エディット・ソローの魔法の瞳

さかしま

第1話

 世界は光に満ちている。隠喩ではなく、現実として。


 光が強く見えてしまう薄青の瞳を持って生まれたから、朝か夜なら眩しくない夜が好き。濃い藍色の夜を駆ける静かな風は少し肌に冷たいけれど、昼間に直視することも難しい金色の髪や雪の肌を、この時ばかりはどうにか真っ直ぐ見てあげられるのだもの。

――けれど本当は、朝焼けが空に溶けた頃の、鮮やかな瑠璃色はもっと好き。

 腰まで伸ばした黒に近いダークブラウンの髪は亡くなった母とお揃いの色味と癖毛で、母とはあまりいい思い出がなかったから少し苦手。苦手な話より好きな物の話が好きで、味は甘味が一番。まだ自動車よりも、馬車が好き。犬と猫、魚。家族も好き。妹と弟たちはお父様より大切で、そして婚約者のことは、妹と比べられないほど、大好き。

――エディット・ソロー。

 街を俯瞰できる、街の外れの丘に建つ領主一族のお屋敷に暮らすその長女。十七歳。それがわたくし。


 街が村だった頃からこの地を治めてきた家系の本邸は、街外れに位置していても人目に恥じぬ華やかな外装を保っている。歴代の領主が設えた家具や調度品で整えられた内装も品や格式、貴族としての一種のプライドをその重厚感を持って示し、言ってしまえばそこは内も外も領主邸宅として相応しいお金のかかったお屋敷だった。

 使いきれない部屋数に、お客様に年に一度見ていただけるかどうかも怪しい手入れの行き届いた広い庭園。街から屋敷までの道はなだらかに舗装され、敷地内には馬車用の馬と馬房、自家用車の展示と駐車用スペースまで完備されている。屋敷から少しばかり外れた位置にある林や川もその見渡す限りは私有地で、維持費は決して微々たるものには収まらない。街に出るにしても徒歩では片道にどれほど時間をかけることになるのか。馬車に半時ほど乗っていれば到着できるけれど、車を使えばその半分で済む。

 それは近いのか、遠いのか。冬は倍以上時間が掛かると考えて差し支えなく、酷い悪天候なら街に到着することも容易ではない。

 街を一望できる領主邸宅に相応しい土地ではあった。けれど、交通の不自由さに街の中心に別邸を持つようになるには当たり前の立地とも言えた。仕事をするには、別邸に住まう方が当然都合がいい。

 そうして妻は本邸を、夫は別邸を中心として過ごすようになり、いつしか一歳しか年齢の離れていない異母姉妹が現領主の娘として生まれていた。

 街中で暮らす妹に貴賎はなく、父親譲りの金の細くしなやかな御髪を揺らし、子どもの集まりならば路地裏に住む少年少女とすら共に走り回る。妹はたいそう優しく、可愛らしい子に育つ。

 一方姉は丘の上から街を眺めるだけのお貴族様で、領外との社交にしか興味のないどら娘。税金を洋服や装飾品として食いつぶす、見た目だけのご令嬢。優しい妹に当たり散らかす高飛車女。


「行かなくていいよ、あんなところ」


 鏡の中の弟が不機嫌に目を鋭く吐き捨てる。笑った顔も、怒った顔も、腹違いの妹にそっくりな可愛い弟。彼の心の籠った忠告を、ありがとうと微笑みながらも受け入れなかったのは、他の誰でもないエディット・ソロー。わたくし自身だった。



 ほう、と吐息し、頬に手を添え頭をほんの少し傾ける。街の学校に通うようになりほんの数日。興味深い噂が流れていたことを知り、弟の心配性と初対面のクラスメイトたちの当たりの強さがようやく腑に落ちる。


「妹さんにはちゃんと謝罪されましたか?」


 数秒かかってしまったけれど、それがわたくしへの問い掛けであることに気付き顔を上げる。身に覚えのない悪行への陰口にはこの数日で慣れたけれど、面と向かっての忠告……注意は初めてだった。

――妹さんにはちゃんと謝罪されましたか?

 たった今投げかけられたばかりの気の重くなる言葉を口内で反芻し、もう一度吐息する。謝罪はしていない。する気すらない。妹のジーンだって、わたくしからの謝罪は望んでいない。


「もしかして聞こえなかったのかしら?」

「……いえ、リアーニァさんのとても愛らしい声ですもの、一言も逃さず聞こえましてよ」


 自席から立ち上がり、真正面に彼女を見据える。ジーンはわたくしよりも拳ひとつ分ほど小柄だから、同じ目線の女の子とこんなにも至近距離で見つめ合ったのは初めてのことかもしれない。

 屋敷から街を眺めるばかりだったことは、その通り。だから辛うじて知人と呼べる同じ年頃の知り合いは貴族の社交場で家柄と付き合いのある男性ばかり。それも女性が家督を継ぐことに否定的な時代遅れの殿方たち。そして領外の社交にばかり向かわなければならないのは、女の子のお友達がひとりもできなかった程度に貴族の集まり自体年々数が減る一方だから。最後に我が屋敷で晩餐会を開いたのは、もう数年前になる。


「それで?」


 早く答えなさいと、明るいブラウンのロングストレートの髪を耳にかけ真っ直ぐ射貫いてくる緑色の目。普段なら整った面立ちのこの方に微笑まれでもすればきっとはにかまずにはいられないはず。けれど、今この場では両手を組み伸ばされた背筋の美しい姿勢が相まって、いっそ威圧的に見えてしまう。

 彼女の名前は、リアーニァ・ソルベット。隣の領地から我がソロー領地にまで学びに来てくださった、このクラスのクラス委員長。今まで付き合いはなかったものの彼女も貴族の家柄で、だからこそ編入初日に彼女だけがわたくしに臆せず自ら自己紹介をしてくれた。

――嬉しかったからちゃんと名前の綴りだって覚えたのだけれど、挨拶の後は一度もお話する機会もなくこの現状だなんて残念だわ。

 目映い光から逃げるよう目を伏せ、けれど憂いはまばたきひとつでふるい落とし目を細め笑みを向ける。


「謝罪、ですか。ええっと……、謝る、とは具体的にどう行えばいいのかしら? 頭を下げる? のよね。この場合は膝を床につきこうべを垂れるべきかしら?」

「そ、そうね。誠意を見せるならそれくらいしてもよいかもしれません」

「誠意、ですか。誠意を見せるなら、確か靴を舐めたりもするんですよね。けれどそれはちょっと……、不潔よね……? ああ、そうだわ。代わりに足の甲に口付けなんてどうでしょう?」

「えっ? ええっと……謝罪の形式に誤解があるようですし、そこまでは――」

「いい機会です。試しにしてみましょう。謝罪に対しての助言をくださったリアーニァさんはもちろんお付き合いくださいますよね?」

「えっ、えっ?」

「失礼いたしますね」


 追随を許さず一方的に彼女の足の甲へと視線を下げ、しっかりソックスと革靴に隠された肌を確認し膝を床に、膝立ちとなり彼女の脹ら脛に手を添える。見上げると薄紅に頬を染めた可愛らしい女の子が口元を指先で隠し困惑に固まっている。その可愛らしい姿に微笑み、手を添えた足を自身に引き寄せ、スカートに見え隠れする太腿にそっと口付ける。


「ひぁっ!?」


 可愛らしいお方の可愛らしい小さな声に止まることなく、数度唇で肌を撫でては膝へとゆっくり箇所を下げていく。


「待っ、待って! ひぅっ……!」

「謝罪には誠意を。ええ、とてもよい心がけだと思います。ただ、足の甲はソックスがありましたから、今回は少々アレンジさせていただきますね。その代わり、数回重ねさせていただきます」


 にっこり、有無を言わせぬ笑みを顔に貼り付け彼女を見上げ、その赤面に追い打ちをかける。逃げられないとようやく理解してくれたのか、再度脹ら脛に口付けようとした瞬間かくんと腰を抜かし彼女はわたくしの目の前で床に座り込む。これに手を貸さない女なら噂も遠からずと言えたでしょうが、自認としては、そこまで性格がひねくれてしまっているわけでもない。……けれど、王子様は遅れてくる、なんて言う通り、手を差し出す前にこのタイミングで教室のドアが乱暴に開き、走ってきたばかりの呼吸の乱れた男子生徒がそのままリアーニァさんの肩を抱く。


「なにをした」


 鋭い視線のそれは疑問符もつかない、わたくしの非を糾弾するためだけの問い掛け。

 彼は、見たことがある。挨拶はしていないけれど、リアーニァさんの婚約者、レグルス・ウィンチェスターさん。わたくしの婚約者、ロドリック・ソーンと仲の良いクラスメイト。

 ひと睨みに臆することなくおみ足を手離し立ち上がり、けれど数歩下がることをせず、次はレグルスさんへと一歩距離を詰める。


「いけないことをしてしまったわね。謝罪いたします」


 伏し目に肩を寄せ、口先だけの反省に眉を下げ耳打ちする。そこに誠意はひと欠片だってありはしない。


「このご様子ですもの。あなたがそこに口付けするたびに、わたくしを思い出してしまうかもしれません。ですから……。わたくしより優しい口付けで、塗り替えてさしあげて、ね?」


 リアーニァさん同様、瞬間的に赤面する顔色が可愛らしく目を細め、ようやくお二方から距離をとる。

 王子様は、遅れてくる。

 わたくしの場合も例に漏れずその通りで、息切れもなく教室に入ってきた婚約者、ロドリック――ロディが呑気にレグルスさんの肩を叩き現状理解もしないまま「なんで床に座ってるんだ?」立つよう促す。

 レグルスさんは口を数回開閉させわたくしへの罵倒の言葉を探すも、リアーニァさんを立たせた後はロディに向き直り、その肩を掴みわたくしの方へと突き飛ばす。

 ロディは卒業後、軍人になる予定でいる。適度に身体作りをしているからか、大きくよろけることもなくわたくしの隣に立ち並ぶ。


「そういう触れ合いは婚約者相手にしてくれないか!」


 わたくしへ向けられた怒鳴り声に、隣の婚約者を見上げ首を傾げる。


「してほしいのかしら?」

「遅れて来たから見てなかった。なにをしたんだ?」


 腕を引き、屈ませ耳打ちする。

 未だ赤面の落ち着かない、大きな瞳に涙を滲ませる可愛らしい女の子。彼女がどうしてこうなったかを理解し、ロディは若干頬を桃色に染め不機嫌に唇を尖らせる。

 彼の指先がわたくしの頬を撫で、そのまま親指でふにりと柔く唇に添う。これに応えるように、彼の背へと片手を添える。


「それは……、したいならされてもいいが、俺もしたい方だな。レグルスは単に問題を起こすなと言っているんだろう」

「問題……?」

「エドが俺以外にキスするなんて大問題だろう?」

「ふふっ、嫉妬してしまったの?」

「ああ、した」


 甘く愛称を呼ばれ、頬の手にもう片方の手を添えうっとり見つめ合い、微笑む。


「イチャつくな! 俺のリアーニァにキスするなと言ったんだ!」

「あら。そちらもお熱いこと」

「っいい加減にして!」


 レグルスさんかわたくしの言葉がきっかけになったのか、リアーニァさんがついに精神を立ち直らせ大声を出す。

 羞恥と恋心の二重苦にぽろぽろと涙を落とす彼女に、さすがにやり過ぎてしまったことを認め、ロディから離れスカートのポケットからハンカチを差し出す。けれど、この手はレグルスさんの手に阻まれてしまった。

 殿方のきつい睨みに対し、後ろ手を組み顔を横に、唇を尖らせる。


「女の子のお友達同士、交友関係を深めていただけですのに」

「泣かせておいてどこが交友なんだ」

「交友深い仲であれば喧嘩くらいしますでしょう? ロディから幾つかお話は伺っていますが、レグルスさんもよくロディと喧嘩していらっしゃるそうで。同じように、わたくしとリアーニァさんだって喧嘩ができる程度にとっても仲良しさんですの。喧嘩じゃないならいじめになってしまいます。怖かったもの」


 最後の一言にリアーニァさんは気付きを得たのか、弾かれたようにはっと顔を上げ、そうして苦悩の表情で頷く。あれは単なる喧嘩だった、と。


「では、仲直りしましょう。誤解だったとは言え、クラスメイトが数人残る公衆の前面で膝をつくよう促してきたあなたにわたくしも思うところがありましたの。ごめんなさいね?」


 膝をつく流れを作ったのはわたくしの方だったけれど、リアーニァさんからの反論はなかった。

 いじめているつもりがなくても、突然気強く言葉を使われ詰め寄られれば心は萎縮してしまう。ただでさえ先ほどまでのわたくしは孤立真っ只中の女の子だったのだから。その状態からわたくしの落ち度にするのなら、わざと辱しめ返す他なかった。……いえ、やりようはいくらでもあったけれど、こういったことは適度にやり返さなければ第三者からも同じようなことをされてしまうから、この方法を選ぶことにしたのはわたくし自身の意思でもある。

 初手平手打ちにはウィービングからのボディブローだなんて野蛮なことはしないけれど、それくらいの気持ちでいなければ搾取される側になってしまうもの。


「どんな誤解だ?」


 このまま謝罪を受け入れてもらい、なあなあに済ませてもよかったのに。わたくしの婚約者は知りたがりのマイペースさんだった。


「簡単に説明しますと、わたくしが妹をいじめているのですって」

「それは誤解だな」


 即答できっぱりと誤解だと同意してくれるロディに口元を緩ませ手を繋ぐ。

 でも、と会話を続けたのはリアーニァさんだった。


「ゴミ……の入った食事を食べさせたと聞いたわ」

「エドがそんなものに触れるわけないだろう」

「それはさすがに……、わたくしに夢を見すぎですわね……」


 変に庇われると逆に困ってしまうのだけれど。隣のことは気にしないよう目配せをする。

 わたくしだって身の回りの整理は自ら行うのだから、埃にも当然触れることくらいある。


「食堂の給仕スタッフが料理にあまりよくない物を忍ばせたのよ。すでに離職させてありますから、この件は終わりかしら?」

「でっちあげたのではないかと声がありますが」

「わたくしの食事をジーンがねだらなければ奇抜な味付けのスープをジーンが口にすることもなかった、ということも知っておいていただきたいわ。これでも止めたのよ、あまり美味しいとは言えないわよって」

「……あなた、食べたの?」


 知っていて、と声なく続く問いかけに微笑みを携え肯定する。


「昔からジーンの手料理を食べてきたもの。成功作も、失敗作もね。味を気にしないのであれば、大抵の物は異物を取り除きいただけますわ」


 九歳にもならない頃、金髪碧眼の小さな愛らしい天使のような妹に「釣りたてだと生でも食べられるんですよ!」と目の前で蠢く芋虫を使って釣りあげたばかりの小魚のお腹をフォークを使い一生懸命開かれたことがある。そして当然、内臓を避け無理矢理皮から剥がした身を川水ですすぎ「あーん」された経験があればこそ、胃腸関係は丈夫になるしかなかった。


「俺はあいつの手料理は食わん」

「あら。我が家にいらっしゃると必ずあの子の創作料理の味見に付き合っているじゃない」

「お前が口にするものを監督しているだけだ。俺が口を出さなければお前らはよくわからないものを食いよくわからなかったとリベンジするからな」

「わたくしのために作ってくれたお料理だもの。嬉しくって」


 小麦の風味すら消えた無味の石クッキーならまだとてもいい方で、黒焦げの炭化したスポンジだったモノがなぜかとっても甘いことがあった。パリパリのしゃくしゃくに口内に脆く砕ける消し炭とは思えぬ口当たり。なんとも不思議な食感に頭を捻りながらふたりでワンホールを平らげ、その夜ふたりして腹痛で医者にかかった日は大切な思い出になっている。


「わたくし、シスコンというものに当てはまるんですって。もちろん妹のことはとっても、とぉーっても、可愛がってるんですよ?」

「妹だけでなく弟にも甘いぞ」

「ロディにはブラコンとも呼ばれておりますわ」


 リアーニァさんは「ジーンさんはあなたを庇うし、口先だけならなんでも言えるから……」と口ごもる。

 小さな愛らしい天使は、そのまま愛らしい天使のような見目の女の子へと育った。お父様と同じ碧眼の瞳に、金色の髪は細く柔らか。もう数年後には聖母扱いになっていくのでしょう。ジーンを気にかけてくださる多くの方々が彼女を見目の通り儚い天使として扱うけれど、あの子、実際は今でも石の下の節足動物に針を付け敷地内の川で釣りをして、釣った魚の口にその細い指先を入れ戦利品を掲げるよう走り見せてくる元気で活発な女の子なのだけれど。

『釣りはどれだけ殺意を消せるか、ですからねっ!』

 得意気に胸を張り満面の笑みを見せてくれる妹を思い出しつい微笑む。

 お陰でわたくしもムカデ程度なら噛まれず摘まみ持てるようになりましたし、お部屋に入ってきた蛾も手掴みで外へ逃がして差し上げられるまでになりました。

 わたくしが八つの頃に母が亡くなり、父は義母と異母妹をその翌日に本邸へと連れて来た。けれど父は本邸に帰らず、今は別邸で新しい女性と五歳になる双子の異母弟との暮らしに興じている最中。

 未だ常識として、世継ぎは嫡男が継ぐものとされている。長女として家督を継ぐため家庭教師との勉学は重ねていたものの、弟たちが無事五歳を迎えわたくしが後継ぎの役目から降ろされる可能性がある今は、ならばしたいことをしてみたかった。

 婚約者と妹の通う学校に中途入学してみたり、家の繋がりなくお友達を作ったり、お友達と放課後のお出かけも外せない。

――女学生を、してみたい。

 そう意気込んでいたのだけれど、あまり歓迎されていないと知れば気落ちもしていた。……それでも、諦めなかったからかしら。ついにわたくしに向き合ってくださる気丈な女性と出会えた。

 数歩リアーニァさんへと歩を進め、両手を握り、わずかに背を曲げ懇願に彼女の顔を見上げる。


「リアーニァさん、急なお話になってしまうけれど、明日の休日は我が家にいらっしゃらない? ジーンに心配されているの。あまり耳に良くない噂、あなたも知っていらしてよね? お友達ができたのよって安心させてあげたいの」

「え、あの……遠慮させていただ――」

「ぜひいらして? ね? ね?」


 言葉を言い終わらないうちに追撃する。ジーンに及ばずとも見目には自信がある。実際リアーニァさんに目を眩ませながら瞳を輝かせお願いすると、数秒後にはぽっと頬を赤くさせ頷いていただけた。「……俺も行く」そう譲らなかったレグルスさんと「なら俺も行く」ロディも参加の方向でその後も話が進み、断れない流れに巻き込まれこちらに気まずい視線を向けたままのお二方は気にせず、ロディとわたくしで待ち合わせや集合時間、休日の予定を組んでいく。そうしているうちに王子様よりもずっと遅れていらした生徒指導を担う教師が「エディット・ソロー、来なさい」わたくしの名だけを呼び、指導室への移動を促される。

 クラスの誰かがレグルスさんを呼びに行ったように、教職員の方のことも呼んでいたらしい。本件の代表として呼ばれたらしいものの、悪評の渦中その真っ只中、というだけで決めた人選であることは疑いようもない。


 生徒指導室のソファに座り、黒縁眼鏡の似合う、大柄ではないが長身の男性教師――ランドール・ハミルトン先生にあらましをにこやかに説明する。


「そうやって仲直りいたしましたわ。せっかくご足労いただきましたのに申し訳ございません」

「いや、生徒間で済む内容だったならいいんだ」

「お話は以上でよろしかったでしょうか? 退室しても?」

「少し待ってくれ」


 彼は一瞬言い淀み、重い息をひとつ吐くとわたくしへ真っ直ぐ視線を合わせる。


「……食堂の件はすまなかった。噂を鵜呑みに生徒に手を出す職員がいることに考えが及ばなかった」

「お気になさらないでください。この数日で悪評についてようやく理解できましたの。身内かそれに近しい方に不幸があったのでしょう? なら、本件については同情心を優先いたします」


 噂はわたくしの品位を下げる内容を流されていた。ではなぜそんな噂がそもそも流されたのか。


「……老若男女問わず、月にひとり、もしくはふたりの行方不明者。それが十年も続けば被害者家族の数も相応に多くなる。税金食らいの娘がいるからろくに対策されてない、なんて思われていたとは知りませんでしたけれど、今は根も葉もない噂の横行を知った後ですもの。離職しているのなら、もうこれ以上の追及はいたしません」


 これでは駄目かしら? 苦笑に首をかしげると、ランドール先生は呆気に目をまあるく見開く。


「もしかして、先生も噂を信じていらしたの? わたくし、そんなにお金遣いが荒い、血も涙もない女の子に見えるのかしら……」


 わざとらしく頬に手を添え伏し目に肩身を縮ませる。これに慌てた声がしどろもどろに謝罪を言葉にする。


「あー……、すまなかった」

「ふふっ、いいですよ。謝罪を受け入れます。では、そろそろ出ても?」

「……いや、いい機会だ、少し世間話をしよう。例えば、きみは魔法が使えたかい? どんな魔法が使えた?」


 指導室の外でロディが待っているのだけれど、噂での判断をしない、と決めてくれたらしい真摯な視線を無視することはしたくない。それに、ロディなら二時間程度気にもせず待ってくれるもの。五分程度なら構わない。

――魔法。

 かつては半数に近い人々が子どもの頃に少しだけ使えた、その多くが第二次成長と共に失う期間限定の超能力のようなもの。年々魔法を使える子は減っていて、今では十代後半なら九割はその力を失っている、天気の話題よりはまだ広げようのある世間話の種。


「魔法は……小さい頃は使えましたけれど、どんなものかは内緒にしておりますの。内容によっては地域環境だけでなく家庭環境の考察までできてしまわれるでしょう? すでに失った力をいつまでも評価対象にされたくありませんから」

「なるほど。懸命だ」

「お話は妹、ジーンのことなら喜んで。プライベートのことは無難な答えばかりになってしまいますわ。例えば色は白と青が好き。食べ物は限度こそあれ甘味ならどのようなものでも。休日は父の公務の手伝いをする以外は家の付き合いとして出かけることが多いけれど、次に遠出をするときはクラスメイトにお土産を買おうと考えておりますね。その地方の特産品、食べ物がいいと婚約者に教えていただきましたから。これでもお友達に憧れておりますの。仲良くなれる想像だけで楽しくって、気遣っていただかずとも、学校というものにまだ幻滅まではしておりませんわ。……確かに気落ちはしていますが、精神に傷がついた、ということはありませんもの」

「……どうやら逆に気を遣わせてしまったみたいだな」

「お金遣いが荒そうな見た目でも、気遣いは得意ですの。安心できまして?」


 ランドール先生は「参った」苦笑しソファから立ち上がると、戸棚からファミリーサイズの袋を取り出しわたくしへ差し出す。

 それは未開封の個包装チョコレートの詰め合わせ。

 両手で受け取り見上げると、人差し指を唇の前に内緒だよと示唆される。青かびのように湿り気のある殿方の色をしているのに目尻にシワを作るその微笑みはとても穏やかで、人は見た目によらない、があまりにも反面教師で。……そして、内緒にするにはあまりに見目を惹く大袋のチョコレートだから、少しだけ、笑ってしまう。


「友達と分けて食べるといい。それと、大人を頼ることに抵抗があるようだがなにかあれば教師を頼るように。もちろん僕でもいい。学校に幻滅していないのなら学生の自分を楽しんでみるのも経験だろう? せっかくなんだ、どこにでもいる女の子、女子生徒として楽しむといい」

「どこにでもいる、女の子……」

「特別扱いはそれほど好きではないんだろう?」


 図星を突かれ苦笑する。取り繕う間もなくチョコレートを受け取ってしまったものだから、「……ありがたく頂戴いたします、ランドール先生」わたくしとしたことが、ほんの少しだけ頬を紅潮させながらのお礼になってしまった。


 指導室を出ると、ドアのすぐ隣でロディが待ってくれていた。


「だから言っただろ」

「……あまり楽しめないかもしれないぞ、なんて言われて、悪い噂が蔓延してるって誰がわかるのかしら。もっとはっきり言っていただきたかったわ」


 口先だけで少し怒ってみせると、くつくつと喉を震わせ苦笑してからひと息を吐き落ち着いた声色で謝罪を受ける。


「俺もジーンも耳にするたびに否定しているんだが、否定しすぎて俺たちの耳に届かないところで噂されるようになったんだ。犯人が捕まらない限りはこれが続くんだろうな」

「警察の雇用枠を増やすよう提言しようかしら。もう十分増やして他の街、領地と比べてずうっと犯罪率が低いのだけれど。留学生や出稼ぎ労働者だって、だから多くがこの街を選んでくれるのに」

「他の犯罪が滅多にないからこの件ばかりが騒がれまくってるんだろ。銃声も罵声も悲鳴も、普段生活していてまるで聞かないんだ。いい街だよ、ここは。ソロー家の尽力がなければこの街はあり得なかった」

「ふふっ、ありがとう」


 久しく耳にできなかった好評に気分を持ち直し、口角が自然に上がっていく。けれど突然立ち止まったロディにきょとんと目を丸く顔を見上げると、真剣な面持ちに射貫かれ浮足立ち始めた心も歩みを止めてしまう。


「それでも、エド。この街には連続誘拐犯がいて危ないことに変わりはないんだ。絶対にひとりにはなるなよ。それか、学校なんてやめたっていいんだ。本当は必要ないんだろ?」


 一通りの勉学は家庭教師に習い終わっている。必要ないと言われればその通り、ここで習う内容はすでに頭の中に入っていた。


「先月に弟たちが無事五歳を迎えてから、お父様ったらわたくしへの態度がみるみる甘くなるの。我が儘が通るのは今なのよ」


 後継ぎはまだ弟になるかは決まっていないけれど、候補に上がっていることが重要だった。


「眺めるばかりだったから、ちゃんと自分の足でこの街を歩いてみたかったの。屋敷から眺める街はとても煌びやかで、いろんな色に溢れていて。他の街や他の領地の方がより多く歩いたことがあるなんておかしい話、ないじゃない?」

「それはまあ、そうだが。言う程綺麗でもないだろうに」

「ううん。綺麗よ」


 チョコレートを落とさぬよう配慮しながら恋人へと腕を絡め、身体を添わせる。伏し目に廊下を眺め、けれど脳裏には所謂晩餐会というものを思い浮かべる。


「大理石にシャンデリア。磨かれたお皿たちとカラトリー。ドレスと宝石……。交わされる言葉だって嫌みをおめかしさせてきらきらしてる。時代に取り残されゆく貴族の集まりの眩しさには、わたくし、堪えられない。日常がいいの。眩しくてもいいから目を開けていたいと思えるのは人々の穏やかな営みの方なのよ」


 よくわからない、なんて顔で頭を傾げるロディに吐息し、一番簡単な言葉をはっきりと、けれど心を込め微笑み伝える。


「今までだって毎週会えているわけではなかったし、卒業したら暫く軍本部のある首都へ訓練実習に行ってしまうのでしょう? 好きな人と毎日会えるのは嬉しい。だから学校はやめたくない。これならわかるかしら?」

「なるほど」


 ようやくわかってくれたのか、ロディは満面の笑みで頷いた。

 マイペースで、少し心配性で、当然として立ち並び絡めた腕を受け入れてくれる。それがわたくしの婚約者。恋人。ロドリック・ソーン。

 古くはこの領地を護る騎士の家系。今では言葉が変わり、街一番の軍人家系。数人の兄弟の末っ子で、お兄さんや親戚の中には軍ではなく警察職に就き地位を築いている方もいる。軍事、治安的背景を熟慮すると、この街の権力者を挙げる際に彼ら一族の家名は外せない。

 ロディはわたくしが腕に抱えていたチョコレートの袋を手に持つと外装を開け、そのまま個包装を解きチョコを指に、わたくしの口元にひとつ差し出す。当たり前に行われる手ずからの行為に呆れるものの、わたくしもわたくしで慣れてしまっているから周りの視線を気にせず口を開き甘味を舌の上へ受け入れる。この時そのまま唇に触れてきた指先はわざとなのだろうけれど、意を汲みチョコは口内の奥に、もう一度口を開き今度はその指先を薄く食み舌先で撫で上げる。こうしている間にもとろりと溶けるチョコの甘さが口内を満たしていくから、ほんの少し指に残っただけのチョコの風味はあまりしない。


「あなたも食べる?」

「家ならその口の中の溶けかけを少しもらってたな」


 ロディは恨みがましくわたくしが有名人であるばかりに受ける他者からの視線にひと睨みするとため息を吐き、新しいチョコを取り出し自分の口に放り込む。わたくしが舌先を這わせたばかりの指先を同じように自分で舐めとると、甘いと眉をひそめチョコの袋を返してくれた。

 あまり良くない噂の中には、もちろん彼が関わる内容も含まれている。

 家の付き合いで決まった婚約者。可哀想にわたくしが離してあげないのだと耳にしたけれど、これは噂が正しい。……正しいけれど、少し真実が足りていない。


「……やっぱりキスしちゃだめか? 軽く済ませるから」

「唇へのキスでしょう? 軽く済むのかしら?」

「う……。無理だな……」

「なら我慢ね」

「うー……」


 口付けの代わりに絡めた腕をぎゅう、と自身に引き寄せる。

 好きな人とは毎日会いたい。嬉しくなるから。そう自ら口にした言葉に偽りはない。けれど、わたくしばかりが好いているわけでは決してない。


「リアーニァさん、チョコはお好きかしら? 仲良くなりたいわ」

「明日はレグルスを遅刻させるから、その間に二人で話すといい」


 腕を引き、屈ませる。つま先立ちをしてその頬へ口付けすると、お返しに額にちゅ、ちゅ、とくすぐるようないたずらなキスが降ってきて、くすくす笑みを漏らす。

 プロポーズは七つの歳に、彼から。もう一度聞きたいと言えば恥ずかしげもなく再演してみせてくれることはわかりきっている。

――俺を一番に好きになれ。そうしたら……。

 瞼の裏に、重ねた手のひらの指先の背に口付けされた日のことを思い出す。


「……ありがとう。大好きよ」

「俺もエディが好きだよ。誰よりも」


 教室へ戻る廊下を照らす放課後の、夕日のその橙色の光にすら、目の奥が痛む。

 世界は光に満ちている。隠喩ではなく、わたくしの目には、逃れられない現実として。

 大丈夫か。気を使ってくる声に頷き、けれど絡めた腕に今度は頬までぴたり密着させて、瞼を閉じた。


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