第2話

 ひとりきりの部屋には様々なジャンルの本。貴族名鑑や地理と歴史、言語と算術の本もあるけれど、半分以上は少年少女が好むお姫様と王子様の恋愛童話や数百年前のドラゴン退治の伝記。子どもが退屈しないだろうもの。それらを取りあえず思い出した際に注文しているのか、上巻だけない、あるいは中抜けしたシリーズ物が、堂々と本棚に鎮座している。

 読みたいの、と侍女に伝えたなら、欠けた数字の巻は数日後には埋まっている。けれどそれを口にするのは惨めという言葉を理解し始める年頃でしたもの、なんだかとても恥ずかしくって、とうとう声にすることができなかった。

――大抵の事は自分ひとりでもできるようになりなさい。

 父の教育方針の通り、着替えや簡単な身の回りの整理は早々ひとりでできるようになった。だから家庭教師との勉学が済んだ夕食後、湯浴みを終えてからは侍女を呼ばない限りはひとりの時間を過ごしていた。なにをしてもよかったし、なにもせずとも誰も自分を気にかけない。

 だからこそ、気付くのが遅かった。

――あら。

 鏡の前、胸元に垂れるよう緩やかな三つ編みを完成させ、頬に手を添えひとつ微笑んでみる。あどけなさの残るぽてんとした薄紅の頬。さらさらの肌をして睫毛は長く、けれど人並み外れているわけではない目鼻立ちの整いには親しみやすさも感じる。左右どちらから見たとしても、ひとつの答えにたどり着く。

――わたくし、可愛らしかったのね。

 それに気付いたのは、初めて会った男の子――のちの婚約者からプロポーズを受ける少し前。色味としてはそう見目を引くものではなくとも、肩を寄せ伏し目に憂いの表情を浮かべると、わたくし自身ですらこの女の子を前にして肩を抱きに行かずにはいられない。

――けれど。

 鏡の前に座り寂しげな表情をする、部屋にひとりきりの女の子。彼女の肩を抱く人も、手を差し伸べてくれる人も。そして、鏡の中寄り添ってくれる人も。

 この時にはまだ、誰もいなかった。



 日傘でなるべく目元に影を入れ、もう少々ですと声を張る使用人に小さく手を振り微笑む。

――なら、ここで待とうかしら。

 ハーフアップに結び上げた髪の先がぬるい初夏の風に揺れ背をくすぐり、袖のないワンピースからすらり伸び出た腕をひとつ撫で去る。

 屋敷の裏手側、のどかな草原を目の前に、使用人たちはせっせと木枠を敷き地面を平らに、日差し避けに厚手のテントを張り絨毯とクッションを装飾していく。

 晴天に恵まれた嬉しさはあるものの、昼間の日差しに負ける目には日傘があっても少々つらい。けれど、薄目で騙し騙しあれば数時間くらいは我慢できる。

 約束の時間まであと一時間ほど。テントの中で腕を目元に乗せ待てば、あっという間に時間は流れた。


「リアーニァ・ソルベットと申します。本日はお招きいただき深くお礼申し上げます」


 慣れた様子でスカートを軽く摘まみ上げカーテシーをしてみせるリアーニァさんに、ジーンは両手を胸の前で重ね合わせ、花咲く笑顔で来訪を喜んだ。


「お姉さまのお友達がいらっしゃるなんて、夢みたいです!」

「だから言ったでしょう?」


 お姉ちゃんのお友達が来てくれるから、あなたもピクニックにいらっしゃい。この誘いに「脅したの?」こてんと首をかしげる妹の顔に悪意はなく、けれどいたずら心はあって、ほっぺを軽くつねると謝り笑みを浮かべわたくしの胸元に顔を埋め抱きついてくる。脅しに近い流れだったことはもちろん伏せた。それが昨夜のこと。


「だってお姉さまのお友達ですよ! お姉さまの目に留まるようなご令嬢! そんな方がいらっしゃるなんてびっくりしました!」

「あら。わたくしは性格が可愛らしい方ならどなたとでもお友達になるわよ?」

「ならこれからどんどんお友達が増えますね! 私、おもてなしのお料理頑張りますっ」

「味見にロディが必要ね」

「えーっ? やですよあんな人に食べさせるの!」


 こと料理の件に関してだけは、ロディとジーンの仲は雷雲轟く嵐模様だった。

 変なものは食うな食わせるな派のロディと、自称食べられるものしか作っていないジーン。ロディにも諌められるほど、妹の手料理を断れないわたくし。


「あの人にあげる分なんてないです。お姉さまへの愛情をたーっぷり詰めたデザートなのに、お姉さまの分が減っちゃうじゃないですか……」

「可愛い顔でむくれないの。あんまりにも仲が悪い様子を前にしてしまったら、お姉ちゃん、悲しくなってしまうわ」

「むうぅ……」


 ぷくぷくに膨らんでしまった頬を両手で揉み、機嫌が直るよう「可愛い可愛いお姉ちゃんのジーン」額や目尻に口付けする。「もー、私たち一歳しか違わないんですからね?」そう唇を尖らせるけれど、手首を掴む手には全く力が入っていないところだって、とっても可愛い。

 胸元でぎゅうぎゅうに抱きしめて、くすくす笑うジーンを前に、リアーニァさんが息を吐く。


「偽りなく仲の良い姉妹なんですね。……本当に、誤解だったようです。謝罪を受けてくださいますか?」


 脈絡のない会話にジーンは首をこてんと傾け、ふたりの会話だと察してか一度強くわたくしを抱きしめてから後ろに下がる。


「もちろん。けれど言葉はいらないわ」


 リアーニァさんに近付き、手で内緒話をするよう壁を作り耳元で囁く。

――リアーニァさんの肌、とっても唇心地がよかったから。

 思い出したのかチークが不要なほど真っ赤なお顔で一歩後ずさり片手で耳を塞いでみせる。やっぱり彼女は、こんなにも可愛らしい。

 このまま距離が離れる前に、腰を曲げ深く頭を下げる。


「最低なセクハラをしたのはわたくしですもの、謝罪が必要なのはこちらの方です。リアーニァさん、謝罪いたします。申し訳ございませんでした」


 しばしの静寂に包まれ、耳に聞こえるのは鳥のさえずりに夏風の揺れ。妹の困惑は振り向かずともよくわかる。

 入り口は広く取っているものの、吹き抜け構造ではないテントは風通しに欠いていた。地域柄、肌にじっとり纏わりつく湿度とは無縁であったとしても、その分日差しは容赦なく肌を焼く。この時期は日なたに十数分いるだけで明日を前に肌は赤く染まるはず。

 日差しから逃れたくば天井と壁のある場所へ。

 風を受けたくば日傘を持って。

 暑さをしのぐにはそれくらいの選択肢しかないものだから、ゆっくりと頭を上げ一番初めに目にした、顔の前を浮遊する水色の小魚に一瞬頭の中が真っ白になる。小魚の尾ひれにそよぐ空気は冷たく、慢性的な痛みもどこかへ目を見開いた。

 水の影が、柔らかに揺らめき頬を撫でる。


「わっ、わぁ……!」

「まぁ……」


 姉妹揃って感嘆の吐息が自然と漏れる。

 指の爪よりは大きな、水色どころか水そのもので形作られた小さな魚。うろこの一枚ずつが光を反射し輝いて、群れを作りリアーニァさんを中心に回遊する。その身体の水温は低いのか、数匹がわたくしたちの首もとや肩、鼻先をぱくぱくついばむと、ひんやりとした気持ちよさについはにかむ。


「気に入っていただけたみたいでよかった」


 吹っ切れたように得意気に。そしていたずらっ子の微笑みで夏空へと掲げた手のひらに小魚を泳がせる。

 それは晴れの日の雨と見紛うほどの、美しい光景。

 驚きながらもきゃあきゃあ小魚たちと戯れる妹を横目に問いかける。


「これがあなたの魔法なのね」


 この歳まで魔法を使える人は少ない。けれどいないこともない。使えるけれど使えない、なんて魔法を隠すことは、便利な魔法であるほど幼少期に利用され続けた結果、よくある話だから。

 指を宙に伸ばす。数匹が近寄り四方からついばんだり、つるつるのうろこを擦り付け群れに戻る。指先を手で撫でると乾いた指先が、けれど戯れを受けた場所のみ冷ややかさを保っていた。

――本当に、気持ちいい。


「あまり使わないようにしているから、すごく大きいものっていうのはできないんです。でも小さくても涼しいでしょう?」


 リアーニァさんは耳に髪をかけ、後ろ手に手を組み微笑む。


「謝罪を受け入れます。これで仲直りですね」


 仲直りも嬉しかったけれど、彼女なりの気遣いも負けじと嬉しい。だからわたくしも、心から微笑み応えた。


 テントには刺繍の道具やジーンが自室から持ってきた釣りの心得本。摘まめるお菓子もあるけれど、殿方の到着に合わせ侍女に用意するよう伝えてあるからピクニックらしい昼食一式はまだここにはない。

 穏やかな空気に一息吐くと、時計を確認したジーンが立ち上がる。


「そろそろケーキが焼ける頃かな。用意してきますからゆっくり待っていてください」

「今日のはレシピ通りなのかしら?」

「もちろんです! お姉さまのお友達に初めて作る料理をお出しする勇気はないですから! でもお姉さま用のアレンジバージョンも隣で焼いてますよ!」

「そ、そう……。ありがとう、いただくわ」


 急にお腹がいっぱいだと脳が信号を出し始めるけれど、フォークを持てば姉心として妹の視線に応えるしかなくなる。


「ジーンさん、本当にお料理なさるんですね」

「我が家の教育方針なの。大体のことは自分でできるようになりなさい、って。レシピ通りの料理はどれも美味しいから安心なさってね?」


 妹を見送ると、屋敷に何台もの車が入っていくのが見えた。残念なことに風向きが悪かったのか、慣れない排ガスのにおいに鼻を隠すよう手で覆い、リアーニァさんにはハンカチを差し出し眉を下げ謝る。


「お昼前に酷いにおいね。騒がしくしてごめんなさい。屋敷の地下にね、銃火器を保管するんですって。搬入日が今日でしたの」


 砦はもう間所程度の役割しかないけれど、それでも年に数回、繁殖期あたりに渓谷や孤島から餌を求め知能の低い竜種が飛来する。運が良ければ数人の軍人の犠牲で済む現状を、死者数を出さずに済むようにしたいとのお父様の意向だった。

 ……それに、来年はロディも軍に所属するのだから、単純に支援物資を所有することについてはわたくしも賛成する他ない。


「魔法はもう衰退した。魔法使いこそ重宝はするが、代案に力を注ぐ時期だ、とお父様が話してくださったわ」


 電話やラジオ、車。この数年でどんどん生活に新しいものが増え、そしてこれからも目まぐるしく溢れていく。恩恵を受け慣れてしまえば、この時代の変化は喜ぶべきことと理解はできるのだけれど……。

 テントの中、クッションを枕に仰向けになる。

 上下水道の整備やダム開発で水の魔法は消えていき、電話の普及でテレパスの魔法は消えていく。飛行船や戦争で使うような戦闘機が一般化すれば、空を浮く子もそのうちいなくなる。だからきっと、わたくしたちがおばあさまになる頃には魔法使いはおとぎ話の存在になるのでしょう。人とお話しできる竜種がわたくしたちの世代ではおとぎ話になっているように……。

 物寂しさはあるけれど、魔法使いがいなくなるだけで、魔法が本当になくなってしまうわけではない。魔法の本質は人の欲。あったらいい、できたらいいと羨望し、想像する力さえあるのなら、世界は大して変わらない。

 だから、わたくしの見える世界も変わらない。きらきらと輝いて、そのまばゆさに誰のことも直視し続けることが難しい。

 先ほどは目をまあるく見開き魔法を直視してしまったからか、今はだいぶ、目の奥も、頭も痛い。

 ゆっくり深呼吸し、少しまどろむ。

 日差しは高く、日陰にいても暖かな陽気が肌を撫でる。こんな天気のいい日に似つかわしくないエンジン音に、むっと声色を拗ねらせ呟く。


「……それでも、武器を好きにはなれないわ」

「わかります、それ」


 両者共に苦く笑みを浮かべる。

 ジーンが居なくなった分開いてしまった二人の距離を埋めるよう、少しリアーニァさんに近付き座り直す。そうして手を差し出し、隣にあなたも、と促す。まだ並んでお昼寝できるほどの間柄にはなれていない。それでも共感し合い共に表情を陰らせる彼女とは、時間さえ積み重ねれば、とびきり仲良くなれるはず。

 ほら、さっそく心のこもった謝罪の言葉だわ。

 隣に座り直してくださったリアーニァさんがばつの悪い顔で吐息する。


「私、まだエディットさんのこと誤解していたみたいです。ごめんなさい」

「ふふっ。気にしないで。想像と違った、は言われ慣れているから。実は昨日、ランドール先生にも言われてしまいましたの」


 年頃の貴族の集まりでは率先して意地悪な言葉を求められるけれど、そ知らぬ顔をしてスルーしていればつまらない女と影口を受ける。今や魔法よりも早い速度で衰退していくだけの貴族という身分を自ら貶めていることにすら気付けない人たちとの会話は、本当に、くだらない。

 心が陰る思考はすぐに頭の隅に追いやり、リアーニァさんと微笑み合う。背をクッションに預け、そよ風に耳を澄ませていると、このタイミングでもう一度小魚ちゃんが頬に擦り寄る。くすくすと微笑み、穏やかな時間に肩の力を抜いていく。と、突然「お姉さま~!」鈴を転がした声に呼ばれ、起き上がる。

 自動車に紛れて到着したのか、ジーンの隣でバスケットを持つのはロディ。その後ろにはレグルスさんが歩いていらっしゃる。

 殿方の到着に曲げた両膝を抱きしめ、顎を乗せ顔を傾ける。もう少し遅刻してくれてもよかったのだけれど、レグルスさんはリアーニァさんが大好きでいらっしゃるから仕方ない。

 わたくしのお臍を曲げる様子を察してか、自分の婚約者とわたくしに板挟みになった顔を陰らせるリアーニァさんに苦く笑う。


「先にあなたとお友達になりたかったの。憧れの女の子のお友達ができるかもって思ったら欲深くなってしまったみたいね。……ほら、レグルスさん。彼ってナイト様じゃない? わたくしみたいな評判の悪い女、あなたに近づけたくないんだろうなぁって納得できますもの」


 彼が来てしまえば、こんなに近くに彼女とお話しすることは難しくなるはず。

 しゅんと肩を下げるも、表情がわかる距離に来る前に頬を軽く叩いたりひっぱったり、失礼な仏頂面だけは隠し外向きの微笑みを張り付ける準備をする。


「その件ですが、もう、友達でいいですよ」

「…………えっ?」


 聞き間違いかもしれない言葉に、むにむにと頬を揉んでいた手が思考と共にそのまま停止する。

 リアーニァさんはテントから出ると、日の光を受けこちらに微笑む。


「私、遠からずにきっとエディットさんが大好きな友達になれます。あなたって思いの外可愛らしくて、クラクラしちゃうもの」


 ぽかんと開いた口を何度かぱくぱく小魚のように開閉し、ドキドキし始めた心臓に言葉が詰まる。


「では……、その……」


 立ち上がり、咳き込みをして声を整える。お腹の前で少女のように両手を遊ばせ恥じらってしまう自分がまだいることに心の隅で驚いた。


「今日を外した、その、学校ではね? 学校では、一度目は、自己紹介。二度目は少々苦笑交じりに思い出す会話を。……三度目は、わたくしから話しかけてもよかったかしら……?」


 もちろんですと、彼女が微笑む。感情のままはにかむ顔が火照る。先生にチョコレートをもらった日よりも、ずっとらしくない自身の姿。けれど、ちっとも悪くない。

 笑顔でロディたちを迎える。上機嫌でいると、うまくいったらしいと察しのついたロディがわたくしの腰を引き寄せ額にキスをして、よかったな、と微笑む。これに頷く前にロディをわたくしから引き剥がすのはジーンで、手を引かれ、テントの中に座るよう促される。そのままリアーニァさんをわたくしの隣に、もう一方の隣にジーンが座る。

 遠目に控えてくれていた侍女がこの時ばかりはと女性陣の前にサンドイッチやノンアルコールジュースを用意し、昼食を挟むように男性陣が腰を下ろす。


「お姉さまはこっちです!」

「オレンジと赤が可愛らしいパウンドケーキね」

「クリームをうんと甘くしたので、ケーキはちょっと工夫してみました!」

「いただくわ」


 ケーキをフォークで一口大に切り分け、口に運ぶ。

世界で一番可愛い妹が、わたくしを想い手ずから作ってくれたパウンドケーキはもったりと重めで、端のオレンジ色部分が柑橘類の渋皮を噛んだように苦く、中央の赤色の部分がスパイシーに辛い不思議な味だった。合わせのクリームはなぜか爽やかな甘さ、甘酸っぱさ、甘さ控えめ、歯が痛くなるほどの甘さと、風味がいろいろあってしゃりしゃりしている。数種類ほどの溶かした飴でも混ざっているのかしら。

 ――胃や腸が驚いてしまう味ね……。

 顎が咀嚼を躊躇ってしまうけれど、甘味好きとしてはこれなら……食べられないこともない。……はず。


「またなんとも言えない不思議な顔をしてるな」

「あっ! だめ!」

「っ」


 ジーンの制止を無視すると、ロディは膝立ちにわたくしのお皿へ手を伸ばしケーキを手掴みで自身の口に放り込む。言葉を失ったかと思えば据わった目付きで切り分けられていないパウンドケーキの塊が乗ったお皿ごと侍女に渡し問答無用で下げさせる。


「不味くはなかったはずなのに……!」


 慣れた様子の侍女はジーンの泣き言を聞くことなくケーキを下げ、代わりにわたくしとロディ、そしてジーンにも、そっと胃薬を差し出してくれた。


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