第73話 臥藤蛮という獣
臥藤
最初の記憶はゴミで埋め尽くされた光景。
猛烈な渇き。
骨も凍る寒さ。
血を吐くほどの飢え。
眼の前で何かが動いた。
それを捕まえ、喰らった。
日付の、時間の概念すら知らなかった。
這い回って動くものを喰らう暮らしがずっと続いた。
暑くなり、寒くなり、また暑くなり、寒くなる。
それが幾度も繰り返されたが、蛮には数の概念もなかった。
最初に世界が広がったのは、二本の脚で立ったとき。
いままで見上げていたものが見下ろせるのは気分がよかった。
狩りも捗るようになった。
辺りを調べ、そこが崖に囲まれていることがわかった。
何度か登ろうとしてみたが、すぐに崩れて上手くいかない。
上からは、時折ゴミが降ってくる。
大半は何の使い途もなかったが、稀に食えるものや、身体に巻きつけると暖かい、ひらひらしたものが混じっていた。
不法投棄された産業廃棄物なのだが、当時の蛮にそんな概念はない。
次に世界が広がったのは、大雨がきっかけだ。
崖の一部が崩れ、なだらかになった。
蛮は好奇心のままに上の世界に上がった。
そこには木があった。
猪や兎といった生き物がいた。
どちらも、極めて稀に崖の上から落ちてくるものだった。
それらが生きて大地を駆け回るものだったとは想像もしたことがなかった。
上の世界は、下の世界よりもずっと暮らしやすかった。
不快な臭いもないし、狩りの獲物も多かった。
蛮はその世界で昆虫や生肉を喰らい、草や木の実を喰らって生きた。
あるとき、大きな獲物――熊を見つけた。
見たこともない生き物を襲っているところだった。
二本足で歩き、つるつるした奇妙な毛皮をしている。
そちらは骨と皮ばかりであまり美味そうじゃない。
蛮は背後から熊に組み付くと、首をねじ切った。
そのまま熊に喰らいつこうとすると、見たこともない生き物が何やら騒いでいた。
無警戒にもこちらに近寄り、複雑な鳴き声で何かを差し出してくる。
食い物のようなのでそれを奪うと、甘く、口の中が涼しくなった。
後から知ったことだが、それはココアシガレットという駄菓子だった。
蛮は食い物につられて、その生き物について山を降りた。
ここで、蛮の世界は無限大に広がる。
火を知った。衣服を知った。料理を知った。菓子を知った。風呂を知った。言葉を知った。時間を知った。日付を知った。
自分が人間と呼ばれる生き物であり、人間には名前があると知った。
熊に襲われていた生き物は、臥藤
野蛮の蛮、蛮勇の蛮、そしてバンカラの蛮、なのだそうだ。
そして
そこから5年ほどして、
抗争で死んだ組員の娘を引き取ったそうだ。
妹は生まれたばかりだった。
こんな小さく弱々しい生き物がいてよいのか、と蛮はうろたえた。
下手に触れば握り潰してしまいそうで、自分からは近寄ろうとしなかった。
しかし、妹という生き物は自分から近づいてくる。
そのうちに諦めて、
妹はショコラという名前らしい。
さらに10年が経ち、
正式に盃を受け、臥藤組の跡目となった。
高齢の
商売の才覚はなかったが、
我藤組の取り仕切る
ただ、敵は増える。
裏稼業もの同士の賭博勝負の立ち会いをするからだ。
そんな勝負に公正などなく、普通は強い組織に肩入れするものなのだが、蛮はそういう真似を一切しなかった。暴力の代わりに知恵と天運で喧嘩をするのが博打だと思っていた。喧嘩でイカサマをすることは、蛮の性根が許さなかった。
逆恨みしたヤクザや外国人マフィア、裏社会の住人との抗争が続いた。
蛮はそれらすべてを腕力でねじ伏せた。
成長したショコラも、いつの間にか蛮を真似て暴を振るう人間に成長した。
気がつけば、片や<
殺しにまで至ることはそう多くないのだが、噂とは尾ひれのつくものだった。
末期癌だった。
ヤクザものを入院させてくれる病院などそうは見つからない。
伝手を頼って
臥藤組は
後にも先にも、蛮が他人に頭を下げたのはそのときだけだ。
以来、蛮とショコラは
蛮人としての自由も、侠客としての誇りも捨てた。
そんな蛮が唯一生き甲斐をおぼえるのは喧嘩のみ。
血と肉と骨でぶつかる闘争のみが、蛮を滾らせる。
心底熱くなれる闘争は滅多にない。
蛮が撫でれば、小枝のようにへし折れ、豆腐のように潰れてしまう者ばかり。
だから、全力をぶつけられるものに出会うと心が躍る。
蛮は、己の拳を受けてなお笑う男に満面の笑みを返した。
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