第7話 生殺与奪の権利

「生殺与奪の権利」

 というものは、そもそも、宗教的な発想というよりも、人類の歴史の中で、昔からあったものではないだろうか。

 今の時代ではありえないことであるが、古代から続いてきたものとして、支配者に対して、支配されるものの中に、その道具として扱われることとして、

「奴隷」

 というものがある。

 彼らには、今の世の中でいう、

「人権」

 というものは存在しない。

 まるで虫けら同然に扱うので、同じ人間として見ていないということである。食事を与えたり、睡眠を与えるのは、

「死なれてしまうと、道具として使えない」

 つまりは、

「車だって、ガソリンがないと動かないので、ガソリンを自分のお金を使って買い与える」

 というのを同じことである。

 奴隷とものに対して、同情を感じることは、罪だと思われていたかも知れない。

 なぜなら、奴隷に対してかわいそうだなどと思って、その考えが他の人にも派生すると、せっかくうまく機能しているその時点の社会が根底から崩れてしまうことになる。

 だから、奴隷を使う人間は、

「血も涙もない人間」

 であることが必要だろう。

 下手をすれば、人を殺したとしても、何ら罪の意識も感じることのない人間。そんな人間が、実際にはたくさんいたに違いない。

 それが奴隷監督者であり、その時代の兵隊には、戦争に駆り出されて、相手を殺すことしか頭にない人間、そんな人間を支配者階級の連中が作ってきたのだとすれば、古代の帝国というのは、百年くらい前まで存在していた帝国に比べると、かなりシビアで、論理的な国家だったのかも知れない。

 何といっても、古代から脈々と受け継がれてきたのが、奴隷制度であり、アメリカの南北戦争において、奴隷制度が崩壊するまで、存在していたのだ、

 いや、もっというと、未開の国や地域では、今も奴隷制度が存在するのかも知れない。

 文明国とはまったく違った地域に住んでいる人間、それは、自分たちを人間だとして意識しているのだろうか?

 奴隷が存在していて、彼らはその本能から、奴隷であることを自ら受け入れ、自分を納得させることができるという、精神的に今の人間よりも、ある意味進んだ精神力を持っているのかも知れない。

「時代は繰り返させる」

 というが、ひょっとすると世界最終戦争が起こり、一度人類が死滅してしまって、また新しい文明ができるとすれば、それは、人類が生まれた時と同じではないかと思うのだ。

 その時の文明は今よりも実は発達していて、

「世界の七不思議」

と言われryような、ピラミッドやナスカの地上絵のようなものが、形を変えて生まれるのではないかと思える。

「いや、形を変えることはなく、本当に時代は繰り返されるのではないか?」

 と考えるのだ。

 聖書の中に出てきた。

「ノアの箱舟」

 は、優秀だと神が認めた人たちを始め、一つがいの動物を箱舟に載せて、

「種の保存」

 を図ったことになっているが、もし、世界最終戦争が起こるであれば、神がまた箱舟を作るかということになると、

「もうありえないだろう」

 と考えられる。

 それほど人間というものは、偉大な神の存在をそこまで信じているかどうか、疑問だからである。

 世の中では、誰もが神を信仰しているといわれているとしても、結局は自分中心なのである。

 神の力を信じているというよりも、恐ろしいということを感じていることで、それが、宗教に走るということなのであろう。

 宗教団体の中には、

「いかにも理不尽だ」

 と思えるものもある。

 そんな理不尽な宗教であっても信じるというのは、

「本当の地獄というのは、あの世にあるわけではなく、この世にあるのだ」

 と考えているからだろう。

 だからこそ、この世に未練も持たず、、死ぬことを恐れないという。自分たちを守るという意味で、

「自爆テロ」

 などというものが存在するのだ。

 かつての大日本帝国でも、同じような発想があり、

「自分たちの命は、天子様である天皇陛下のものだ」

 ということで、徹底的に教育を受けたのだ。

 国家が、一つの宗教のようになってしまって、教育がすべて一つの神話に結び付けられるのだ。

 今でも似たような国家があるのだが、そんな国家は本当に閉鎖的で、何が人権なのか分からない。プロパガンダが、すべてだといえるだろう。

 そういう国の特徴として、

「万世一系」

 というのがある。

 特に日本における、大日本帝国の考え方は、すべてが、

「万世一系の高祖をふめる。大日本帝国天皇は……」

 ということになるのだ。

 教育として、日本国民はすべて、天皇に命を捧げるというのが教育であり、ただ、これは奴隷思想とは少し違うものだった。

 奴隷はあくまでも、違う民族であり、人権すら存在しないものだ。

 しかし、大日本帝国の国民は、臣民であり、天皇の国家である日本における、天皇の、

「臣民」

 ということになるのだ。

 そういう意味で、一種の独裁国家だったともいえるのだが、あくまでも、大日本帝国は、

「立憲君主国」

 だったのである。

 大日本帝国憲法というものが制定され、その中に、

「主権者は天皇である」

 ということが明記され、今の日本国憲法では、象徴としての天皇であったが、かなりの権限を持っていた。

 だが、実際には神というわけではなかった。明治政府が、中央集権国家を作るために、天皇というものを、

「担いだ」

 と言ってもいいだろう。

 実際には、御前会議と言いながらも、天皇は発言権がないに等しかった。しかも、天皇は政府の方針に対して、あまり口を出すこともできなかったが、逆に軍に対しては、大きな発言権を持っていた。

 それというのも、天皇には、

「統帥権」

 というのがあったのだ。

「天皇は陸海軍を統帥する」

 という条文が憲法にはあり、これは、政府を通さず、軍は、天皇直轄であるということである。

 このことが、大日本帝国における、

「陸軍の暴走」

 と言われることを引き起こしたのだが、あくまでも戦争に突っ走る時期において、軍がこの統帥権を逆手にとって、政府に事後承諾させ、外交がめちゃくちゃになるという問題が起こった。さらに、

「陸軍大臣と、参謀本部長を同時に兼任する」

 という禁じ手すら使うことになってしまうのだった。

 そもそも、陸軍(海軍も名称こそ違え同じこと)というのは、三長官と呼ばれるものがあった。

 陸軍大臣、参謀総長、そして、教育総監である。

 このうちに陸軍大臣は、大臣というだけに、政府の人間であり、実際に軍を取り仕切っているのは、参謀総長である。

 前述のように、参謀総長が長をしている参謀本部は、天皇に統帥権があり、政府といえど、口出しができない仕掛けになっている。だから、満州事変以降、軍が独断専行できるのは、政府が軍のやり方に口が出せないからだ。

 しかも、軍は機密重視なので、当然、政府にも内緒にしていることもたくさんある。そのため、軍が作った実績を政府が、追認するという形が多く取られた。

 しかも、軍には、

「陸軍大臣を出さない」

 ということを盾に、内閣の組閣を妨害することもできる。そうなると、政府も軍に逆らえないということになるのだ。

 そんな中、泥沼に嵌ってしまったシナ事変であったが、それを打開するために、英米蘭への戦争に踏み切ったのが、時の内閣総理大臣であり、陸軍大臣も兼任していた東条英機だったが、東条英機には大きなジレンマが存在した。

 同じ枢軸国であるドイツやイタリア、連合国のイギリス、アメリカ、ソ連など、戦争指導者がハッキリしていた。

 ヒトラー、ムッソリーニ、チャーチル、ルーズベルト、スターリンと、彼らが戦争指導者であることはハッキリとしていた。

 しかし、日本はどうであろうか?

 首相であり、陸軍大臣である東条英機が、戦争指導者と言えるだろうか?

 日本の軍を動かせるのは、大元帥である天皇でしかないのだから、戦争指導者は天皇ということになるのだろうが、そこで問題が起こる。

 軍の作戦を考えたり、作戦を指導する立場は、参謀総長なのである。

 したがって、戦争指導者というと、参謀総長が現場責任ということになるのだが、東条英機には、戦争責任者として君臨することはできないのだ。

 これは、憲法で定められていることではないのだが、それまでの慣習として、

「参謀総長と、陸軍大臣を兼任してはいけない」

 というものだ。

 これは、一人の人間に権力が集中するのを抑えるためであるし、もう一つは、

「参謀本部に対しては天皇が直轄だが、天皇は政治に口を出せない」

 というのがあるため、陸軍大臣は、戦争指導ができない立場にあるのだ。

 だから、よく。

「政府が、情報統制をした」

 などと言われ、

「大本営発表」

 が捻じ曲げられたと戦後分かったのだ。

 しかし、大本営というのは、陸軍と海軍の戦争指導として、参謀本部と軍令部が一緒になったもので、政府とは関係のないものだ。

 逆にいえば、大本営が、戦果を捻じ曲げて報道するようになったことを、政府自体も知らなかったのだ。

 戦争がどのようになっているかという正確な情報を掴めていないのに、外交などありえるはずもない。

 日本としては、勝ち進んでいるつもりで話をしても、相手国からは完全に舐められてしまい、日本という国がいかに歪な体制なのかということを、他国も思い知ったことだろう。

 そんな時代に、東条英機は、かなりのストレスを感じていたことだろう。

 日清日露戦争においては、明治の元勲が軍や政府を握っていたのでうまくいっていたが、大正、昭和と時代が進むうちに、軍が独断専行するようになり、もはや、日本という国は、政府と軍が、一緒になっての戦争を遂行などできない体制になっていたのだろう。

 そのため、東条英機は天皇に上奏し、

「憲法違反ではない」

 として天皇を説得し、陸軍大臣と参謀総長の兼任、さらに海軍大臣と軍令部部長との兼任を認めさせた。

 そのため、まわりから、

「独裁化」

 を恐れられ、暗殺計画がいくつも練られたという話もあるくらいだ。

 これが、東条内閣を崩壊させた原因であり、すでにその時には、日本は組織的な戦争が継続不可になってしまっていたのだ。

 日本におそんな時代が、つい最近まではあった。しかし、軍というものを、今の日本ではあまりいいイメージで残ってはいない。

「国民を見殺しにする」

 と言われていることもあるが、実際のかつての日本軍は、そんなことはなく、本当に、

「国民のための軍隊だっと」

 と言えるだろう。

 日本がかつて戦争をした国や、戦後、冷戦時代において、戦争を引き起こし、代理戦争と言われた時代の軍隊などは、

「国民のための軍隊:

 などでは決してなかった。

 何といっても、軍が押されて敗走していく時、軍は、自分の国でありながら、滞在していた村を焼き払っていくというような話を聞いたことがあった。

「放置したまま逃げれば、やがてやってくる日本軍が、略奪、強盗、暴行を繰り返すので、みすみす相手に食料や弾薬を取られるくらいなら、最初に焼き払っておく」

 というのが理由だというが、確かに、せめてきた国に食料や弾薬を奪われることを思えばと思うのも無理がないかも知れないが、日本軍であれば、国内でそんな状態になったとすれば、そんなことはしないだろう。

 細かいところでの部隊によっては、そういうこともあったかも知れないが、軍規にはそんなことは禁止していたはずだからである。

 日本軍は、そんなひどいことをせず、逃げる人も一緒に敗走していたはずだからである。

 きっと日本軍が、

「血も涙もない」

 という印象を持たれたのは、大東亜戦争における、

「玉砕」

 であったり、

「神風特攻隊」

 のような、死を恐れないという精神が、歪んだ発想を持たせてしまったのだろうが、基本的には、日本の軍隊は、

「国民を守る軍」

 だったはずだ。

 さらに、日本の軍国主義を象徴するものとして、

「生きて両州の辱めを受けず」

 という。言葉があるからであろう。

 これらは、

「相手の捕虜になってしまうと、辱めを受けらせれた上で、最終的には殺される」

 ということを言っているのであり、そんな状態になることを思えば、潔く死を選ぶのがいいという精神論であった。

 確かに、捕虜に対しては、

「ハーグ陸戦協定」

 で、国際法としての捕虜の扱い方が決まっていて、凌辱をしてはいけないことになっている。

 しかし、何と言っても戦争である。殺し合いの中に、家族や身近な人が虐殺されたりしたという経験をした人も多いだろう。そして、戦場では、まるで人が虫けらのようにどんどん死んでいく。そんな光景を見せられれば、まともな神経などマヒしてしまっているに違いない。

 そんな戦争というものを経験していると、軍に対しても、極悪非道というイメージがついてしまうのではないだろうか。しかも、戦争が終わって、占領軍から、

「軍国主義は悪いことであり、大日本帝国をまるで犯罪集団のような教育を施されていれば、当然、そんな感覚になってしまう」

 というものである。

 戦争ともなると、日本に限らず、軍の将は、基本的に責任を取らないといけなかったりする。

 サイパン陥落の際の、玉砕が決定した際の、軍司令官たちは、三名ほどが、責任を取っての切腹を命じられた。

 これは、玉砕で死ぬことを思えば、楽な死に方だったのかも知れない。

 自分のタイミングで死ぬことができるのだ。玉砕ともなると、武器を持ってはいるが、ほぼ、抵抗しない。

 戦争映画などで見る玉砕シーンは、アメリカ軍に向かって、軍人、民間人が集まってきて、

「海ゆかな」

 を歌いながら、行進してくるのを、アメリカ軍が、圧倒的な火力で攻撃してくる。

 逃げることはできない。相手は誰を狙うわけではなく、集団に向かって弾丸を打ち込めば、一発で数人が倒れるという感じである。

 アメリカ兵もそんな玉砕などという光景を想像もしていなかっただろう。

 神風特攻隊の場合は、自分たちの空母に向かって、突っ込んでくるので、自分たちの命も危ないが、玉砕の場合は、日本人は集団自殺を試みているだけである。

 それこそ、

「生きて虜囚の辱めを受けず」

 という戦陣訓を守るためというだけのことであり。相手は打ってこないのだ。

 そんな状態で、迫ってくる日本人を、ただ撃ち殺していくだけという状況に、

「何が戦争だというのだ」

 と、さぞやビックリしたことだろう。

 それも、日本の教育における。

「立派に天皇陛下のために、生きて、そして天皇陛下のために死んでいく」

 という考えを実践しているだけのことである。

 玉砕などというと、これは、軍隊に脅迫されて行う行動ではない。あくまでも、民間人が自分たちの意思で行っていることであろう。

 ただ、死にたくないという人もいたのは事実で、そんな連中までもが一緒になって玉砕しなければいけないというのは、ある意味理不尽だ。

 しかし、玉砕しないといけない状況になれば、その時の精神状態で、

「俺だけでも助かりたい」

 と思う人が果たしているだろうか?

 もし、皆が玉砕する中で、その作戦に参加しなかったとして、当然アメリカ兵は、日本人を掃討することを考えるはずだ。

 生き残っていれば、捕虜にしようとするだろう。

「捕虜になれば、何をされるか分からない」

 という教育を受けているんのだ。

 普通の精神状態だったら、玉砕して果てるという方法を選ぶに違いない。

 だから、

「語句債が行われれば、大本営には、生存者ゼロと伝えられることに違いない」

 玉砕や神風特攻隊が、果たして間違っているのかどうか、今の自分たちにそれを言う権利はない。

 それは、まるで、

「生殺与奪の権利もないのに、自分で命を絶たなければいけなかった状況に陥った人たちを裁くようなことが、できるわけがない」

 と言えるのではないだろうか。

 大日本帝国における政府や軍部は、自分たちが民間人や自軍の兵に対しての、

「生殺与奪の権利」

 を持っているとでも思っていたのだろうか?

 ただ、戦争を始めた以上、それを遂行する義務は。政府や軍には存在する。

「相手に勝つにはどうすればいいか?」

 というのが一番ではあるが、

 まず勝つということがどういうことなのかをどこまで理解できているというのだろう?

 元々は、

「緒戦で相手の出鼻をくじき、ある程度までの戦果を挙げたところで、講和に持ち込んで、一番いい条件のもとに講和を行う」

 というのが、戦争突入の意義であり、日本が唯一生き残れる道だったはずだ。

 しかし、最初に、

「無敵の日本軍」

 という実績を作ってしまったために、今度はやめ時を見失ってしまったのだ。

 そのため、無謀な戦争を資源もないことを忘れ、さらに、戦線が拡大してしまったことで何が起こるのかということを忘れていたのだ。

 天皇陛下が、戦争継続の可能性を陸軍参謀に聞いた時、参謀は、

「三か月程度で太平洋はかたが付きます」

 と言った。

「根拠は? おまえは中国もそれくらいで相手が降伏してくるといっただろう?」

 と言われて、

「中国大陸は奥が深く、広いです」

 と答えると、

「太平洋は、もっと広いではないか」

 と諫められたという。

 それほどまでに、軍部は、戦争に前のめりになっていたということであろうか、あるいは、五分五分という発想だったということであろうか?

 生殺与奪の権利を人間が持つという考えは、ほとんどの宗教においては、戒律によって、禁止されている。いわゆる、

「モーゼの十戒」

 においてもm

「人を殺めてはならない」

 というではないか。

 これは他人だけではなく、自分も含めてのことである。ただ、その発想がその地域、その時代の風俗習慣、そして時代背景によって、さまざまな悲劇を生んできたのも事実だった。

 戦国時代の悲劇のヒロインの一人として有名な、細川たま(ガラシャ)は、元々は明智光秀の娘として、細川忠興に嫁いでいて、父親の謀反によって、隠匿生活をさせられたりと、不遇な人生を歩んでいたが、最後は、関ヶ原の合戦前夜に、上杉征伐に向かった夫の留守をついて、石田三成が味方を増やそうとして、京都に残っていた家族を人質にしようとたくらんだ時、彼女は、自ら人質になることを認めず、夫のために自害を考えたのだが、彼女はキリシタンとなっていて、

「自殺は許されない」

 ということになっている。

 そのためにどのようにしたかというと、配下の人間に自分を殺させるという方法をとったのだ。

 形式的には、殺されたことであるが、実際には、殺してくれるように頼んだということなので、果たして、戒律を破ったことにならないのか? という疑問は残るだろう。

 しかし、現在まで、このお話は、

「夫を支える忠実な妻の悲劇」

 として語り継がれている。

 江戸時代に入って、キリスト教弾圧の手前、そういう発想になったのだろうか?

 何と言っても、戦国時代の戦国大名の中には、

「キリシタン大名」

 と呼ばれる人はたくさんいた。

 大友宗麟などの大名や、大名ではないが、有名武将として、明石全登などの有名武将もキリシタンだったりする。

 そもそも、キリシタンというのは、

「人を殺めてはならない」

 と言われているはずなのに、他の大名や武将のように、戦国時代を戦に明け暮れているではないか。

 そんな人たちだって洗礼を受けて、晴れてキリシタンになれるというのは、果たしてどいうことなのだろうか?

 そんなことを考えると、

「神も仏もあるものか」

 という考えだって普通にありうることなのではないだろうか?

 そもそも、宗教の戒律をすべての人間が守っているというのもありえない話で、よくよく考えると、今まで起こってきた戦争や紛争の原因で一番多いものとしては、

「宗教がらみ」

 ではないだろうか。

 特に、ヨーロッパで起こった十字軍などというのは、聖地エルサレムをめぐってお遠征であり、これこそ宗教戦争の代表ではないだろうか。

 表に出てきていない戦争の理由だって、実際にはその裏に宗教が絡んでいることだってあるだろう。それを思うと、戒律をどこまでどう考えているかなど、所詮は人それぞれだといえるのではないだろうか。

 今の世の中で、新興宗教が嫌われたり、宗教自体を毛嫌いしている人が非常に多いというのは、そのあたりに原因があるに違いない。

「生殺与奪の権利」

 それは、人間が持つべきものではないといわれるのは、分からなくもない。

「では一体誰にその権利があるというのか?」

 それを神だというのは、これほど怪しい発想はないのではないだろうか。

 そもそも、宗教というのは、この世で救ってくれるという発想ではなく、

「死んでから、極楽に行ける」

 というものだ、

 この世でみんなが救われるのであれば、皆、それぞれ宗教に入っているはず、宗教も国家もそれぞれに人心を掌握し、世の中をいかに動かすかということでは代わりのないものだ。

 そんな宗教に、本当に、

「生殺与奪の権利」

 など、あるというのだろうか?

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