山くじら

 僕はビールのつまみに、くじらの大和煮の缶詰を開けた。

「あんまり味の濃いおつまみは体に良くないわよ。私にもビール」

 洗い物の終わった妻が椅子に座って肘をついた。僕は冷蔵庫の前に行き、妻の分のビール缶と箸を取る。

「はい、お疲れさま」

「はー、おいしい」

 上機嫌で飲む妻は缶詰を見てふと思い出したように、

「そういえば、<山くじら>って聞いたことある気がするけど、あれって何だっけ?」

いのししの肉だね。昔はを食べることはなんとなく忌避きひされていたんだ。仏教が殺生せっしょういましめるからかな。魚は大丈夫だから、山くじらと言い換えていた」

「くじらは魚じゃないでしょう」

「江戸時代の話だよ。漢字を見てごらん。へびはまぐりも虫──この場合、<小さいもの>という意味だけど──だし、くじらは魚だったのさ。そう分類されていたんだ」

「ふうん。他にもそういう言い換えってあるの?」

「猪の肉はまた、牡丹ぼたんと呼ばれたりする。鹿は紅葉もみじ、ウサギは月夜、馬は桜。実際に解体する作業と比べて実に詩的だと思わない? あえて美しい名前を付けているみたいだ」

「まあ、そういう意識があったのかもしれないわね」

「それらに比較すると山くじらという名前は異質に思えるなあ。海のくじらを知っている者なら、山にくじらがいるはずはないことはすぐにわかる」

「そうかな? 江戸時代でしょ。龍や大蛇やダイダラボッチがいたのなら、くじらだっていたかも」

「たしか九州にそんな民話があったかな。ただ、僕はのことを指していたんじゃないかと思ってる。後にそれが猪肉を指すようになったと」

「ふうん。何を指していたっていうの?」

「稲はもともと寒さに弱い作物だ。昔は品種改良もされてないし、便利な農薬もない。特に東北地方なんかでは度々飢饉ききんが起こってる」

「また話が飛ぶわね」

「食べるものがなくなれば、最後に残るのはだ。己が餓死寸前という状況であってもその肉を食べるのは辛かったろう、まして死んだのが子供だったなら……。なるべく思い出さないために小さいものの逆、できるだけ大きなもので例えたんじゃないかな」

 妻は一瞬言葉を詰まらせたが、ゆっくりと首を振った。

「私はくじらと猪の肉の味が似ていただけ、という平凡な考え方に一票。あなたの話は面白いけど、食欲をなくすのが欠点だわ。もう寝る」

「おやすみ。いい夢を」

 妻は苦笑いしつつ寝室に行った。僕は最後のくじらを口に放り込む。

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