第3話

 少し暑いけれど、制服のワイシャツの上に学校指定のベストをきっちり着込む。そうして両肩の前へ流した髪をゆったりと二つ結びに、街の野球チームの野球帽をかぶってしまえばどこにでもいる女子学生のできあがり。読書用の大きな丸眼鏡を掛けて、垢抜けなさも強調しておく。

 あまり良くない噂話が聞こえてくるのはなにも学内だけのことではない。顔は知られていないとしても、念のためのお忍びコーデは街中散策に必須と教えてくださったのはリアーニァさんだった。


「また修道院の子だってよ」

「よくもまあそんなとこの子を選べるよなー。悪魔か?」

「な。居なくなってもいい人間なんてあそこにいるのにな」

「この間車が沢山入ってったのが見えただろ。宝石とか絵画とか色々買ったって話だ」


――こうやって誰かがいなくなるたびに買ってもない宝石を買っていると噂されていたのね。

 我が家へと指も視線も向けることはなかったけれど、慣れた様子の会話にそれは必要なかっただけのこと。居なくなってもいい人間扱いにひとつ吐息を落とす。

 先日から行方不明になっているのは、わたくしたちとそう年頃の変わらない女の子だった。


「街灯を増やすよう提言したのも、夜間の巡回人数を増やすためお給金の配当率を引き上げたのも、わたくしですのに」

「そうだったんですか?」

「ええ。一度大掛かりな下水道の整備もしたいと思っているの。どこにでも繋がっていて人目につかない場所の代表例でしょう? 何度か捜索はしてきたけれど整備を進めたならもっと細かい痕跡を見つけられるかもしれません」


 怪しい場所には近付かないように。徹底された注意喚起を決して無視しないはずの修道女でさえこうして居なくなるのだから、どこを探そうと成果は出ないのかもしれない。けれど、だからと言ってなにもしないなんて、それこそしたくない。

 もやもやと晴れない気持ちでリアーニァさんの隣を歩く。初めての学校帰りのお出掛けに水をかけられた気分であること以外、空は晴れ風も涼しく完璧でしたのに。


「あ、エディットさん、ここ。ここです」


 陰った表情は隠したつもりでいたものの、リアーニァさんは私を気遣ってか気分一新にひとつのお店の入り口に駆け寄り振り返る。


「到着しました。どうぞ、エディットさん」


 慰みにそっと寄り添ってくださるような、可憐な微笑みを浮かべ、ドアノブに手を掛け入店までエスコート。女学生の遊びを知らないわたくしに、リアーニァさんは手始めに自身の行きつけの雑貨屋さんを紹介してくれるらしい。


「ランドール先生もこのお店にいらっしゃるのね。学生と教師の行きつけ、というものかしら?」

「先生が?」

「以前呼び出しを受けた際に頂いたチョコレート。差し上げたでしょう?」


 入店一番に目に留まった、いただいたものと同じ外装のチョコレートを手に取り見せる。リアーニァさんは思い出すように少し目を伏せ、申し訳なげに首を傾ける。


「どこにでも売っている既製品ですから先生の行きつけというわけではないと思いますよ。学生の行きつけではありますね。私はこちらに来てからよくこのお店で買い物をしていますが、先生をお見かけしたことは一度もありませんし」


 確か、リアーニァさんはこの領地、この街に学びに来てから六年経つと聞いている。長期休暇は帰省で除くとしてもそれだけの年数を経ているのなら、タイミングや時間帯を考慮しても一度くらいは姿を見かけていてもいいはず。


「それなら……わたくしの勘違い、ですわね」


 にこりと微笑み会話を途切れさせる。勘違いではないことは、わたくし自身がよく理解している。

 この店のドアに先生は必ず触れている。ううん、触れずとも、なにかはしたはず。目を凝らすことも必要ない。会話した相手の色を覚えることは、その方のお顔を覚えるよりもずっと簡単だもの。

――……まるで犬のようね、わたくし。

 嗅覚ではないけれど、視覚で残光を追えてしまう。そんな自分の姿を客観視し、苦笑に眉を下げる。

 教職員ならどのような魔法が使えるのかしら。学生の行きつけのお店に仕掛ける程度なのだから、優等生のリアーニァさんには関係のない内容なのかもしれない。

 魔法使いは少ない。使える力を公言する人はほんの一握り。けれど、魔法でお小遣いを稼ぐ魔法使いは多くいると聞く。


「それにしても、品ぞろえの幅が広いのね」


 気を取り直しリアーニァさんの隣に並び、彼女の腕にわたくしの腕を絡ませながら手を繋ぐ。

 街の少し大きい雑貨屋さん。お菓子のコーナーも学生用品のコーナーも、生活雑貨はもちろん小さいけれど流行りの本だって取り扱われている。多目的に対応しているからこそ来客は多く、離れていては間を通り抜けようとする方々と度々肩が触れてしまう。……だから、手を繋ぐのは自然の成り行き。


「ここになければ専門店に行けばいいのね」

「エディットさんは専門店にしか行かない印象でしたが、こういうところもきっと楽しんでくれるんじゃないかなって」

「ええ、ふふっ、とっても楽しいわ。目移りしちゃう」


 人通りが多いほどまばゆい光に眩暈する。ズキズキとこめかみが痛く、熱を出した日のように足取りは重い。それでも。髪を耳にかけ、目元を隠さず微笑む。


「お友達と一緒にお買い物、ずっと憧れでしたの。楽しくないはずがありません」


 手を繋がれ逃げ場のないリアーニァさんには「そうですか」そっぽを向いてしまわれたけれど、その横顔が赤らんでいることは、手を繋ぐ距離ですもの、眩しくったって見えている。

 お誘いありがとうございますね。絡ませ繋いだ手に一度柔らかに力を込め寄り添う。妹相手なら頬にキスしていた。ロディなら帰路別れる前に人目を避けて何度か、かしら。だからこれは、正しくお友達への距離。ずっとずっと憧れていた距離だから、きっと、大切な思い出になる。


 お揃いにしませんか、との言葉に即答で「ぜひ!」目を輝かせ選んだ、リアーニァさんとお揃いのリボンのヘアゴム。そして弟妹へのお土産をいくつも買って、幸せの紙袋を胸に抱きリアーニァさんの学生寮前で別れる。家に帰るなら寮の電話を借り車を呼ぶこともできたけれど、本日のわたくしはらしくもなく浮かれた心のまま別邸へと向かう。

――街に出て、よかった。

 夕焼け色が次第に夜と混ざっていく。髪先やスカートを揺らす風は次第に冷やかさを増し、時折の突風は無遠慮に肩を押し通り過ぎていく。道すらよく知らない街をひとりで歩くには勇気がいるけれど、ならそれは今が相応しいと、楽しい一日に勇気を貰い恐れなどなく歩を進めることができる。

 車や馬車で通り過ぎるだけの風景に窓辺から漂う家族を待つ夕食の香りはない。同じように、遠くから見つめるだけの景色に個人の営みはあってないようなものだった。

 知らないことではないのに、実際肌に、感覚に、現実に触れてしまえばドキドキと胸が高鳴りながら、今までの知ったかぶりの世間知らずの自分が少しだけ恥ずかしい。ぽっと赤らむ頬を片手でむにゅりと揉んで、表情を整え別邸のドアをノックする。間もなく見知った使用人の出迎えを受け客室に通される。

 ……屋敷の主の娘ですら客室扱い。ここはわたくしの家ではないと自認していても、他者から、身内から線引きされてしまえばなんだかとても寂しいもので。けれど、傷付いた表情は露として浮かべることはない。だって、悲しんでる暇もないうちに双子の弟たちのドタバタとして騒がしい足音が聞こえてくるのだもの。


「ねえさま!」

「ねえさまー!」


 双子の声は瓜二つ。そして左右の足に抱き着いてくる手の温度も、撫でる頭のまあるさも、髪の柔らかさに、なによりそれはもう可愛らしく浮かべる笑みだってそっくりそのまま。


「どーっちだ!」


 左目の下のほくろの位置だって同じの一卵性双生児。可愛い可愛いわたくしの弟。ふたりの前にしゃがみ、視線を合わせ、先ずはわたくしの右側に居た子の頭を撫で頬にキスする。


「こっちの格好いい子がヘレイスで」


 次は左に居た子。頬をむにゅむにゅ揉んで額にキス。


「こっちの格好いい子がマーセルね」


 そうしてふたりまとめて抱きしめる。正解にきゃあきゃあ楽しげに笑う子どもたち。彼らが居なければ、別邸には年に一度も足を運ばなかった。


「ねえさま、きょうはとまる?」

「とまって? いっしょにねよー?」


 それぞれはわたくしの手を握るとお願い攻撃でぴったり密着し、きらきらうるうるの緑の瞳で見上げてくる。わたくしの妹は言わずもがな可愛らしいけれど、弟たちだってこんなにも可愛らしい。とっても可愛い。……あら、本当になんて可愛いのかしら。大好き。

 姉冥利に尽きる実感に胸を震わせていると、「エディットさん」父の三人目の奥方に名を呼ばれ顔を上げる。


「その制服姿、すっかり様になりましたね。とてもよくお似合いですわ」

「ふふっ、ありがとうございます。どこにでもいる街娘がコンセプトですもの。他でもないお父様が整備した街によく馴染めたと、わたくしも気に入っておりますのよ」


 にこりと微笑みを貼り付けているのはお互い様で、客室がピリピリとした空気に包まれる。

 双子の母親――クレア様は、ご自分の息子に領地を継がせたい。だから後取りとして育てられてきたわたくしが、ほんの少し……とは言えない程度に煩わしいらしい。


「かあさま、ねえさまとまっていい?」

「エディットねえさまといっしょがいー」

「お姉様が相手であってもご迷惑をおかけしては駄目よ」

「えーっ!」


 そしてクレア様の大事な息子たち――わたくしにとって可愛くて愛おしくて堪らない弟たち――が、わたくしに懐いていることも快くないようで。


「やだやだ! とまってほしいー!」

「エディットねえさま、ぼくたちのことまちがえないもん」

「ねーっ」

「っ!」


 弟たちはまだ幼く、わたくしたちの関係の気まずさにひと欠片も気付いていない。それどころか毎回と言っていいほどにクレア様の心の柔らかなところを全身全霊のジャンプで踏み抜きもする。だからクレア様からの当たりがきつくなりわたくしもついやり返してしまうのだけれど……今日はすぐさまクレア様をフォローする。


「あら、間違われたくなければ違うお洋服を着たり、名札をつければいいだけよ。こんなにお互いが似ているのだもの、わかってもらう努力なくわかってくれなかった、なんて文句、言われた方も悲しくなってしまうわ」

「でもねえさまはまちがえないじゃん……」

「そーだよ、ねえさまはちゃんとみわけてくれるもん」


 むすっと不機嫌になりながら、それでも腰に抱きついてくる。これにクレア様は居たたまれなくなったのか、溜め息を残し客室から出て行ってしまう。この通り、わたくしはまた少し、継母に嫌われてしまったらしい。


「お姉ちゃんは目がうんといいの。お姉ちゃんくらい目がいいと、注視せずともヘレイスとマーセルの似てないところだってちゃんと見えてしまう。それでわかるだけなのよ」


 まだ小さな双子の弟たちはこの言葉でそう易々と納得なんてしてくれない。それどころか見分けてほしい気持ちが強い一方、似ていないと言われることに過剰に反応し頬を膨らませる。


「ふたりのお母様もね、本当は間違えたくないはずなのよ。大好きなふたりのことだもの。……ほら、あんまりむくれないで。格好いいお顔がとっても可愛らしくなっているわ。んー、ずっとそのお顔でいて欲しいくらい可愛いわ」


 男の子ふたりを片手ずつに抱き上げる。どんどん成長するから、そのうち抱き上げるのは無理になりそう。幸せの重みに微笑みを携え、機嫌を直して、と頬にちゅっちゅ口付ける。交互に鼻の先で頬をくすぐり、額同士を合わせぐりぐりスキンシップに興じる。そうしている内に、ふと片方が軽くなる。


「ねえさま、みて!」


 ふわりとヘレイスが浮き腕から出ていってしまう。くるんと空中で回転し、天井に足をつけ、わたくしのふたつに結んだ髪束を片方手に握りながら地面へとぴょんぴょん元気一杯にジャンプしてみせる。


「マーセルの魔法ね?」

「わかるの!?」

「お姉ちゃんは目がいいって言ったでしょう?」

「すごーい!」


 やっぱりお姉ちゃんが一番好きだとふたりして抱きついてくる。この反応は、ヘレイスが魔法を使って浮いていると思われているのかもしれない。

――……本邸に帰る前に、お父様とお話ししなくちゃ駄目ね。

 そっと息を吐く。


「さ、お姉ちゃんからのお土産が欲しい子はどこかしら?」

「ここー!」

「ほしいー!」


 弟たちにたくさんのお菓子を渡し、客室から出て父の執務室へ向かう。ノックに入室許可を得て、執務机にて公務中の父を一瞥し来客用ソファに腰掛ける。

 父の見目は金髪碧眼。赤茶色の髪色の双子と黒みの強い焦げ茶色の髪色のわたくしはそれぞれの母に似たけれど、ジーンだけはその髪もその瞳も父の色とそっくり。血で後継ぎが決まるのなら、わたくしも双子たちもこの一族には必要ないのでしょう。


「来ていたのか」

「会いたかったよ、が抜けていますわ」

「……元気そうでなにより。会いたかったよ」

「わたくしも久方ぶりにお会いできて嬉しいですわ、お父様」


 娘が会いに来たというのに仏頂面のままでいるけれど、それほど気難しい人ではない。


「最近街を観て回っていますが、活気があって気持ちがいいですね。落ちているごみも少なく清潔で、お父様の自治の賜物ですね」

「そんな話をしに来たのか?」

「あら、わたくしだって弟妹以外のお話もします。例えばそう、わたくし自身のお話しなんてどうかしら?」


 無作法にも足を伸ばし背もたれに身体を預ける。顔だけお父様に向け笑みを浮かべ、少々語尾を強めにすれば、羽根ペンを動かす手は簡単に制止する。


「おもしろい噂は当然耳に入っているとして、火消しをしてくださらなかったことに少々思うところがございますの」

「…………」


 思い当たる節に罪悪感でも刺激されたのかしら。お父様は実務机から立ち上がり、わたくしの目の前に座ってみせる。視線は不自然に合うことがないけれど、会話してくれる気になったらしい態度ににこり微笑みわたくしも居住まいを正す。このタイミングでノックが響き、わたくしたちの前に紅茶が用意される。楽しい親子のティータイム、とするには、話題が重たいことが少々残念ね。


「この街にあまり期待するなと伝えただろう」

「ご自分の娘だからこれ幸いの配役と火消しすることなく悪役に仕立て上げたのでしょう? 物分かりのいい娘になぜ言葉を少なくしてしまうのかしら。はけ口くらい、いくらでもなりますのに。一言あればこんなことで言葉にトゲなどつけませんでした」

「むぅ……」


 うちの娘なら気にしない。実際傷付きはしてもさほど気にすることはない。お父様もわたくしの心の広さはよく理解していたのでしょうが、何事も例外は存在する。


「知らず知らずのうちにジーンとロディの心労になっていたことに怒っているんですよ」

「それは……」

「聞、こ、え、ま、せ、ん、よ」


 音を区切り腹部からはっきりと発音する。お父様は一拍置いて口ごもりながらも「すまなかった」と吐息する。あまり腑に落ちてはいないけれど、及第点にしておきましょう。


「ヘレイスが浮くとは聞いていましたが、浮かせているのはマーセルでした。マーセルもしようと思えば自身を浮かせることができるはずです。浮いているからヘレイスだ、と決めつけて話すとまた拗れますから、くれぐれもお気をつけくださいね」

「そう、なのか……。わかった。ありがとう」

「ちゃんとクレア様にもお伝えしてさしあげてね」

「ああ」


 お返事が受け身だわ。本当にわかってらっしゃるのかしら。ぷっくり頬を膨らませ、紅茶が冷める前に口内で香りを頂く。ほっと一息する吐息が僅かに甘さを含み、呼吸のたびにトゲ立ってしまった心が落ち着きを取り戻す。


「エディット、ここで暮らす気はないか?」

「クレア様が嫌がりますよ。奥方として迎え入れたのならちゃんと大事にしてさしあげて」

「しているつもりだ」

「なら足りておりませんね。もうひとりかふたり、わたくしに弟妹が増える勢いで抱きしめて差し上げなければ、わたくしのお母様の二の舞になることでしょう」


 お母様の死因は自殺。お父様の浮気が――それもお父様に色味の似た、とても可愛らしいわたくしの妹が産まれていたことも――原因だった。そしてクレア様の性質は、お母様に似ているところがある。

――ああいったタイプは一夫一妻しか長続きしないのに、どうして重婚なんて許したのかしら。

 クレア様の当たりが強いのは、つまるところお父様がクレア様を不安にさせているからなのでしょう。もしかすると、街に流れるわたくしの噂の真意も伝えられていない可能性がある。それならば嫌われて然りね。溜め息を落とし居住まいを正す。


「後継ぎにどなたを選ぶとしても、わたくしはお父様の目利きに従います。けれどそれはわたくしに限ってのこと。自分のお父様よりお姉ちゃんの弟たちですもの、わたくしを駒に利用していることを弟たちが外の声で知ったなら、あの子たち、継いでくれませんからね?」


 心当たりがあるのかお父様は眉間に皺を刻み唸る。少し胸のすく思いで紅茶を飲み干す。


「ともかく、お母様の二の舞にしたくなければクレア様と会話を。息子に愛想を尽かされたくなければ五歳児相手だろうと考えていることを伝える努力を。もちろんジーンにも気をかけていただいて、本邸の女主人はクラリエ様ですから、彼女にも月に何回か会いにいらしてください」

「本邸に行くとクレアがな……」

「三人目、という点はもうどうしようもありませんわ。理解して重婚なさったのでしょうし、第二夫人を蔑ろにするお父様にはわたくしが物を申します」

「ううむ……」


 お父様とのお話が済んだタイミングで「お嬢様」と執事に声をかけられる。車の用意ができたとのことだった。


「では、また早いうちに顔を見せに参ります。再来月に控える本邸でのジーンの誕生日パーティーは参加必須ですから、そろそろプレゼントを調査してくださいませ。わたくしの時のように趣味を考えず適当な本を大量に贈るなどしては駄目ですよ」

「一緒に選ばないか?」

「父娘水入らずのおでかけのお誘いでしたら喜んでお受けいたしましたが、本件ならお断りいたしますわ。好み一番のものを教えてしまったら、わたくしのプレゼントが霞んでしまいますもの」

「なら二番目の好みを……」

「その調子で真心を尽くし悩み選んでくださいませ。それでは、失礼いたしますわお父様。いつも愛しておりますよ」


 立ち上がりお父様の頬にキスをし部屋を出て、もう一度弟たちとクレア様に挨拶をして車に乗る。

 落陽の名残すら夜に溶けた道をヘッドライトで照らし、本邸へと最短ルートで向かう。ほんの少し居心地の悪いエンジンの振動から意識を逃すよう瞼を閉じ、同時に眼精疲労をこの長くはない道中でなるべく癒してしまう。思いの外疲れが溜まっていたようで、すとんと眠りに落ちてしまったけれど車を使えばそこまで遠くはない実家に満足なうたたねもできず声掛けで起こされる。ジーンはお友達の所からまだ帰ってきていないようで、早めの夕食をひとりで摂り湯に浸かり部屋に戻った。


「ジル、いないの?」


 鏡の前で双子でもない弟の名を呼ぶ。ヘレイスとマーセルにはとりどりのお菓子を。ジーンにはお魚の刺繍が入ったハンカチを。鏡の中のジルには、手渡すことはできないけれどネクタイピンを用意した。

 鏡面の前に座り暫し待ってはみたけれど、待ち合わせの約束もなく待ちぼうけに目を伏せるわたくしばかりが目に付くから、ひとつ吐息を溢しベッドに横になる。

 時計は二十時を回ろうとしている。もうそろそろジーンが帰ってきてもいい頃合いだから、きっとそのうち鏡のふちをコンコンとノックしてくれるはず。

 ふわ、と両手の平であくびを隠し、身動ぎにいくつかある枕のひとつを抱きしめる。疲れた目元を暗闇に預け、なにも考えることなく数回の深呼吸。車の中で熟睡のオアズケをいただいてしまった身体はたったその数十秒で、深い眠りに落ちた。


 もう一時間で日付が変わる。流石にこの時間になっても帰宅しない娘ではないと、クラリエ様の涙とノックで目を覚まし別邸へ電話をかける。わたくしとクレア様の仲は本日の通り大概なものではあるけれど、第二夫人と第三夫人の仲はもうどうしようもなく冷え切ったもので、こんな時でもわたくしが間に入らなければ初動が遅れに遅れてしまう。


「そう……。今からわたくしもそちらへ向かいます。道中ジーンがいるかもしれませんから。もし別邸への道で出会えなかったなら警察に連絡をお願いいたします」


 お父様との電話を切り、嗚咽にジーンの名を呼ぶクラリエ様の泣き崩れる肩を抱きしめる。


「あの子がっもど、戻らなかったら……っわ、わたしもう、どうすればいいのか、っジーン、ジーン……!」

「大丈夫。大丈夫です。だって、他の子が……」


 拐われた、ばかりだからと……。声を震わせても涙を堪え、身体を震わせても倒れず支える側にあろうと自身を叱咤する。けれど、こんな思考で自分を慰めることしかできない酷い女と自覚すれば胸が酷く痛くて、痛くて、堪え切れずに涙を拭う。

 クラリエ様はメイドに任せ、寝間着の上にコートを羽織り車庫から運転手が車を出してくださるのをせく心で待つ。馬車は好きだけれどこんな時の自家用車と、夜道の暗さに手の平を返す。いざ車に乗り込もうとして「お嬢さま! こちらに!」メイドの声に振り向く。

 走りランタンを受け取り今まさに街への道に向かおうとしていた車道沿いに女の子――ジーンの光、その姿を認め、ぶつかるように抱きしめる。温かい。大丈夫。幻ではない。安堵にようやく素直に涙をぽろぽろ落とし、眩もうとも目を見開きその顔を――涙に腫れた目元がまだ濡れたままの、傷付いた女の子を――前に、声を荒らげる。


「っ、乱暴、されたの? 正直に言って……!」


 頭の中で医者と警察、両方を呼ぶシミュレートを刹那に何手順も思考する。ジーンはぎょっと目を丸め、勢い良くぶんぶんと左右に顔を振る。この反応に嘘はない。ほっと力を抜いてもう一度ジーンを抱き締める。今度はきつくならないように、寄り添うように。

メイドがジーンの肩にコートを羽織らせる。わたくしとしたことがここまで取り乱していたことにようやく気付き、急ぎ暖かな屋内へとジーンの手を引き歩く。玄関ホールでクラリエ様に隣を交代し、抱擁と説教の母娘の姿を横にお父様へ電話を済ませ、メイドに湯船を作るようお願いする。それと、湯浴み上がりに温かなミルクも。


「クラリエ様、湯船の用意ができましたの。ジーンも反省していることですし、そろそろ身体を休ませてあげましょう? クラリエ様も心労がおありでしょうし……。お部屋に紅茶を用意させますわ。今日のところはゆっくりお休みください。ね?」

「そう、ね……。ジーン、貴女、お母さんだけじゃなくエディットさんにも迷惑をかけたのよ。心から反省なさい」

「……はい」


 長々と続くお叱りを中断させ今度こそクラリエ様をメイドに任せる。ジーンの湯浴みが終わるのを待ち、濡れた御髪のまま自身の部屋に戻ろうとする身体を捕まえわたくしの部屋へ連れて行く。ホットミルクを用意するメイドに「遅くまでありがとう」お礼を言い今日は下がらせる。一通りのことは自分でできるようにとの教育方針に基づいて、妹の髪をタオルで優しく乾かすことだってお姉ちゃんには造作もない。そうやってパタパタと水気をタオルに吸わせていると、ミルクカップを鏡台に、ジーンがふいに振り向き胸に抱き着いてくる。


「メアリが居なくなったの」


 ぽたぽた溢れる涙がわたくしの胸元にじわり染みて、温かに広がっていく。こんな時間まで探し回ったのねと、ずきんと胸が痛む。


「……あなたが居なくなったら、お姉ちゃんは目が潰れたって探すのをやめないわ」


 無事に帰ってきてくれてよかったと溢す。きっとこれは耳が痛い言葉で、きっとこれは、探しても探しても見つからなかったお友達を想い――探すのを諦め――夜中にひとり帰路を泣いた彼女の心を抉る言葉。あなたじゃなくてよかったと遠回しに酷いことを言っていると知っていて、それでも伝えた。

 クラリエ様のお叱りを受けている最中はしゅんと表情を陰らせるばかりだったジーンがわんわんと声を立て泣きじゃくる。行方不明者はこの十年以上出続けていて、比率としては少年少女がほとんどで、ろくに街に向かうこともできなかったわたくしとは違い彼女は幼少を街で暮らし、そのまま学校に通っていて……。居なくなった方の中のそのひとりが知り合いや友人なのだと、今回が初めてではないと、それくらい察することはできている。


「探していない場所なんて、もうほとんどないの……」


 とろんと涙に溺れてしまった瞳を潤ませたまま、身体はベッドに、けれどわたくしの膝を枕にジーンが呟く。わたくしはその熱を孕んでしまった額や頭を慰めるよう、そっと撫でる。

 もう、数日が経っている。誰かが居なくなるたびに、その前に居なくなった子たちは手遅れなのだと誰もが理解する。


「拐われた子、どうなるんだろう……」


 ぐすんと鼻を鳴らしもう一筋涙を落とす。美しく優しい子の涙はそれだけで涙を誘うもので、貰い泣きしてしまわぬよう目をつむり、深く息を吐き心を落ち着かせ頭を働かせる。

 この国は人身売買を禁じているから、安全に売るなら他国にまで出なければならない。

 逃がさず殺さずで扱うのなら輸送にも費用がかかる。特に我が領地は人拐いの件で神経が逆立っていて、関門ごとに荷物の中身は厳しいチェックを受ける。同一犯であるなら賄賂だってその額は馬鹿にならないはず。リスクばかりが大きい。

 だから恐らく、売られているというよりは、使われている可能性の方が大きい。

 拐われた子はまだこの街に居て、どこかに閉じ込められている。さすがに大人になるまでは生きていない。人拐いがいる街なんて不名誉な俗称が付けられる程度のサイクルで行方不明者がいるのだもの、子どもが必要な時に子どもを拐い、大人が必要な時に大人を拐っているはず。必要な時に必要な分を。そうでもしなければ、人ひとり生かすだけで食費も場所もかさんでしまう。


「拐われたら、どうなるか。考えてみる? では、質問。割合としては未成年の比率が高いけれど、なら子どもをターゲットにするメリットはなにがあるのかしら」

「うーん……。小さいのと、力が弱いのと……可愛いくらいしか思い浮かばない……」

「ではヒントね。雪国の子どもは火を、砂国の子どもは水を使える子になりやすいの」

「あっ、魔法?」


 お父様と対策を練るにあたり被害者の情報はわたくしの耳にも多少なりに入ってきている。魔法を使える子と使えない子、拐われた子での比率は半々。魔法を使える子の少なさから鑑みると、半々になるなどあり得ない。


「超能力、とも言うわね。大人になっても使える方は確かにいるけれど、多くが一過性。心身の成長や環境の変化と共に使えなくなっていく」

「……」


 顔を伏せてしまった妹の頭を撫でる。


「お父様はことこの件について手を抜いたことはないの。恋に奔放な方だけれど、曲がりなりにも四人の子持ちだもの。人の出入りについては申請がない限り深夜早朝で関門を締め切ってしまうし、密入境、密出境は他の領地が定めている刑よりずっと重いわ。比重を置いた対策をして、それなのに売買の形跡はひとつも見つからない。どんなことが考えられる?」

「……外に売られてるわけじゃ、ない」

「私の持論ではね」


 ベッドの上に座り直し「じゃあ」と身を乗り出すよう口を開け、気付きを得てジーンの瞳が揺れる。

 超能力。魔法。どんな言葉でもいいけれど、それは未知の力。仮に知るために使われているのだとしたら、魔法を使える者と使えない者、魔法を使えなくなった者の身体を開き比べることが、きっと一番確実な方法。


「……お姉さまが街に出るようになったのは、ヘレイスとマーセルのためなのね」


 お喋りが楽しい時期の、小さな双子の弟たち。これからどんどん外に出て走り回るようになる。浮けると知られれば、狙われる確率はきっと他の誰よりも高くなる。開いて見比べるには、双子ほど都合のいい被験体はいないのだから。

 わたくしたちの身近にも気を掛けるべき相手がいると気付き、居ても立っても居られない、けれどむやみやたらに動くことも違うと知って八方塞がりに苦悩の表情をする妹に身体を重ね抱きしめる。


「あなたのためでもあるわ。我がソロー家の領地、地元ながら、子どもには危険だもの」

「それを言うならお姉さまだって私と一歳しか違わないわ。お願い、危険なことはしないでね……?」


 背に腕を回し応えてくれる声は落ち着いていて、今夜はこれでもう大丈夫だと安堵する。そして同時に、口にはできない言葉を音もなくくっと飲み込む。

 危険なことはしないで、と。それはわたくしがあなたに一番言い聞かせたい言葉。

――あなた、なにをしているの。どこを、誰を調べているの。それを、わたくしが知らないとでも思っているのね。


 ジーンを自室に送り、ようやくベッドに横になり枕を抱いて呼びかけを無視する。


「エディット。おーい、エディット?」

「……」

「エディット、悪かったって。なあ、これは? 俺にくれるの?」

「……そうよ。あなたへのプレゼント。でも中身はしばらく見せてあげないわ。ジーンのこと、本当に心配したんだから。一言くらいあってもよかったのではなくて?」

「夜中に出歩いてるジーンに付き添ってないと危ないだろ。ま、伝えにくるだけなら一瞬だったのも確かだけど。悪かったよ」

「もう……」


 おざなりな謝罪に口を曲げ、それでもベッドから起き上がり鏡台の前の椅子に座る。

 鏡の中で不機嫌な顔がむくれている。その頬を金髪碧眼の男の子が指でつつく。触れられた感触はないのに、鏡の中のわたくしはその指先を頬にむにりと沈ませている。

 雪国の子は火を。砂国の子は水を。寒くもなく熱くもない、そんな土地の子どもは様々な魔法を。

 火は使えなかった。水も出せない。宙に浮く事も出来なかったし、屋敷の敷地外に出ることも禁じられていた。

 魔法を使えない子は多い。わたくしもそちら側なのだと思っていたけれど、どうやら目が良かったみたい。そうは言っても透視はできない。未来も過去も見ることはない。ただ、風が色付くように、魔法の残り香が見えた。ううん、残り香だけでなく、無色透明な魔法の姿も、はっきりと。

 見えてしまえば音や声だって聞こえるの。それは人の身体に纏い、光り輝いている。

 大人になれば消えてしまう一過性の超能力のようなもの。ランドール先生にはすでになくしたと言ったけれど、本当はまだ、見えている。妹ができた日の夜。彼女が泣きながらわたくしの部屋に訪れた日を境に、わたくしの目はずうっと、世界に眩んだままでいる。

――鏡の中の弟。彼を見つけたのは、魔法が見えるようになってすぐのことだった。

『あなた、どなたかしら』

 鏡の中に男の子を見つけ、部屋を見渡し、彼が鏡の中にしか居ないことを確認し、そうして訊ねた。すると男の子は驚きに目を見開いて、それでも逃げることなくお話してくれた。


「普通は誰にも見えないんだ。なんで見えるんだ?」


 質問の答えではなかったけれど、幼さの残るわたくしはそれでも気にしなかった。


「わたくしの魔法のおかげね。最近発芽したの。ただ目が少し良いだけの地味な魔法だけれど」

「ふーん」


 見つめ合うこと数秒。短く揃えられた金の髪を揺らし、目を逸らす横顔の白い肌が赤く染まる。恥ずかしがっていることは見てわかる。くすりと笑うと頭を掻いてようやく向き合ってくれた青い色の瞳が綺麗で――あるいはその色味全てが羨ましく――じっと見つめ返しているうちに無意識に鏡の前に立ち彼と向き合っていた。


「俺は鏡の魔法。絵本や童謡でどういうことができるかくらい知ってるだろ? んでもって、男ならするだろ、街一番のお屋敷の探検。つまりまあ、わざとじゃなかった。勝手に部屋の鏡に入って覗いてごめん」


 年頃は変わりないように見えて、それも誠実に謝ってくれたものだから警戒心はすっかり消え去り心を開いてしまった。だって、わたくしは昔からお友達というものに憧れていたのだもの。


「約束してくれるなら、レディのお部屋を無断で覗いたことは許してさしあげる」


 彼は言ってみろと首を傾げる。


「私とお話したことはどなたにも内緒に。それを守っていただけるのなら、専用の鏡を用意してこれからも歓迎いたしますわ」


 それは子どもの頃のやり取りだった。もう何年も前の事。それでも彼専用の鏡台は毎夜少しの時間、彼を映した。

 思い出よりも背がぐんと伸び、肩幅も広くなった同い年ほどの少年と青年のはざまの彼。鏡の魔法。自立した自我があるだけで、彼は誰かの魔法だった。そして、誰か、なんて顔を見れば一目でわかる。

――ジーン。

 きっと彼女が男の子だったなら、体格はさておき彼とそっくりそのまま同じ面持ちになる。

 とは言え、ジーンの魔法であることは彼自身が教えてくれた。魔法が光として見える目で同じ色をしていることもあって、少し探ってみただけなのにすんなりとした白状だったのを覚えている。


「鏡の魔法は秘密を暴く、秘密の魔法。当然魔法本体の俺も、主人のジーンも秘密主義だ。ま、知りたいことがあれば友人の範囲で教えてやるよ」

「あなたがジーンの魔法なら、わたくしの弟なのね、あなた」

「はあ!? 馬鹿言うな。魔法を弟扱いなんて頭イカれてんぞ」

「まあ酷い。お姉ちゃんって呼んでくれてもいいのよ?」

「誰が呼ぶか。絶対に呼ばないからそんな目で見んな」

「いつでも呼んでね」

「鏡の中のあんたじゃなく現実のあんたのそのほっぺつねりたくなるなあもう!」


 結局ジル――ジーンと呼ぶには憚られたから、ジルと名付けた――はわたくしのことを姉とは呼んでくれなかったけれど、ジーンにも内緒でジーンの事を……教えてなんて言ってないことも教えてくれた。魔法だから弟じゃないなんて言うけれど、俺が情報源ならジーンも許すだろ、なんて言う。ジルは少しずるっ子さんに育ってしまったみたい。

 思い出に浸りながら再度ジルへと視線を向ける。


「ジーン、危ないことはしていないわよね?」

「俺の方が危ないことさせられてるよ。エディットみたく見える奴に鏡を割られたらせっかくここまで育てた自我が消えてただの鏡の魔法に戻っちまうってのに、昨日も今日もあっちの鏡、こっちの鏡」


 聞き耳立てて盗み聞き、鏡の中から堂々と覗き見。ジーンからジルの事に話をずらされた。それはほどほどに危険なことをしていると自白しているようなもので、溜め息を落とし軽い頭痛に目を伏せる。

――この子たちったら、本当に困ったさんたちだわ。


「本当に危なくなったらちゃんと伝えにくるよ。出かける時に手鏡は持ち歩いてるんだろ? ちゃんと肌身離さず持ち歩けよ」


 電話より早く駆けつけると笑うけれど、その電話よりも役に立たなかったのが今夜じゃない。

 鏡の表面、その頬をつつくとほんのり体温のような温かさを指先に確かに感じ、もう一度、今度は安堵から吐息を溢した。


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