第140話 スリーカウントはプロレスラーの本能です

 見事に半円を描いたブリッジ。

 酒呑童子の両腕は、クロガネの腰をロックしたままだ。

 クロガネの分厚い肩が、見紛えようもなくマットについている。


 言い訳のしようもない、フォールの姿勢。

 しかし、想像もしていなかった事態に、ササカマは身じろぎもできない。


 いや、そもそもササカマはレフェリーではない。

 酒呑童子のロープエスケープには咄嗟にブレイクを宣言してしまったが、本来クロガネのセコンド味方であるはずのササカマが取るべき行動ではなかったのだ。


 道場に沈黙が満ちる。

 避難者観客たちも、一言も発せないまま両手を握りしめている。

 つばを飲み込むことすら憚られる静寂が空間を支配していた。


 しかし、その静寂を打ち破る声。


「ワァァァァアアアアーーーーーーーーーーン!!!!」


 それは少女の声。

 両手両足を包帯でぐるぐる巻きにされ、眼鏡の女に肩を貸された少女の声。


「ツゥゥゥゥウウウウーーーーーーーーーーウ!!!!」


 ソラだ。

 ソラに状況はわからない。

 しかし、リングで起きていることがプロレスであることは理解わかった。


 ソラはクロガネを理解わかっている。

 クロガネならば、空気を読んだ・・・・・・レフェリングなど絶対に認めない。

 だからこそ、カウントを続行する。


「スリィィィイイイーーーーー――――……」

「うおらぁっ!!」


 それはスリーカウントの成立寸前。

 まな板で息を吹き返した魚のように、突如としてクロガネの身体が跳ねる。

 両足を広げ、遠心力をつけてヘッドスピン。酒呑童子のクラッチを切り、フォールから脱出。

 とんぼを切って素早く立ち上がる。


「ひゅー……ちっくら昼寝をしちまってたぜ」


 クロガネは首をコキコキと鳴らして笑う。

 膝にはかすかな震え。しかし、それは頑強な意志によって抑え込まれている。

 この場でそれに気がついているのは、ソラとササカマ、そして酒吞童子のみ。


 クロガネは確かに気を失っていたのだ。

 だが、プロレスラーの本能がクロガネを目覚めさせた。

 スリーカウントコールが、プロレスラーの本能クロガネの魂を揺り起こしたのだ。


「ほう、随分寝起きのいいことだな」


 クロガネの虚勢を見抜いた酒呑童子もまた笑う。

 しかし、それに嘲りの色は一滴たりとも混じらない。

 強者を認め、そして称える笑い。

 そして、純粋な闘争への悦び。


「しかし、クロガネよ、貴様わざと投げられたな?」

「ああン? 何を言ってやがる。わざと投げられるレスラーがいるかよ」


 酒呑童子の問いを、クロガネは笑い飛ばす。

 これは嘘だ。クロガネは、たしかにわざと投げられていた。

 酒呑童子が投げに入るのと同時に、合わせて自分も跳んだのだ。


 これにはふたつの理由がある。

 ひとつめは、素人の投げはかえって危険であること。

 角度もタイミングもめちゃくちゃな素人の投げは、受けが難しい。

 どうせ投げられるのならば、自分から投げられ、投げられ方・・・・・を自分でコントロールした方がよほどダメージを軽減できるのだ。


 そしてふたつめ。

 クロガネにとって重要なのは、むしろこちらの方だ。

 これがプロレスであることだ。プロレスである以上、美しい技で観客を魅せなければならない。


 たとえそれが対戦相手の技であってもだ。

 素人未満の不格好な技を、リングで観客ファンに見せるなど、絶対にあってはならない。


 事実、完璧なジャーマン・スープレックスからのフォールに脱出してみせたクロガネに、避難者観客たちは沸いている。

 ササカマの、そしてアカリのカメラを通じて、配信のコメントも沸き立っている。


 熱狂。

 熱狂。

 熱狂。


 太陽の中心のような熱が、灼熱の狂騒が、歓声と叫声と足踏みと惜しみない拍手が、その空間を満たしていた。


「フハッ! ぷろれす・・・・とはこういうものか! 儂にも少しわかった気がするぞ!」

「ハッ! そりゃ結構だが、わかったつもりになるのは早ええな。プロレスってのは、まだまだ先があるぜ!」


 今度はクロガネが仕掛ける。

 クロガネの巨体が酒吞童子の視界から魔法のように消える。

 腹に衝撃。

 クロガネが組み付いている。

 得意の低空タックル。

 真剣シュートでしか使わない、ブラジルで学んだバーリトゥード何でもありの技。


「プロレスってのは、打撃や投げだけじゃないんだぜ?」


 クロガネはそうつぶやくと、酒呑童子の足を刈ってテイクダウンする。

 酒呑童子は本能的に両足をクロガネの腰に絡める。


「筋は悪くねえな。これはガードポジションってんだ。ここから腕ひしぎやフットチョークにも移行できる――寝技の練習してりゃあな!!」


 クロガネは、両手を組んで酒呑童子の腹に向けて叩き落とす。

 拘束が緩んだ一瞬の隙に、片足を取る。

 そのまま己の片膝に載せ、酒呑童子の脹脛から先を両腕で絡める。

 さらにつま先を掴み、内側にひねる。


「うぐぁっ!?」


 足首から走る激痛に、酒呑童子はたまらず叫ぶ。

 抜け出ようと暴れるが、半端な距離にいるクロガネを自由な片足で蹴ったところで威力がない。

 腕で抵抗しようにも、背筋が反り、上半身を起こすことすらままならない。


 ――片膝立ちアンクルホールド


「おいおい、さっき教えたばっかだろ? 関節から逃げるときはどうする?」

「ぐおおおおおッッ!!」


 酒呑童子が身にまとう蒼炎が激しく燃え上がる。

 歯を食いしばりながら、クロガネを引きずりマットを這う。


 背泳ぎのようにみっともなく。

 汗と涎と涙とを撒き散らかしながら。

 しかし、それを笑う者はひとりとしていない。

 はたしてロープに届くのか、それを固唾を飲んで見守る者しかいない。


「ブレイク! ロープブレイク!」

「ハッ! よく頑張るじゃねえか!」

「こんな愉快はまだまだやめられぬのでなッッ!!」


 ソラによるブレイク宣言。

 技を解くクロガネ。

 そして、ロープを掴んだ酒呑童子の両足が、逆立ちのままクロガネの顔面をロックする。


「ぬおっ!?」

「貴様の娘が、こんな技を使っておったな!!」


 ロープの反動を利用し、酒呑童子の身体が跳ねる。

 クロガネの首を支点に回転。

 二回、三回と回り、両足を引いてぶん投げる。


 ――ヘッドシザーズホイップ


 クロガネの背がマットを叩く。

 避難民観客たちが、悲鳴と歓声でどよめく。


「斯様な技もあったな!」


 上空に舞った酒呑童子が、錐揉みしながら肘を立てる。

 それはまるで、クロガネの首を切り落とさんとする丸鋸。

 それはまるで、クロガネが悪竜の首を撃ち落とした一撃と瓜二つ。


 ――真空フライング丸鋸落としサーキュラー・ソウ


 致命の丸鋸が降る。

 クロガネが身をひねる。

 首筋に赤い線が走る。

 鋭いがマットをえぐる。


 間一髪。

 まさしく紙一重。

 すんでのところで回避していた。


「やってくれんじゃねえかッッ!!」


 己の技までも模倣されたクロガネが吠える。

 捨身技エルボードロップで倒れた酒吞童子に背中からのしかかり、両足を両足でロック。

 そしてさらに両手首を掴み、後ろ向きに一気に転がる。


 酒呑童子の身体がリングの宙空に固定される。

 支えるのは逆関節に決められた己の四肢のみ。


 ――ロメロ・スペシャル


 別名、吊り天井固めとも呼ばれる大技が炸裂。

 歓声が巻き起こり、会場が丸ごと揺れる。


「ぬがぁぁぁあああッッ!!」


 酒呑童子の絶叫。

 ごきり、ごきり。

 ごきり、ごきり。

 鈍い音が四つ。


 酒呑童子の両腕が蛸のようにうねり、吊られた天井が崩れる。

 後頭部でクロガネの顔面を叩きつけ、身体をひねって脱出。

 そのまま逆コーナーまで離れ、両腕を垂らしたまま荒く息をつく。


「ハッ! 肩だけじゃなく、肘の関節まで外すとはな。とんだびっくり人間だぜ!」

「人間ではない。儂は鬼神酒吞童子。夜を統べる鬼の王だッッ!!」


 酒呑童子は上半身を独楽こまのように回す。

 再びごきりと音が鳴り、垂れ下がっていた腕に力が戻る。

 遠心力で肩と肘の関節を入れ直したのだ。


「おいおい、まだまだ元気いっぱいってわけか?」

「言うたであろう。こんな愉快はやめられぬ!」


 ぶつかり合う闘志に歓声がさらに沸き立つ。

 気がつけば、狭い道場は数え切れぬ人々で超満員と化していた。

 酒吞童子に一掃されたおさかなプロレスの選手たちをはじめ、配信を見た近隣の避難民までも押し寄せ、文字通りのすし詰めとなっていたのだ。


「ククク……ぷろれす・・・・とは、これほどの歓声の中で戦うものなのか」

「そうだ! だからよォ、プロレスラーはみっともねえ戦いはできねえんだよッッ!!」


 両者が同時に駆け出し、リング中央で激突した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る