第4話 勧善懲悪
「ドン・キホーテの話を読んでいると、いろいろな発想が生まれてくるんだけど、これを中二病と組み合わせて考えると、俺は一つの仮説が生まれてきたんだ。というのも、俺にもこの感覚が強く自分の中に根付いていて、一番自分を納得させることができるものとして考えたのが、「勧善懲悪」という発想なんだ」
と弘前は言った。
「勧善懲悪って言葉、聞いたことはあるけど、どういう意味なんだい?」
と雄二が聞くので、
「ヒーローだったり、正義の味方という表現がぴったりではないかな? 勧善懲悪というのは、善を勧め、悪を懲らしめるという字を書くんだけど、つまりは。悪の組織であったり、悪者と言われている者たちを、力や権力を持った人間が懲らしめるというもので、日本人などのように、判官びいきの考え方の人が多いところでは、もてはやされるジャンルだといえるのではないかな? 小説であったり、特撮であったり、時代劇などは、いかにも勧善懲悪が基本だといってもいいだろうな」
と、弘前は言った。
「水戸黄門だったり、遠山の金さんのようにかい?」
と言われ、
「そうだよ。その通り、時代劇などでは、悪代官というのが、相手の敵として存在し、悪代官が、庄屋などと結託し、自分の暴利を貪るために、一般の市民の存在理由までも否定し、自分たちがよければそれでいいという悪を懲らしめるという考え方だよね。だけど、当時は封建制度の時代であるし、今と同じように、復讐は認められていないので、権力尾ある人が、お忍びで、解決するというものだよね。そして、その解決方法も、身分を隠して、相手に言いたい放題言わせておいて、最後にバッサリと叩ききるというところが、日本人の気持ちに響くというわけさ。時代劇などでは、水戸黄門などのように、徳川御三家だったり、遠山金四郎だったり、大岡忠助のような、町奉行が、町人に化けて、市中で暴れるなどという発想は、痛快と言われる娯楽小説としては、もってこいだったりするんだろうな」
ということであった。
しかも、徳川光圀にしても、遠山金四郎にしても、大岡忠助にしても、すべてが実在の人物。かなり誇張して描かれているとしてお、火のないところに煙が立つわけもなく、日本人が憧れるだけの長寿なテレビ番組になったというのも、納得のいくものだった。
今の時代は、さすがに時代劇を見るという人も少なくなって。視聴率の問題から、新たなものは出てこなくなったが、過去の作品は、有料放送で今でも見ることができる。それを思うと、
「見たくない人は見なくていいが、見たい人は、有料でいくらでも見ることができる」
という制度は、それこそ今の時代に合っているといえるだろう。
昔のように、一家に一台のテレビで、ビデオなどがまだ普及されていない時代であれば、ゴールデンタイムというと、皆それぞれのチャンネル争いが恒例となっていて、野球やドラマ、アニメやバラエティ、さらに時代劇といろいろあったが、今では何が面白いのか、芸人が出てくるバラエティ番組しかないではないか。
考えてみれば。
「低俗な番組で、子供には見せられない」
と言って。昔なら、放送局にクレームが来ていたような番組ばかりが、なぜか生き残ったのだ。
たぶん、有料放送で、チャンネルがそれらのジャンルを専門で放送することができる時代になったので、
「見たい人は、月額数千円で、見放題のチャンネルを契約し、好き放題に見ればいい」
ということで、アニメやドラマ、野球などは、そういう放送が可能だが、バラエティともなると、そうもいかないので、ゴールデンになったのだろうか?
ドラマの新作も、最近では午後十時以降が主流で、半分は深夜ドラマになっている。
「録画できるから」
というのが、その根底にあるからなのか、とにかく、ここ二十年くらいで、テレビの構成がまったく変わってしまったというのが、事実のようだ。
テレビ離れを皆がしてしまったのは、寂しい気もするが、その分、好きなものを好きな時に見ることができるということであり、ある意味自由だといってもいいだろう。
昔のチャンネル争いなどは、封建制度を受け継いでいて、基本的には家主が勝つことになるだろう。
勧善懲悪には、必ず、敵となる悪役が存在しなければ、成り立たない。今の世間において、悪役が存在しないということはありえない、なぜなら、
「人間が複数いれば、必ず、差ができるからである」
ということだからである。
そこに、貧富の差であったり、頭脳のできであったり、運の良さや悪さまでが、その人に絡んでくる、その人の能力いかんにかかわらず、差が出てくるというのは、差別であり、そこに、何らかの感情が現れなければウソである。
しかし、そんな中、差を縮めるために、相手をライバルとして、自分も向上しようという考えを持つ人もいるだろう。
必ずしもどちらかに善悪を付けるのではなく、優劣という考えを持つ人もいる。つまり、優劣であれば、努力によって、自分が相手よりも劣であったものが、優になることもできるからだ。これを善悪だと考えてしまって、自分が悪だと考えると、相手に勝るにはどうすればいいのかということを考えることで、間違った道を選択してしまいそうになり、道を踏み間違える可能性がないとも限らないだろう。
それでも、世の中に必ず、善悪をつけたがる人もいる。
「貧富の貧は悪であり、富は善である」
あるいは、
「優秀な成績を収める人は善であり、劣等生は悪である」
などという考えだ。
しかし、それは違うと教育では教えているのだが、実際には、貧富も、成績の優劣も存在する。
それは、世の中が自由だからである。
自由競争が存在し、自由競争を奨励している以上、基本的には平等に競争するのが自由競争なのだが、スタートラインで、差がついている場合もあるだろう。そういう場合であっても、しょうがないというのが、この世の中だ。
もし、これが貧富の差がないようにしようとすると、自由競争を許さず、すべてを国というものに任せて、国からの恩恵で暮らすことになる。
確かにそうなると、貧富の差は減るかも知れないが、その人の能力に比例して考えると、能力のある人が損をして、能力の劣る人は得をするということになる。
それが、果たして、
「善悪のない世界だ」
と言えるだろうか。
結果、貧富の差が限りなく少なくなったとしても、しこりが残らないわけではない。しかも、このような国による雁字搦めの政策ともなると、世の中における差別や平等がなくなり、国家に対して次第に浮かび上がってくる不満を、力によって押さえつけなければいけなくなる。
それが粛清であり、独裁を生むことになる。
そうなってくると、何が正義で、何が悪なのか分からなくなるだろう。
理想の社会というものは、自由を抹殺するということであり、そうなると、善悪の感覚がマヒしてしまい、国家が行き先を間違えると、国家すべてが崩壊することになりかねない。
そんな国家がかつて存在した。二十世紀の中で、約八十年近く続いた、あの国家である。
「連邦国家」
という態勢を気づき、あくまでも、連邦政府としての党が、それぞれの国家よりも上にあり、党の決定がすべてであった。
自由主義陣営と、戦後、冷戦という形を作り上げ、
「東西冷戦」
と言われた。
お互いに相手を敵視することで、自分たちの体制が正しく、世界に自分たちの陣営国家を築こうと、躍起になった時代だ。
いくつもの戦争を経て、さらに核開発競争においての安全序章の問題。
今は別の国との冷戦構造が出来上がりつつあるが、これも、当時の国家体制と似たものであった。
もちろん、同じだとは言わないが、当時は、
「核の抑止力」
が問題であったが、今回の冷戦としては、
「経済問題」
が大きな問題だといってもいいだろう。
とにかく、相手が独裁国家であることは、当時と共通していることだろう。
日本人の勧善懲悪というと、おとぎ話などのようなものに見られることもある。
基本的には、勧善懲悪ものが多く、桃太郎や一寸法師に見られるような鬼退治の話が一般的な勧善懲悪の話として知れラテいるものであろう。
少し話がずれるものとして、
「決して見てはいけない」
あるいは、
「決して開けてはいけない」
などという、
「見るなのタブー」
というものがある。
一般的には、日本だけではなく、ギリシャ神話、聖書などの中にも描かれている。
世界的に有名なものとして、
「ソドムの村」
の話で、
「振り向いてはいけない」
と言われていたにも関わらず、振り向いたために。塩の柱になってしまったというものだが、この場合この場合の教訓は何なのだろうか?
後ろで街が破滅する恐ろしい音がなったので、好奇心から振り向いたのか、それとも、恐怖心の裏返しで、見ないわけにはいかないということで見てしまったのかということであるが、前者であれば、完全に約束を破ったのだから、制裁を受けて当然だといえるが、後者であれば、人間の性であっても、神様からすれば、それも許さないという、人間と神の間の主従関係のようなものが、犯してはいけない結界が間にあり、それを諫めたのだから、それは仕方のないことだとするのだろうか?
日本のおとぎ話でも、浦島太郎の話などは、一見矛盾しているところがある。
学校で習うような一般的な浦島太郎の話は、
「開けてはいけない」
と乙姫に言われた玉手箱を開けてしまったので、おじいさんになってしまったというところで終わってしまっているのだが、実際には違っている。
その先に、鶴になった太郎と、カメになって地上にやってきた乙姫様が、幸せに暮らしたというハッピーエンドが本当はあるのだが、明治政府によって、玉手箱を開けるところで話は終わっている。
本当は、
「カメを助けるといういいことをしたはずの浦島太郎が、最後にはおじいさんになってしまうというのは、教育上よくないと思うのだが」
という矛盾を感じるに違いない。
しかし、その後の、
「開けてはいけないというものを開けたという、開かずのタブーを破ってしまったことへの戒めが、ラストにはふさわしい」
ということになったのだろう。
浦島太郎の話は、随所に矛盾があるような気もする。
なぜ、竜宮城から帰ってくると、数百年も過ぎていたのか?
そして、帰っていくときに、開けてはいけないというのであれば、どうして玉手箱などを渡す必要があるというのか?
そして、なぜ、二人は地上で、老人になって結ばれるという道を選ばなければいけなかったのか?
そもそも、室町時代に書かれたというおとぎ草子が、アインシュタインが発見した相対性理論のような理屈を、知っていたのかということも信じられないことである。
世の中は、まだ天動説だった時代ではないか。それを思えば、おとぎ話として明らかに残っているのもすごいと思う。
しかも、浦島伝説というのは、昔から、いろいろな地方に残っている。少しずつ話は違っているようだが、それを編集して、一つの話にしておとぎ草子の中に書いたのだとすると、古代から、相対性理論は受け継がれているということになる。
この話は、そもそも、いじめられていたカメを助けたところから始まっているので、始まりは勧善懲悪に近い話だといってもいいだろう。
だか、途中で話が変わってきている。
そもそも、
「開かずのタブ」
という考えは、鶴の恩返しなどのような、
「何かを助けて、そのお礼をしてもらう」
というところから始まっている。
そこに、戒めを込めて、おとぎ話として残しているのだろうが、人間の好奇心をくすぐる話として、どこまで問題なのか、難しいところである。
そんな、勧善懲悪の話であるが、元々、勧善懲悪の話を持ち出したのは、ドン・キホーテの話をしている時の弘前だった。
その弘前が、なぜ、勧善懲悪を考えたのかというと、
「ドン・キホーテの話は、元々滑稽本として読まれていたが、そのうちに騎士道などに対しての古い悪行に対しての反発のようなものから書いたのではないかという評価に代わってきたということだけど、俺もそんな風に思うんだ。そうでなければ、最新の研究で言われるような、悲劇になってしまうからじゃないかと思うんだ」
と弘前がいうと、
「それはどういう発想なんだい?」
と雄二が聞き返す。
「昔から喜劇と呼ばわるものには、悲劇的なエピソードが備わっているものだって思うんだ。新喜劇にしても、要所要所は人を笑わせるギャグがあって、最終的には、ホロリとしたお涙頂戴があるわけだろう? 喜劇と言いながら、お涙頂戴を絡めることで、クライマックスのどんでん返しに最後のギャグを使うことで、話を本当の喜劇に持っていくんだ。それがなければ、ただのギャグの押し付けにしかならないだろう? 俺は、ドン・キホーテの話もそうじゃないかって思うんだ。滑稽なことを繰り返しながら、最後には、勧善懲悪という目的を達成していく。ただこの話は喜劇ではない。喜劇に見せかけてはいるが、社会風刺だと思う。そうなると、社会風刺に対して何かテーマが含まれていないと違和感だけが残りそうな気がする。そのテーマが俺には、勧善懲悪なんじゃないかって思うんだよ」
と、弘前が言った。
「なるほど、そこまで考えたことはなかったな。だけど、ドン・キホーテの話の中の代表的な部分というと、風車に向かって突進していくところだろう? あれを俺は、先ほどの話のように、ブッシュマンのような未開の文明の連中が、初めて見た風車に対して、本能から攻撃するという愚かな行動だと思っていたので、悲しみの方が強かったんだ。だからあのシーンしか知らない人は、この話を勧善懲悪だなどと思う人はいないだろうな。そう、今、弘前君が言ったように、喜劇の中にあるお涙頂戴的な意味で、見てしまうと、この話を滑稽本として考えていた連中の気持ちも分からなくもないな」
と、雄二は言った。
「そうなんだよね。この話を読んで考えたこととして、最初の前提として、騎士道の本を読むのが好きな青年が、現実と物語を近藤してしまって、その境目が分からなくなり、自分が騎士道の主人公だと思い込むようになったということなんだけど、普通に考えると、無理のある話だと思わないかい?
と弘前に聞かれた雄二は。
「言われてみれば、そんな気がしてくるね」
と答えると、
「そうだろう? この話は最初から違和感があるんだ。だけど、話が進んでいくうちに、その感覚が薄れていく。下手をすると、読んでいるうちに、その違和感を共有しているかのように、小説の世界に引き込まれるからではないかと思うんだ。つまりは、小説の中でドン・キホーテが陥ったような感覚を、読者に感じさせるという感覚。何かに似ていると思わないか?」
と弘前は、次第に興奮してきて話をした。
「というと、どういうことなんだい?」
と雄二は、考えようとしたが、あまりの弘前の興奮度に、
「自分が答えてはいけないのではないか?」
と感じたのだ。
「いやいや、それはね、たぶん君も想像していると思うんだけど、マトリョーシカ人間なんだよ」
と弘前が答えると、
「マトリョーシカ人形?」
と雄二が聞き返した。
どうやら、雄二はその言葉を知らなかったようだ。
「マトリョーシカ人形というのは、ロシアの民芸品の人形のことで、大きな人形が、真ん中から前後に割れる仕掛けになっているんだけど、その中には今度は少し小さな人形が入っているんだ。そしてその人形も同じように真ん中から割れて、中に人形が入っているという仕掛けさ。五段階くらいになっているのが一般的だといわれているらしいんだけどね」
というではないか。
雄二はそれを聞いて、途中から分かったようだ。
「これをマトリョーシカ人形というのか?」
と思ったほどで、弘前が最後まで語った時には、なぜ彼がこの話をしようとしたのかが、少し分かったかのように思えていた。
「なるほどね。この小説の中には、ドン・キホーテの行動を通して、読者が陥るであろう発想をかんがえて書かれたものではないかと弘前君はいいたいんだね?」
と、雄二は言った。
「そういう意味で、俺はこの小説を読んだ時、この話がミステリーのようなイメージを受けたんだ」
という弘前に対して、
「ミステリー?」
と、雄二は聞き返す。
「ミステリーであったり、探偵小説であったり、推理小説というものには、トリックというものが存在するだろう。殺人事件が起こった時、犯人が読者に対して挑戦するかのような構図になるんだけど、いくつかのパターンがあると思うんだ。例えば、密室トリックだったり、死体損壊トリックだったり、一人二役だったりね。この三つを三大トリックと評している人もいるくらいだ。あとは、アリバイトリックだったりと、小説の中では、ある程度決まったトリックがあるんだよ。すでに、トリックとしてはほとんど出尽くしていて、あとはバリエーションの問題だといっているらしいんだけど、そんなトリックというものに対して、もう一つ俺は気になっているトリックがあるんだ。それが叙述トリックと呼ばれるものなんだけどね」
と弘前は言った。
「何だい? その叙述トリックというのは?」
と雄二が聞くと、
「つまりは、作者が自分の小説の書き方で、読者をミスリードするかのようなトリックなんだ。トリックというものを、物語の外において、客観的に見るとでもいうのかな? ドン・キホーテの話にしても、マトリョーシカを想像した時点で、俺は、この話をミステリーの中の叙述トリックとして感じるようになったというわけなんだ」
と弘前は言った。
弘前の話は、次第に拡大解釈の様相を呈してきた。
「一体、何が言いたいのだろう?」
という思いが雄二の中に広がっていった。
弘前はそのことを見越してであろうか。
「俺はこの話には、勧善懲悪の他に、いや、他にというよりも、この勧善懲悪という感覚を強めるという意味で、何かが含まれているように感じるんだ」
というではないか。
「その何かというのは?」
と雄二が聞くと、
「それが、異次元の感覚ではないかと思うんだよね」
と、またしても、突飛な発想を言い出した。
「異次元? それは四次元の世界という意味かな?」
と聞くと、
「四次元とは限らない。三次元と二次元。つまり立体と平面という意識からも、繋がってくるんじゃないかと思うんだ。つまりは、先ほどのマトリョーシカの発想というのも、まるで、人形の中にいる人間、つまり小説の登場人物は、基本的に読者を意識しているわけではない、読者としても、登場人物のことを想像するのは、作者の手腕によるものだけであって、必要以上に発想することはないだろう。つまりは、そこに読者としての立体と、登場人物としての平面が存在していて、お互いにその間には結界のようなものがあり、それがマジックミラーのように、平面からは立体を見ることはできない。立体からは平面を見ることができるのだが、意識することはない。そこにあるのは、マジックミラーのような、結界が広がっているといってもいいのではないかということなんだ」
と弘前は言った。
「なるほど、異次元の発想というのは、そういうマジックミラーのような発想ではないかというんだね?」
と雄二が聞くと、
「ああ、そうなんだ。だから小説というものは、表現において、異次元への挑戦ではないかと思うんだよ。マンガであったり、写真などにはない、想像力を掻き立てることで、一つお物語ができあがる。それが小説だと思うんだ。今のテレビドラマなどは、ほとんどが原作はアニメだったりするだろう? 俺は、それが少し気に食わなかったりするんだけどな」
と言って、弘前は笑った。
かなり難しい話に入ってきていたが、弘前は、気持ちを和らげるためか、話の間に時折、笑いを織り交ぜているかのようだった。
「能の合間に狂言を折りませるというが、まさにこのことなんだろうな」
と雄二は考えていた。
弘前の話を聞いていると、雄二もなんだか、自分が異次元の世界にいざなわれているかのような気分にさせられた。
ドン・キホーテの話を通じて、まさか、勧善懲悪という発想と、異次元という発想が結びついてくるなど思ってもいなかった。しかも、その間に、ロシアの民芸品である、
「マトリョーシカ人形」
の発想が含まれているなどというのは、想像もしていなかったことだったからだ。
しかも、この一連の発想が、裕美の中で起こっている。
「中二病」
という症例の一つとして、弘前が考えているというのだから、かなりの発想の転換だといえるのではあいだろうか。
雄二としても、まさかここまで話が飛躍してしまっていると、最初がどこから出発しているのか分からなくなりそうだ。
しかし、雄二の中では、そんなことはどうでもいいように思えてきた。なぜなら、
「ここまでの発想は、どこから始まっているとしたとしても、結果、元の場所に戻ってうるという思いが含まれているからだ」
と感じたからであった。
「負のスパイラル」
という言葉があるが、この周防愛らるというのは、循環しているものであると思っている。
しかし、その循環というものが、輪によってできあがっているものだとは思っていない。スパイラルというのは、螺旋であり、輪のように平面ではないのだ。上から見ると、蚊取り線香のように、平面の中心に向かって、とぐろを巻いているように見えているのだが、実際には、立体になった、螺旋階段を模しているということなのだった。
それだけでも、異次元という発想が、
「負のスパイラル」
という言葉で証明されているといえるのではないだろうか。
そもそも、異次元という発想がなければ、
「負のスパイラル」
という発想も出てこないのではないかという、逆説、つまりパラドックスではないかと考えるのだ。
ちなみに、異次元、特に四次元の世界を表する時に例として出される、タイムトラベルなどで、
「タイムパラドックス」
という言葉が出てくる。
パラドックスというのは、そもそも、逆説という意味で、
「逆も真なり」
という言葉と相対的に考えられるものである。
このタイムパラドックスというのは、特に、タイムマシンなるものが開発された時、過去に行く話などで例として用いられるもので、
「親殺しのパラドックス」
というのが有名である。
過去に行って、自分が生まれる前に自分の親を殺すというものだ。
自分の親を殺すわけだから、自分が生まれてくるはずはない。ということは、生まれない自分が過去に行って、親を殺すことはできない。だから、そのままの歴史が変わらずに、自分は生まれてしまう。しかし生まれるということは過去に行って親を殺すことになる……。
という無限に抜けられない輪の中に入り込んでしまうというのが、
「親殺しのパラドックス」
である。
しかし、これを、
「スパイラル」
と考えればどうだろう?
必ずしも輪ではなく、らせん状になって、限りなく続いているものだと考えると、そこから先も見えてくるのではないかというものだ。弘前はそのことを考えているのだったのだが、雄二もそこまではいかないまでも、
「雄二にしか分からない発想」
を思い浮かべることで、弘前にしっかりついていくのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます