幽霊なんて怖くない

「私、幽霊なんて怖くありません」

 と目の前に座っている私に向かって、彼女は言った。

「母が二回、比較的重い脳梗塞になったんです。脳が萎縮いしゅくして認知症も発症していました。もうそこに優しかった母はいませんでした。怒りっぽくて衝動的な、ひらがなさえろくに書くことのできない、母の顔をした何かでした。介護していた私が誰かも判っていなかったでしょう。だから知ってるんです、って。幽霊はほら、もう脳が灰になってるか、腐っているでしょ? 複雑な行動、例えば人を恨んだりなんて高度なことはできるはずがないんです。自分が誰かも判らず、目的もなく、ただそこに徘徊はいかいするだけ──そんな存在が、人に害を及ぼせる訳がないじゃあないですか。ですから、私、幽霊は怖くないんです」

 どこかうつろな目をした彼女は、早口でまくし立てた。薬の影響か、指先が少し震えている。

「だから幽霊なんてみんな痴呆なんです。もし幽霊がいるとしたなら、人間側がありえない場所にいるそれに出くわして驚くだけです。霊障? そんなの全部気のせいです。呪いだって、呪った相手が『呪われた』と認識しなければただの不幸です。そう思いませんか?」

「興味深い見解だと思うけど、幽霊についてあんまり深く考えたことはなくてねえ。私はほら、生きている患者さんが相手だから。気分はどうです、〇〇さん?」

 私は言った。彼女は急に私の存在に気付いたみたいに、まっすぐに私の目を見た。

「ええ、大丈夫です先生。大丈夫ですよ」


 しばらくして看護師が私のところに来た。

「〇〇さんて確かあの事件の──」

「うん、介護うつを発症して無理心中しようとした人だね。幸か不幸か生き残ってしまった。今の投薬を続けて、もうしばらく様子見だなあ」

 精神科医の私はそう判断して、電子カルテに打ち込んだ。



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