第七夜
私は、その日の朝、何やら鼻をくすぐる、旨そうな匂いで目が覚めた。
恐らく、ヨウが朝食でも作っているのだろう。
「何やってるんだよ」
ヨウは、私の質問には答えず「食べようよ」と言って、笑顔で振り向く。
しかし、私の顔が不機嫌に見えたのだろう。
ヨウは、私を見て悲しそうな顔になる。
「勝手にキッチン使って怒ってるの?」
「嫌、呆れてるだけだ」
焼き鮭、味噌汁、卵焼き、ポテトサラダ……。
机の上に、料理があふれんばかりに並べられていた。
手間もかかっているだろうし旨そうだとは思うが、熱のある体で作る必要はない。
私は怒ると言うよりも呆れてしまった。
「こんな事をしていたら、熱があっても追い出すからな」
私が敢えて強い調子で言うと、ヨウは謝りはせず、ただ困ったような顔で笑った。
「美味しく出来たと思うから」
言いたい事は山程あるが、せっかく料理を作ってくれた訳だし、温かいうちに食べた方がいいだろうと、私は
それを見て、ヨウは安心したようで、私に笑顔を向ける。
「じゃあ、いただくよ」
「どうぞ」
別に、驚くほど旨いと言う訳ではないが、箸の進む料理だった。
「どう?」
ヨウは、私が料理を口に運ぶのをじっと見守っている。
私は、料理を一通りつつくと、最後に味噌汁を一口飲んでから感想を述べた。
「美味しいよ」
「良かった」
「一緒に食べないのか?」
「食べる」
ヨウは、ひとくち飯を食べてから、何やら考えるように遠くを見つめる。
「どうした?」
「家族みたいだと思って」
その言葉に、私は顔をしかめる。
「そんなバカな事、言ってないで、早く連絡先を教えろよ」
「
私の言葉には答えず、ヨウははぐらかすように言った。
それに気付いたのか、ヨウは私の顔を見て苦笑した。
「大丈夫。もう襲わないよ」
「当たり前だ」
「体を使ってもダメ、料理でも駄ダメ。どうしたら、ここに居させて貰えるんだろう」
「何をやってもダメだ」
私が厳しい口調で告げると、ヨウは寂しそうに
「じゃあ、何で優しくするの?」
「それは……」
理由は、ヨウを自分と重ね合わせているからかも知れない。
しかし、それを言えば、自分の過去を話さなければいけなくなるだろう。
それに、もしもヨウが自分の過去を話すような流れにでもなれば、追い出せなくなるだろう事は分かりきっていた。
しばらく沈黙が流れた。
私がそれに耐えられなくて、何か適当に別の話題でも持ち出そうとした時、玄関のチャイムが鳴った。
「きっと、宅配便だ」
私は玄関に出て大きな荷物を受け取る。
「何?」
ヨウが私の手元を
「絵が返って来たんだ」
私は床にしゃがみ込むと、
その時、ヨウに絵を見せる約束をしていた事を思い出し、その中で一番気に入っている絵を差し出した。
「見るか?」
「うん」
ヨウは、絵を受け取ると、私の絵を食い入るように見つめる。
「どうだ?」
私の絵は、どちらかと言えば抽象的な作風なので、見る人によっては受け入れられない事もある。
だから、ヨウにはどう映るのか不安で、緊張しながら感想を待った。
ヨウは、長い沈黙の後、ぽつりと言った。
「笹川さんにそっくりだね。優しくて……、そして、残酷だ」
ヨウが私に対して抱いている感想そのままに、言ったのかも知れない。
この絵は、優しい絵だと評価されているが、私はこの絵を残酷な物を表現しようと思って描いたのだ。
私が絵に込めた思いをこんなに読み取ってくれた相手は、今まで一人もいなかった。
「嫌いじゃないよ。笹川さんの絵、好きだな」
お世辞なのかも知れない。
しかし、ヨウの言葉は私の心に沁みた。
「ありがとう」
私が礼を言うと、ヨウは寂しそうに笑った。
「笹川さんも寂しいの?」
「熱を測らないとな」
続けて言ったヨウの言葉にドキリとしたが、それを誤魔化すように、体温計を取りに寝室に向かう。
ヨウは「あっ」と小さく声を出し、私の背に何か言おうとしたようだったが、次の言葉はかけられなかった。
二人でベッドの端に腰掛けると、ヨウに体温計を渡す。
しばらくして「ピピッ」と言う電子音が鳴って体温計を取り出すと、ヨウはすっかり平熱に戻っていた。
ヨウは、体温計をじっと見つめて考え込んでいる。
熱が下がったから、ここから追い出されると思ったのだろう。
私だって、追い出すのは忍びないが、いつまでもここに置いておく訳にはいかない。
何か事情があるにせよ、私が口を出す問題ではないのだ。
しかし、警察に連絡をすれば、ヨウは施設に行く事になるのだろう。
私は、しばらく施設にいたから、そこがどう言うところなのか知っている。
だから、きっと警察に連絡するのがためらわれるのだ。
私はふんぎりがつかなくて、あれやこれやと考える。
それから、ふと思いついて、ヨウに提案をしてみた。
「絵のモデルになってくれないか?」
「モデル?」
ヨウが驚いたように私を見る。
「なってくれるなら、絵を描き上げるまでは追い出したりしないよ」
もともと、私はヨウを追い出す事にためらいがあった。
だから、それを正当化する為の理由が欲しかったのだと思う。
私は、その理由に「絵画のモデル」を頼む事が最適のように思えた。
「いいの?」
ヨウは涙で潤んだ目で私を見た。
「モデル。なって貰えるかな?」
「断る訳ないじゃない」
ヨウは、そのまま私にすがりついて「ありがとう」と何度も言った。
私は、ヨウが落ち着くのを待って立ち上がった。
「まだ早いけど、昼飯、食べようか」
絵を描き始めたら、食事どころではなくなるだろうから、先に腹ごしらえをしようと思ったのだ。
ヨウは、私を見上げて、泣き顔のまま笑った。
シャワーも何もかもすませると、私はヨウをベッドに座らせ、窓にもたれかからせる。
服は私のYシャツを着させて、上のボタンをいくつか外したら、何処か気だるげな色気が漂う。
私は、気持ちのままにキャンバスに鉛筆を走らせた。
「ねえ。どんな絵か見せてよ」
「出来上がったらな」
そう答えたが、私はこのまま一生、絵が完成しなければいいと思った。
絵は描き始めたばかりだが、タイトルはもう決まっている。
「明けない夜を願う窓辺」だ。
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