見つけるわ。あの子、わたくしたちの妹だもの。一緒に、探してくれるんでしょう? だから、……だから、大丈夫」


 自分自身にも言い聞かせながらロディの頬を撫で、固まってしまっていた筋肉をほぐす。その手を取られ口元に、そっと触れる口付けにふたり眉を下げ、微笑む。焦るばかりの心がほんの少し軽くなり、しっかり床を踏みしめ立つ背はもう曲がらない。

 そうして外へ、学内を練り歩く。口さがない言葉と冷えた視線は当たり前に心を傷付け足を重くさせるけれど、理解はできる。できてもつらい。じわり瞳を潤す涙が落ちる前に指で掬い、泣き顔だけは誰にも見られないよう気丈に前を向く。

 そのとき、一匹の小魚が頬を掠め、宙を泳ぐのを、見た。

 気のせいなんかではない。だって、彼女の魔法ですもの。


「り、あ……」


 見開いた目に涙がじわりと浮かぶ。二匹目、三匹目と彼らは導くように寄り添い道を示してくれる。待っていたと背中を押された気にぐっと唇を噛み、そうして深くゆっくり息を吐きながら力を抜く。

 今すべきは追いかけること。警察犬とは言い得て妙で、きっとこうやって彼らは失踪者を見つけ、一直線にひた走る。


「見つけたのか?」

「ええ!」


 魚の尾を追いかける。いくつもの教室を過ぎ、いくつもの視線の的になり、その全てを置き去りに辿り着いたのは指導室。小魚たちはドアの向こうへと泳ぎ、終着地に足を止め、ロディを見上げる。


「人を、ううん、ロディ。警察のお兄さんを呼んできて」

「一人にはしない。行くなら一緒だ」

「だめよ、この足でなくともわたくしは速く走れないもの。ここで待ってる。職員室の電話までそう遠くないでしょう? 警察の到着を待たずとも電話の後ここに戻ってきてくれてもいい。……いえ、違うわね。すぐに戻ってきて。その方が心強いわ。でも、レグルスさんにも知らせてあげて。……ね、たった十分二十分そこらでどうこうはされない。大人しくここで待ってるもの」


 妹のことでわたくしがあなたに一歩でも引いたこと、ないでしょう?

 説き伏せるよう目を合わせる。ロディは表情を苦く歪め、けれど即決にすぐさま踵を返し職員室の方向へと走り去る。その背を眺め、わたくしは自身のやるべきことと向き合うためにドアノブに手を掛ける。

 ロディはわたくしがこうすると気付いていた。それでも止めず、だからあんなにも早い足取りで駆けてくれた。だって……。

――ジーンのこととなると、誰もわたくしを……わたくしですら、止められないのだから。


 ノックもせずに室内へ足を踏み入れる。そこにいらしたのは部屋の主。ランドール・ハミルトン教員。


「おや、きみか。いらっしゃい」

「先生。不躾ですが質問がございますの。お時間いただけるかしら?」

「もちろん。なにかと大変な頃合いだろう? 僕でよければなにでも相談に乗るよ」


 いつかの日のようにソファへとエスコートされ、迷いなく腰を掛ける。先生は戸棚からマグカップを取り出しポットへと向かい、わたくしに背中を向けコーヒーを淹れていく。

 コク深い豆の香りが鼻腔を撫で、ゆっくりと息を吐く。


「リアーニァさんが魔法を使えることはご存知でしたか?」

「もちろん。このご時世だからね。生徒の情報はなるべく頭に入れるようにしているんだ」

「よかった。なら話は早く済みます。とぼけられたらどうしようと考えあぐねる時間すら惜しかったから」


 マグカップを笑顔で受け取る。先生もにこりと微笑みを返し、わたくしの真正面に座りコーヒーを一口。嚥下する喉の動きはなめらかで、その所作に罪悪感や焦燥は微塵も見いだせない。そんな彼が、次のわたくしの言葉に目を丸く、身体を硬直させる。


「わたくし、実は魔法が使えるんです。使えると言うより、見えてしまう、知覚できてしまうと言った方が正確かしら。たったそれだけですから、地味で、持っていないものと同じでしょう?」


 頬に手を添えしおらしく弱った姿を見せる。先生は言葉の意味を数秒で理解し、乱暴にマグカップをテーブルへ置き、身を乗り出すように堰を切り食いついてくる。


「地味? まさか! 素晴らしい魔法じゃないか! それはどんな魔法でも見えるのかい? 例えば風や空気、透明なものを操るような魔法でも?」

「ええ、見えましてよ。見える物なら音も聞こえますから、例えばそう、鏡の魔法。鏡の中からこちらを覗く、人の姿をした魔法とお話しすることだってありますもの。他の方から見ると鏡の前で独り言を言っているように思われてしまうのですけれどね」

「すごい……」


 すごい、すごいと高揚し始める先生に、魚が食い付くとはこれを言うのだと理解する。けれど焦りはしないわ。殺気は消さなければ。そう、ジーンに教わったもの。


「使っていない状態だろうと、その方の魔法の色が光として見えますの。色は主観が重視されるのかしら。火を使える人の周りにはいつだって赤い光が漂っていて、近付くだけで暖かく感じることもありますわね。目を凝らせば一、二時間程度前までならどこを歩いたかその軌跡もわかりますのよ」

「それは、それは見分けられる、ということかい……? 魔法使いと、それ以外を?」

「誰かさんは喉から手が出るほど欲しい魔法だと思いません? だってわたくし、使っていない魔法も、魔法の残り火も見えるのだから。……ふふっ、魔法の残り水、の方が今は正確かしら?」


 興奮状態だった彼がぴたりと所作を止める。表情はすっと抜け落ち、そして互いの視線の間に静けさが戻ってくる。

 マグカップを口元に、ふう、と熱さを冷ますよう息を吹き掛けこくりとコーヒーを飲む。砂糖もミルクも入っていない、苦みのきつい味が口に広がり眉をひそめる。甘党のわたくしとは味覚が合わないみたい。くすり微笑み、マグカップをテーブルに置く。


「先生、リアーニァさんの水を被りましたね。それもかなりの水量。髪や身体を乾かそうと、まだ彼女の魔法の水滴はこんなにも輝いて、あなたが彼女になにかをしたと訴えかけている」

「僕がとぼけたならどうするのかな」

「どうしようもありません。困ってしまうわ。だって、わたくしは捜査に一切関わっておりませんもの。危ないことはしないでほしいと言っても聞いてくれる妹ではありませんでしたから。ですから、どのような経緯で、理由で事に及んだのかは皆目見当もつきません。……いえ、この反応ですもの、リアーニァさんの……ジーンへの贈り物の魔法を見て事に及んだのかもしれませんね。学内の空き教室を使用した釣り体験を見たのかしら? 先生は空き教室の管理もしてらっしゃるのよね? そうしてあなたがリアーニァさんに危害を加えた。加えつつあるということは、見てわかってしまう……。残念ながら、わたくしにしか見えないけれど」


 苦笑し、そして笑みを止め、彼を見据える。


「魔法さえ使えるのなら密室だろうとトリックなく人を殺めることができるように、魔法の残り火さえ見てしまえれば、捜査せずとも誰が殺めたかは断言できる。わたくしの妹とお友達を拐ったのは、先生ですね。返してくださるかしら」


 先生はソファの背もたれに体重を預け深く腰掛けると、わたくしから視線を外し、抑揚のない低音で口を開いた。


「雪国で断熱材を使った家が増えるほどに手のひらから火を生める子はいなくなり、そうやって魔法を使える人々は減っていく。このご時世だなんてどうして言える? 理解できない。昔は大人になろうが誰しもが魔法を使えたままだったんだ」


 頭痛に眼鏡を押し上げながら目元を指で揉み、呟く。

 だから今しかないんだ。今研究するしかない。


「絶滅を前にどうしようもない焦りに身を焦がしてらっしゃることは理解できます。ですが同時に、人命軽視の研究は糾弾対象にしかなり得ないことも理解できますもの。ましてや自身が被害者側にあるなら、どちらの思想に寄り添うかは明白でしょう?」

「はは……ごもっとも」


 この街で魔法を使える子は年々減少している。ええ。あなたが躍起になればなるほど減っていく。


「温かな家を手に入れた少年少女は魔法で火を生み出すことを必要としなくなる。なら、先生。魔法を使える子が誘拐される街で魔法が使えない子の数が多くなることも必然ではなくて?」

「耳が痛いな」

「でしたらよかった。今はなるべく痛く聞こえるよう言葉を選んでおりますもの」


 挑発的に優雅に微笑み、両手の指先を膝の上で交互に絡める。

 大丈夫。手は震えていない。

 大丈夫。声だって震えていない。

 背中は曲がらず真っ直ぐに、胸を張って、向き合えている。

 けれど、先生は気丈に振る舞うわたくしを見透かし、鼻で笑う。


「人は水だけなら何日耐えられるか知っているかい?」

「……二週間ほど、かしら」

「そうだね。彼女たち、案外強情でね。彼女が守るから引き離すこともできなかったし、きみの妹もまだ開けていない。閉じ込めて、衰弱してからゆっくりメスを入れようと考えていた」


 いなくなってからまだ一週間も経っていない。それでなくとも現状は無事だと知らされ、ほっと息を吐く。この反応を、もう一度、鼻で笑われる。


「安心させたところ悪いが、二週間は少し長いだろう? だから少し、中身に差し障りのない程度に炙っている最中なんだ」

「っ……!」


 カッと頭に血がのぼる、とはこういうこと。

 立ち上がり、マグカップを投げつけたい。涙を堪えることもなく喚き、距離を詰め、理性なく手を振り下ろせるなら少しは腹の虫も収まったかもしれない。

 ドクドクと心音ばかりが騒がしい体内に心を引き摺られないよう深呼吸し、彼を見据える。怒れ、取り乱せと口を悪く遊ばれた怒りもあるけれど、それに乗って差し上げられるほど優しくありたくはない。

 彼はわたくしの反応に詰まらなそうに肩をすくめる。


「取り乱さないか。さすがは次期領主候補。時代遅れとは言え貴族という肩書きの鑑だな。まだ二人は無事だよ」

「……今、ロディが人を呼んでいます。投降してくださいますか?」

「もちろん。潮時ってあるだろう? 誰かが僕を捕まえられたなら、潔く止めようと思っていたんだ。これでも僕は見た目よりずっと長生きでね。答えがなくとも、いつか終わらせるつもりでいたんだ」


 両手をサイドに上げ降伏のポーズで口角を上げる。憎たらしいひと。当て付けのようにわたくしをからかいの的に遊んでいる。

 ふっくり頬を膨らませ、もう一度マグカップを手に取る。先生もこれが最後のブレイクタイムと言葉を交わすことなくコーヒーを口に、その内にロディが部屋に飛び込み、暫くしてレグルスさんと警察官数名が到着、罪状を認めた彼を取り押さえた。


「では、彼女たちの場所に案内していただけるかしら」

「ああ、救出チームを待っていたのか。そんなもの要らないのに時間を無駄にしたね。無駄に炙られた彼女たちがいっそ憐れだ。扉はどこにだって繋げられる。僕は迷路の魔法使いだからね」

「…………」


 本当に、神経に障るひとだわ。


「迷路。そう……。部屋の中に閉じ込められた子は鏡の中を自由に行き来し、街を眺めることしか許されなかった子は本来見えざる魔法のかたちが見えるようになった。なら、迷路の魔法はどんな子に萌芽するのかしら」


 先生はようやく表情を歪める。やり返しはうまくいったみたい。ほんの少しだけ胸がすく。


「……入り口はなくてもいいが、扉に設定すれば地続きで入ることができる。足元に穴を開ければ落とし穴に落ちるようなものだから」


 先生は拘束されたままの後ろ手で指を鳴らす。これで指導室の出入り口は先生の魔法の支配下に、わたくしの目には先生の青紫色の光で輝いて見える。そっとドアノブに手を伸ばし、扉を開く。

 そこは一面が薄暗く、野外でもあり屋内でもある密室の空間。床か土か目を凝らせど判断のつかない水で濡れた地面で、これはリアーニァさんの魔法の水だと一目でわかる。その水は薄く迷路全体に広がり、開いた扉から入り込む新鮮な空気に反応するよう、そして彼女の位置を知らせてくれるよう数匹の魚が跳ねるように生まれ、うっすら濃い影を作る屋敷のひとつ――その一角は赤い炎が煌々と燃えている――へと向かい泳ぎ始める。


「……火事、か?」


 炙っている最中。先生の言葉を思い出し、扉を潜ろうとしてロディに手首を掴まれ止められる。


「離して! わたくしになら彼女たちの正確な位置が、部屋がわかります。わたくしが先導するわ……!」

「駄目だ、危険すぎる。警官と俺たちに任せてエドは待っていろ。レグルス、行くぞ」

「ああ!」

「ロディ!」

「おっと。一番の功労者を除け者にするのは感心しないな」


 エディット・ソロー。落ち着いた声色で名を呼ばれ、声の主である先生へと振り返る。彼はいまだわたくしを嘲笑する態度で口角を上げ、冷たい視線を突き刺してくる。


「嘘も方便が上手いきみに敬意を賞するよ。だが、僕も嘘つきでね。まだ無事だなんて言っておいて実は瀕死の頃合いなんだ。間に合わないと言ったところで聞く耳を持たないだろうから、諦めさせてあげよう。実際間に合わなければ、きみに非はひとつもなく僕のせいにできるからね。……僕に辿り着いた、たった一人のお嬢さん。きみに慈悲をあげよう」


 パチン、と指鳴りの音が聞こえた瞬間、床が消え、重力のまま暗闇に落下する。


「エド!」


 咄嗟に繋がったままだった手首の熱に縋るよう手を伸ばし、ロディと共に落ちる。レグルスさんがなにかを叫んでいた。けれどもうその残響すら届かない。落とし穴に落ちるようなものとはその通りで、クッションとしての高垣の細枝を折り、肌を傷付けながらの着地は一歩間違えていれば即死もあり得たかもしれない。

 ロディに身体を支えてもらい、周囲を見渡す。そこにリアーニァさんの光はなく、間に合わせだろう街灯、そのか細いオレンジ色の薄明かりに照らされた狭い道――本物の迷路に絶句する。

 入り口は遥か頭上。そこから叫ぶ誰の声も風の唸り声にしか聞こえない。けれど迷路なのだから、出口はある。ただ、どれほどの広さを持つ迷路なのかを知る術がない。

 最短ルートを走っても、間に合わないかもしれない。恐怖に身がすくむ。震えている暇はないと、だから今すぐ走り出さなければいけないと心はせくのに、なんとか冷静であろうとする思考が足手まといに身体を重くさせている。

 どうする。どうしたらいい。考えて、はやく。はやくしないと、なのに。


「っ……」


 なのに、なにも、思い浮かばない。


「エド、エド。……エディット!」

「あ……」


 肩をゆすられ顔を上げる。


「とりあえず走るがいいな? 抱き上げるからその間に考えてくれ」

「待っ、だめ!」


 後ずさり距離を取ろうとするも、腕を引かれる。痛みを自覚する余裕もない。


「待って、お願い、かんっ、考えるから、待って、出口が遠くなったら間に合わない、から、待って、やめて……」

「エド。進まずに出口を見つけられるわけがないんだ」

「っわかってる、けど……!」


 これは無駄な問答。わかっているわ。時間を無駄にしていると。

――酷い、ひと。

 目の前にいないくせに、わたくしが傷付くよう呪いを植え付けた。そうしてこの通り、絶望感と自身の無力さに打ちのめされて、なすすべなく涙が溢れる。

 涙が、睫毛に粒を作り、落ちる。その瞬間。


「姉さん」


 その声に、思考が止まる。一度も呼んでくれなかった呼び名。それをここで使うなんて、ずるい。卑怯だわ。

 見開いた目のまばたきに、ぽとりと涙が落ちる。これをタイミングに手鏡を持つ。ずっとずっと留守の無言でいた鏡。その中の、金の髪の男性。そう。お姉ちゃんなのよ、わたくし。あなたのお姉ちゃん。だから、それは最初に候補から外したの。外すために、あなたに会いたくなかったの。


「ジル……」

「ようやく見つけた。遅くなってごめん」

「お前は……」

「ん、なんだ、俺が見えるのか? ああ、重ね掛けしたあいつの魔法の方が強いからか。ここから出してやるから、少し黙ってろ」


 しっしと手でロディを牽制し、わたくしへと向き直る。望む方法で道案内をしてくれるなら歓迎できた。でもそうじゃないことくらい、見てわかる。わたくしたちを見つけてくれただけで、あなた、満身創痍で今にも……今にも、割れてしまいそう。


「エディット。鏡を割るんだ」

「……だめ。あなた、どうなると……」

「鏡から出て、久しぶりにジーンの中に戻るだけだろ。ただの魔力に戻れば俺の意識はなくなるが出口まで最短ルートでジーンの元に一直線さ。どんなに主人と離れようが、魔力は正しい道で躓くことなく自身にたどり着く。リアーニァの魚もそうだったんだろう?」


 先生の背を追い泳ぐ魚を脳裏に理解はできる。納得、できないだけで。


「自我は消えるが積み重ねた記憶も想いも、ジーンの中に溶ける。ひとつになる。なくなるわけじゃないんだ、死とは違う」

「ちが、違わ、ないわ。言葉遊びしないで……」

「なら言葉を変えよう。俺たちの妹だ。姉と兄なら、こんなことで迷わない。だろう?」


 突き放す声色に表情を歪める。眉が下がり、顔を真っ赤に涙して。こんな顔、誰にも見せたこと、なかったのに。


「っわたくしを姉だと、思ったこと、ないくせに……!」

「ああ。思ってない。一度だって思ったことはないよ、エディット。……エディット」

「やめて、言わないで……」

「……エディット・ソロー。俺の、姉さん。俺からは、言ったことがなかったな」


 微笑まないで。あの子の面影。けれどもう、それはあなたの面立ち。同じではないの。違う、ひとりの人なの。魔法だなんて思ったことは、一度だってない。


「好きだよ。愛してる。エディット・ソロー。きみの姉であろうとする頑固なところも、弟妹にだけとびきり判断が甘くなるところも、愛しいよ。俺にとってきみは、きみを初めて見た日から世界で一番可愛い女の子で、きみと過ごす毎夜の短い時間は、幸せに満ち足りていた。……だから、もう、十分だよ」


 鏡の境界に、ジルの手が添えられる。わたくしの頬を撫でるように。涙を拭ってくれるように。


「俺がそうなんだからジーンも同じさ。だから、迎えに行くのはきみ以外いない。わかるだろ? そこのあいつじゃ論外で、ジーンの笑顔はいつだってエディットに向けられていた」


 お姉さま、とあの子の声が、微笑みが脳裏に浮かび嗚咽が漏れる。さあ。吐息の言葉で背を押され、魔法をこの目で見るように。魔法の音を聞くように。手を。……手を、鏡の中で重ねられ、引き寄せられて。


「大丈夫。間に合うよ。俺が間に合わせるし、あいつも持ちこたえる。俺もジーンもエディットは俺たちを諦めないって知ってたから頑張れたんだ。……だから、頑張れ。俺とジーンの、たったひとりの……自慢の、お姉ちゃんなんだからさ」


 目で見るように、わたくしの魔法を指先に込める。涙が頬から唇を伝い、鏡に落ちる。ジルは鏡面に落ちた涙の粒に口付け、眉を下げ、謝るように。……けれどきれいに微笑み。

 そして、鏡は。

 パリン、と音を立て。簡単に、割れてしまった。


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