サンプル配布

 ピンポーン。

 マンションの三階。私が玄関の呼び鈴を押すと、すぐに男性が姿を現した。

 がっしりとした筋肉質のおそらく30代。雰囲気は朴訥ぼくとつとしていて、目元に優しさをたたえている。

 ミリ秒で以上のことを読み取った私は、話くらいは聞いてくれそうだとしゃべり出す。

「すいません。私、近くにオープンした健康食品のお店の者ですけど、オーガニック食品には興味ありますか?」

「食べ物に関してはあまりこだわりはないな。他をあたって」

 私は何とか食い下がろうとする。

「あの! サンプルをお配りしてます。無料ですからぜひお召し上がりになってください。それで──」

「えーと。うちのカミさん、すごいヤキモチ焼きなの。今こうして初対面のあなたと話してるだけで視線が痛い。ごめんなさいね」

 少なくともこの男性に嫌われている訳ではないらしい。でもこんな体格のいい人が恐れるなんて、どんな奥さんなんだろう。

 男性の背中越しにちらりと室内をのぞく。

 見えたのは意外にも小柄な、すらりとした和風美人だった。男をしばくとは到底思えない。

 ただその眼が一瞬光った──と私には映った。次の瞬間、ものすごい突風が私の身体を通路に押しやった。超大型の台風のような、風圧。

 男性が一緒に外に出てすぐにドアを閉めてくれたから、通路の柵を越えて落ちなかったのだろう。助かった。

 通路にへたり込んだ私に、「大丈夫?」と男性は手を貸してくれた。

「カミさん、山からついてきちゃったんだよな。今あの山カミさんがいないから地滑りとかちょっと気にした方が──いや、山には登らないよね、あなた」

 ちょっと待って。カミさんって、

「そんなこと──」

「ないと思うのはあなたの自由。俺がいないときに来てみればいい。ただ、ないがしろにすると。特にうちのカミさんは」

 そう言い残して彼は部屋に戻った。

 私は早々に店に逃げ帰った。

 あの男性の言葉が本当か嘘かは判らない。しかしあの部屋に私は二度と行かない。

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