第6話 相対的

 そんな自粛警察というものを、どう考えるかであるが、世の中には、

「必要悪」

 と呼ばれるものがある。

 この自粛警察が悪だとするならば、それは、

「必要悪ではないか?」

 という考えも浮かんでくる。

 これは人によって意見が分かれるところで、自粛警察というのを、表面上見てみると、

「あれは必要悪などではなく、ストレス発散と自己満足のために、行動Sしているだけの、偽善のようなものだ」

 と考える人もいるだろう。

 しかし、考え方を変えると、

「自粛警察がいるから、曖昧な態度をとっている営業者も、緊張感をもって営業するようになり、そういう意味では、社会貢献しているといえる」

 という人もいるだろう。

 もちろん、これも紙一重のところで、長所と短所としてくっついているものではないかと思えるのだが、自粛警察を、悪だとして見るのであれば、均衡を保つために、

「必要悪ではないか?」

 という発想が生まれたとしても、それは無理もないことであろう。

 たとえば、今の時代、学校などで苛め問題が存在するが、これは、苛めをしている人間、苛めを受けている人間だけが当事者のように見られるが、実はそうではない。苛めが行われているのを知っていて、見て見ぬふりをするというのも、ある意味。いじめをしている連中と同類だといわれる。

「いや、自ら行動しない分、たちが悪い」

 という人もいるだろう。

 いじめの問題のように、

「苛めを受けている人、それにいじめられている人間を助けようとしている以外の人間は、いじめているのと同じことではないか?」

 という発想である。

 こちらの、見て見ぬふりをしている連中は明らかに悪であり、これを必要悪だなどと誰も言わないだろう。

 逆に自粛警察は、いじめられている人を助けようとしている人に近いのではないかと思うのだ。

 だから、必要悪ではないかと感じるのだが、その問題は、一種の、

「スパイラル」

 を生むのではないかと思うのだ。

 つまりは、皆が一つのことに対して、我慢をしている状態で、それを破っている一部の人間を、政府や行政が表立って取り締まることができないことで、出てきたのが自粛警察だ。

 彼らがもしいなければ、下手をすれば、無政府状態になるかも知れない。特に日本では戒厳令やロックダウンは認められていない。それを思うと、民間で自粛警察のようなものがなければ、そもそも、緊急事態宣言などというものを出しても意味がないだろう。

 日本でも、最初は政府の指示通りに、ほとんどの店が閉まっていて、営業しているところは少なかった。どうしても営業しないと世間が回らないという、例えば交通機関などのインフラであったり、スーパーやコンビニ、薬局などの市民生活でなくてはならないものは開店していた。

 しかし、やむおえないということで、感染対策をきっちりとして営業しているパチンコ手などが、集中的に叩かれた。それが自粛警察によるもので、事情も汲まずに、正義をひけらかすから、自粛警察が悪いかのように言われた。

「自粛警察イコール、パチンコ屋を攻撃していた連中」

 という構図自体が間違っているのではないだろうか。

 ただ、そんな自粛警察を叩く、自粛警察警察のようなものが生まれてきたのも事実で、こうなってしまうと、何が正しいのかということが分からずに、曖昧になってしまうだろう。

 自粛警察を必要悪だとするならば、それをさらに取り締まる自粛警察警察はどうなるというのか? 訳が分からなくなってくるのだった。

 弘前は、自分が小学生の頃、友達から苛めを受けていたのを思い出した。

 苛めと言っても、それほど陰湿なものではなく、どちらかというと露骨あものだった。

 しかし、自分を苛める人に対して、

「何で、俺を苛めるんだよ?」

 と聞くと、

「何でだか分からないけど、苛めたくなるんだ」

 としか言わなかった。

「そんな、酷いじゃないか」

 と言っても、

「うるさい、しょうがないじゃないか」

 としか、苛める連中はそうとしか言わないのだ。

 しかし、苛められる方としては、

「理由もなく、何で苛められなければならないんだ」

 と、いう理不尽さしか感じない。

 その時、ふと考えたことがあった。

「もし、俺が苛めっ子の立場だったらどうなんだろう?」

 と考えたのだ、

 きっと、自分には何かまわりの人が苛めたくなるようなそんな思いを抱かせる何かがるのだろう。その証拠に、自分を苛めている連中は集団で苛めてくることはない。すれ違いざまにいきなり、足を蹴っ飛ばしてきたり、殴りかかってくるような感じなのだ。

 だから、彼らの行動を予見することはできない。彼らも、いきなり攻撃する気になったようで、苛めた後、表情が変わることはない。

「いや、苛めている最中でも、表情が変わることはないんだ」

 とも感じていた。

 だから、時々、自分を攻撃した後、反射的に謝ってくるやつもいた。

「ごめんなさい」

 というのだが、そこに、本当に謝罪の気持ちは含まれていないようだ。

 まるで苛めたという事実を忘れてしまったかのように、謝った本人は、キョトンとしている。謝った理由が何なのか分かっていないかのようだった。

 そんな状態なので、謝罪は本心からではない。

「本気でなければ、謝ってなんかほしくない」

 と、却って怒りがこみあげてきて、相手を睨み返すと、やっと相手が安心したかのように、上から目線を示す。

 それは、やつがなぜ謝るようなことをしてしまったのかということ、つまり自分が、

「苛めをしたんだ」

 という意識が芽生えたからに違いない。

 つまり、弘前の不満に満ちた顔が、相手に何かを気づかせ、納得させたのだろう。

 こんな苛めっておかしいのではないだろうか。相手が苛めたことを意識もせず、苛められた人間の態度によって、そのことを意識させられ、苛めたということで安堵する状態に陥るというのは、まるでその瞬間だけ、自分たち二人だけが、別世界にいたかのような錯覚を覚えるのだった。

 それが、小学校三年生くらいのことだろうか。それを苛めというには、あまりにも幼すぎるのかも知れないが、理不尽に苛められるという方は、本当にたまったものではない。

 弘前も、中学生くらいになると、学校で、

「苛め」

 という問題があるということは、話には聞いていた。

 しかし、中学生などというのは、まだまだ遠い未来のお話だと思っていたので、自分に苛めは関係ないと思っていた。

 これは、弘前に限ったことではないだろう。誰もがそう思っていることであり、自分を苛めている連中も、同じように思っているかも知れない。

 だから、学校で苛めという意識を誰も持っていない。先生も、

「まさか、小学三年生で苛めなんかあるはずない」

 と思っていることだろう。

 何しろ、いきなり苛めとして一瞬攻撃してくるだけであり。しかも、それについて、苛めた方は一切、悪いと思っていない。なぜなら、意識がないからだった。

 それ以外の時は、自分を苛める連中は、結構優しかったりする。面倒をよくみてくれる連中もいた。

「俺たち、友達だからな」

 と言っているが、

「影で苛めているくせに何言ってるんだ」

 とは思ったが、それを口にするようなことはしなかった。

 そんな友達の家によく遊びに行っていた。最初は、

「二人きりになるから、苛めたくなるんだろうか?」

 と思い。

「遊びに来ないか?」

 と言われた時、二人きりになるのが怖くて、よく断っていた。

 しかし、断り切れなくなり遊びに行ってみると、別に苛められるようなことはなかった。それだけに、なぜ自分を苛めたくなるのかというその共通点が分からないため、どうしていいのか分からなかったのだ。

 確かに、弘前を苛める連中というのは、数人という限られた連中ばかりで、しかも普段は苛めなどするとは思えない連中ばかりだったのだ。

 それなのに、何が楽しくて苛めてくるのか訳も分からず、とにかくどうしていいのか分からないという状態だったのだ。

 そんな時、一人の友達が変なことを言い出した。

 やつは元々ませたところがあり、えっちな話も平気でするようなやつだった。えっちな話といっても、小学生がする話であり、まだ思春期にもなっていないので、聞いたとしても、それがどういうことなのかよく分からないので、聞き流すというのが、いつものことだった。

 そして、いまではそれが誰だったのかということを覚えていないのだが、それは小学三年生だったからだと勝手に思い込んでいたようだ。

 しかし、そいつがいうには、

「こんな話、お前にしかできないんだよ」

 というではないか。

 最初は、

「きっとそんなことはない。誰にでもしているんだろう?」

 と思っていたが、実際にその言葉にウソはないようだった。

 そんなやつが苛めに走るというのは、やはり弘前に対して特別な感情を抱いているからなのかも知れないが、その時はよく分からなかった。

 そんなえっちな話の中に。

「SMの関係」

 という話があったのだ。

 彼がいうには、

「世の中には、SMに関係というのがあるらしいんだ」

 という。

「それはどういうっことなんだい?」

 と弘前がいうと、

「男と女の人が一般的なんだけど、性別に関係なくあるらしいんだけど、ここでは、分かりやすく、男がSで、女がMだということで話を聞いてほしいと思うんだけど」

 と言って前置きをしたうえで、

「そのSMの種類としては、金爆と言って、相手の身体を縛ったり、ロウソクやムチのようなもので相手を責めたりするらしいんだ」

 というではないか。

「そんなの、一方的な苛めじゃないか。警察に言わないといけないんじゃないか?」

 というと、

「それがそうじゃないんだ」

 と言われて、サッパリ何を言っているのか分からなかった。

「苛められる側も、苛める方も、合意の上でのことなんだって、いわゆるプレイと言われるもので、営みのようなものなんだって。だから、苛められている人も、逆らうことはしない。最後の方では、気持ちいいって叫んだりするらしいんだ」

 と彼はさらに続けてそういった。

「何だよ、それ。苛められて悦ぶなんて、それじゃあ、まるで変態みたいじゃないか?」

 というと、

「そうなんだ、これは変態行為に当たるものなんだ。だけど、これはこれで立派な行為だというんだ。中世のヨーロッパでは、貴族と呼ばれる階級の人たちのたしなみとしての遊びだったというんだ」

 と彼がいうので、

「遊び? 苛めが遊びだというのかい? 狂ってる」

 と、遊びというところだけを切り取って聞いたので、そんな風に思ったのだが、それも無理もないことで、小学三年生の意識としては、それ以外の言葉の意味が分からなかったのだ。

「ああ、狂ってるんだよ。でも、もし、それが正常な感覚だったのだとすると、それ以外の、今の俺たちが正しいと思っていることは、すべて異常だということになるのかい? そう考えると、少しおかしなことになりはしないかって思うんだ」

 という。

「うん、確かに難しい考えに思えるけど、どうなんだろうな?」

 と言いながら、そのSMの情景を想像できるわけはないが、何とか想像してみようと思うのだった。

 するとどうだろう? 急にそれまで感じていた世界とは違う世界が開けた気がした。

「こんな感覚は初めてだな」

 と思った。

 そして、この感覚は一過性のものですぐに元に戻るだろうと感じていたが、どうもそんな感じではないような気がした。

 それからしばらくは、そのことが気になっていたのだが、そのうちにそれが普通のことであるかのように、日常生活に溶け込んでいくのを感じた時、弘前は急にまわりから苛められるようになったのだ。

 しかも、誰に聞いても、

「理由は分からないんだが、お前を見ていると、急に苛めたくなるんだ」

 というではないか。

 その時に感じたのは、

「こいつら、大人になったら、SMの関係のSになるんじゃないか? ということは、この俺は、Mだということか?」

 と感じた。

 友達から、最初に話だけを聞かされていて、自分の中のM性が、その本性を掻き立てて、Sを潜在させている連中の目を覚まさせたということではないだろうか。

 そのことは、まさか小学生で分かるはずもない。このことを思い出させたのが、大学に入った頃で、雄二が五月病に罹り、治ったかと思うと、妹の裕美が、

「中二病ではないかと思うんだ」

 と、雄二に言われた時に、雄二と話をしていて、よみがえってきた感覚だったのだ。

 それまで忘れていたのは、

「SMの関係」

 というキーワードだけではなかった。

 小学三年生の頃に、自分が苛めにあっていたということすら忘れてしまっていたのだった。

 なぜなら、中学時代にもっとひどい苛めを経験するだろうと思っていたにも関わらず、中学高校と誰からも苛められなかったのだから、小学生の頃のことは、

「苛めではなかったんだ」

 と思うようになっていた。

 何が苛めで、何が苛めではないというのかということを分かるはずもなく、ただ、

「自分には苛めなんてものは今までになかったことなんだ」

 と、無理に言い聞かせていたのではないかと思うのだった。

 中学生になって、苛めを受けている人がいた。勧善懲悪の考え方からいえば、

「苛めを黙って見ている方も、苛めっ子に変わりはないんだ」

 ということになるのだろうが、なぜか弘前には、

「俺は決して苛めをしているわけではない」

 という意識があった。

 それは、理由のある感覚だと思っていたが、その理由がどこからくるもので、どのようなものなのかは分からなかった。

「俺は分からなくてもいいんだ」

 という、それこそ理不尽な感覚だったが、それを思った時、

「理不尽?」

 と思った。

 それこそ、自分を苛めていた連中が、

「理由は分からないが」

 と言っていたのを思い出させる言葉だったのだ。

「これが、苛めというものなのか?」

 と思ったが、いかに、小学生の頃の苛めと違っているのかということだけは分かった気がしたが。その理由はやはり分からない。

 勧善懲悪について、自分がいつから気になるようになったのか分からないが、子供の頃の理不尽という理屈がその要因としての一つだったということを感じるのだった。

「勧善懲悪と理不尽」

 そこには何があるというのだろうか?

 勧善懲悪と理不尽というものが、相対するものだと考えると、勧善懲悪に限らず、世の中のものは、そのほとんどが、

「相対的なものではないか?」

 と思えるのだった。

 相対的なものというと、一つには、

「善と悪」

 もそうであるし、

「裏と表」、

「長所と短所」

 などもそうである。

「昼と夜」

 もある意味、相対的なものとして考えられるし、この場合の相対的なものということで何を考えるかということであれば、

「長所と短所」

 で説明することの方が、やりやすいのではないだろうか。

 長所と短所と呼ばれるものには、いくつか言われていることがある。

 例えば、

「長所は短所の裏返しである」

 ということや、あるいは、

「長所と短所は、裏表であり、見ることはできないが、隣にくっつくように存在しているものだ」

 と言えるのではないだろうか。

 このどちらも、同じことを言っているのだが、裏と表は、あくまでも、裏が表に出ている時は表は隠れていて、表が出ている時は裏が隠れている。この発想こそ、

「昼夜の関係」

 と言ってもいいだろう。

 昼の間には、夜に出てくるものは、ほとんど出てくることはなく、夜のあいだには、昼に出ているものは出てこない。これは、天体における話であるが、それも、実はすべてではない。

 月などは、昼間であっても、かすかに見えていることがあり、朝版など、

「明けの明星」

「宵の明星」

 と呼ばれるような金星が明るくなった空に見えていることもある。

 しかし、それ以外は、昼と夜で共通に見えているものはない。太陽が夜に見えるわけはないし、星が昼瞬くわけもない。

 そもそも、太陽は、自分が光を発し、そこから地球上の天体を照らしているものだ。しかし、星というのは、太陽のような恒星の恩恵を受けて、その存在を見せているといえるのだ。

 ただ、そんな夜であっても、昼であっても共通して、見ることのできない恐ろしい星が存在するということを提唱した学者がいたということを聞いたことがあった。

 その星というのは、太陽のように、自らが光を発することはなく、また、他の星のように、恒星の力を借りてその存在を反射という形で示しているわけではないという。

 その星は、

「光を吸収する星だ」

 というのだ。

 光を吸収するから、他の人にはまったく見えない。後ろが暗黒の宇宙空間なので、その星もまるで保護色のように、真っ黒い姿をしているのだ。

 しかも、生物ではないので、気配などもあるわけもない。近くに来ても、その存在を誰も分かるわけもなく、

「気が付けば、衝突して、衝突された星は、そのまま宇宙の藻屑となって消えてしまうのだ」

 という話を聞いたことがあった。

 これほど恐ろしい話はない。目の前にいるはずの星が見えないのだ。

「気が付けば、死んでいた」

 という、笑い話のようで、笑えない話になっているのではないだろうか。

 そういえば、修学旅行で行ったどこかのお寺に、小さな滝のような水飲み場が三つあり、それぞれの水を飲むという話の時に、バスガイドさんが面白い話をしていた。

「この水は一杯飲めば、一年長生きできます。二杯飲めば、十年長生きできます。そして三杯飲めば、死ぬまで生きられます」

 と言って、みんなを笑わせていたのを思い出した。

 これも考えてみれば、相対的な話であって、

「生きるということと死ぬということは相対的なことであるが、生きていないのであれば、死んでいるということであり、死んでいないのであれば、生きているといえるのではないか」

 ということである。

「生死というのは、表裏の関係にあるが、どちらでもあり、どちらでもないということはない。背中合わせのものであり、死ぬことも生きることも、そのどちらも、人間が選んではいけない」

 と言われている。

 これは宗教的な話からくるものであるが、キリスト教などのように、自殺を許さない宗教であったり、病気に罹ったり、事故に遭って、輸血を必要とする状況になった時、宗教によっては、

「輸血を受けることはできない」

 というものがあり、死ぬと分かっていても、輸血さえすれば生きられるということが分かっていても、見殺しにするしかないのだった。

 これは実に難しい問題で、当事者の患者が、輸血をできない宗教に入っていて、医者の方が、人を見殺しにしてはいけないという戒律のある宗教に入っていたとすれば、どちらが優先されるべきであろうか?

 少なくとも、医学界で諮問委員会にはかけられるだろう。

 医者の方も、患者の事情を鑑みれば、情状酌量は十分にあり、許されることになるだろうが、本人の戒律を守れなかったことでの解釈はまた別の問題である。

「医者と患者の間に優先順位などを設けてもいいのだろうか?」

 という問題が絡んでくる。

 患者の方とすれば、宗教的なことで、血をもらってまで生きることは許されないということであり、医者も見殺しにはできないという倫理的で宗教的な問題が絡んでくる。

 これを、人間が判断してもいいのだろうか?

 この問題は、そもそも、

「輸血が許されない」

 ということで、生きられるはずの人間でも、

「死になさい」

 と言われているのと同じことだ。

 つまりは、宗教における教祖、あるいは神が、定めているのは、本人の意思よりも、宗教の戒律ということになる。

 逆に医者が信じている宗教の方とすれば、

「人を助けられるのに、助けようとしなかったということは、殺人に値する」

 ということで、

「殺人は、人間の罪の中で一番罪深いものだ」

 ということであったのだとすれば、相手の意思をどこまで考えればいいのかということで、考え方が曖昧になるのではないか。

 いや、二人がそれぞれの宗教に陶酔してしまっていることで、それ以外の考えが思いつかない。要するに二人とも、

「何が優先と言って、絶対的な優先順位は、信仰している宗教である」

 ということになるのだ。

 そうなると、二人は平行線でしかない。少なくともどちらかに優先順位をつけなければ、どこまで行っても、この問題は解決しない。

 その優先順位を人間にはつけることができないのだとすると、誰につけられるというのか。

 そうなると、この問題は二人から離れてしまい、しかもそれが解決できないということであれば、二人とも、永久に罪深いまま、中途半端な状態になるのではないか。

 輸血せずに死んだ人間は、死んだあと、どこにいくのかということである。

 自分の信じている宗教でいうところの、

「あの世」

 に行けるのだとすれば、言いつけを守ったということで、許されるのだろうが、違う世界が存在するのであれば、

「助かる命を自らが殺した」

 ということで、自殺としてみなされたとすれば、行き先は地獄ということであろう。

 医者の方も同じ理由で地獄に落ちるのだとすれば、このことで幸せには誰一人としてなれない。当事者すべてが地獄いきという、悲惨な状態になるのであろう。

「生殺与奪の権利」

 と呼ばれるものは、人間には存在しないということが、悲劇の始まりだといえるのではないだろうか。

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