第7話 タバコが吸えない

 もっとも、いつが最悪だなんて分かるはずもない。それは、幸せだと思う時も同じで、

「上を見ればきりはないが、下を見ても同じだ」

 ということであった。

 それは、自分に対してというだけのことではなく、世の中に対しても同じこと、世の中だってバブルが崩壊して最悪な状態であるが、実はこれがまだ底辺に向かって、まだまだ下がっている時期なのかも知れない。

 いや、もう落ちるところまで落ちて、これから這い上がる時なのかも知れない。それは誰にも分からないだろう、しかもそこには個人差があり、立場の違いによって、人それぞれだともいえるだろう。

 何といっても、

「サイコーだ」

 と言っていた、あのバブルの時代でも、誰も崩壊することを予見しなかったではないか。

 ひょっとして、学者の中にはわかっている人もいたかも知れない。しかし、それを言ったところで、世間の誰も信用してくれるはずもなく、

「ホラ吹き」

 と呼ばれることを恐れたのかも知れない。

 それだけ、世間は誰もが、最悪なことを考えるなどできないということを、

「何とも言えない不気味な不安」

 として、受け付けようとしなかったとも考えられる。

 だが、それよりも、もっと単純に、サイコーな状態に酔ってしまったことで、感覚が鈍ってしまい、本当に、今の状態を想像することもできなかったのかも知れない。

 そうなると、予見した人をホラ吹きと呼ぶ可能性はかなり高い。感覚がマヒしているにしても、ホラ吹きと誹謗されるにしても、予見することは、自分を自らに窮地に追いやることになる。

 そんな、

「オオカミ少年」

 になってしまうことが分かっていて、自分一人を悪者にするだけの勇気を持てる人がいるだろうか?

 これが、いいことを予想するのであれば、また違っているのだろうが、最悪な予見をするのだ。その予見が当たっていたとしても、

「ほら、私の言った通りではないか」

 と言ったところで、まわりの人は、

「まさか、そんなことが……」

 と慌てふためき、結局、自分しか見えなくなってしまい、パニックの中、誰も聞いてくれないだろう。

 予見するのであれば、予見した内容を信じてくれる人がいて、少しでも最悪を避けるだけんp行動を起こしてくれるのであれば、予見も意味のあるものだが、それがないのだとすれば、下手をすると、

「あんたが変なことを言い出すから、世の中がおかしくなっちゃたんじゃないか」

 と言って、バブル崩壊の原因をこちらに押し付けて、責任転嫁でもしようというのだろうか?

 バブルの崩壊は、突き詰めればどこかに要因や原因はあるだろう。

 しかし、それは引き金を引いたというだけで、その引き金は、いつかどこかで誰かが引く運命にあったのだ。

「それを引いたのが誰なのか?」

 ということが問題なのではない。

 引き金を引くための巨大なピストルを用意したのは誰なのかが本当は問題なのだろう。

 しかし、それを用意したのは、きっと一人ではない。皆が少しずつそこにあったピストルを、射程位置に固定するために、動かしたのだろう。何しろ、一人で動かすことのできないほど大きく、そして重たいものであり、皆が無意識ではあっても、協力しなければ、動かないものだからである。

 最悪に向かっているという意識があれば、誰もするはずがないのだから、そういう意味で、感覚がマヒしていたという考えは、まんざらウソだともいえるわけではないのではないかと思うのだ。

 さらにもう一つ、人に言えない理由があるとすれば、

「集団意識のなせる業」

 というのもあるだろう。

 せっかく、世の中がうまくいっているのに、それに水を差すようなことを言えば、自分がまわりから、干されてしまうという感覚である。

 まるで自分から墓穴を掘るようなマネはさすがにできないだろう。もし、そんな行動をとって、自分がまわりから干されてしまえば、必ず後悔するからだ、

 何しろ世間に警鐘を鳴らすのである。いい状態に水を差すということは、もしそれが叶ったとしても、褒められるということはない。

「お前が変なことを言うからだ」

 と言われて、干されてしまう。

 慌てられて、混乱するのも困るが、それ以上に責任をこちらに押し付けられるのは理不尽極まりない。それを分かるから、自分からそんな真似はしたくないのだ、

 結局はどちらに向いても、自分ひとりだけで何を言っても、どうしようもないのが、まわりの集団意識だ。

「好事魔多し」

 という言葉があるのは分かっているので、世間に光と影が存在するとすれば、影の台頭を許すことはない。光と影を、

「善悪」

 として考えるならば、悪を意味する影が表に出てくることを警戒するであろう。

「口に出すことすらおぞましい」

 という状態なので。それこそ、

「出る杭は打たれる」

 のである。

 誰もが、こんな時は、腫れものに触るかのように過ごしているので、お世辞やおべんちゃらが横行してしまう。逆らうことは、罪悪であった。

 それが、

「無言の圧」

 であり、

「集団意識」

 というものではないだろうか。

 ちょうど、この頃から、嫌煙権や、副流煙という言葉が叫ばれ始める。さらに、世間では、バブル崩壊を予言するかのような、詐欺事件であったり、企業への脅迫事件という、大きな社会問題が起きていた。

 食品、特にお菓子メーカーを狙った事件で、社長の誘拐から始まって、複数のメーカーに対して同時多発的に脅迫が始まったのだ。

「こちらのいうことに従わなければ、お前たちの会社の製品の中に、青酸カリを混入する」

 と言って脅迫し、実際にスーパーなどの陳列棚から、青酸入りのチョコレートなどが見つかったりした。

 ちなみにこの頃から少しの間、箱に入ったお菓子関係は、箱のまわりに、ビニールシートで包装するという形の製品が出てきた。箱を開けるとすぐに分かるというものであるが、注射針を使って混入すれば、分からないという欠点もあったことから、少しして、包装もなくなってきた。

 彼らは、昔の怪盗の名前を模した名前で脅迫してきた連中であり、結局、死人は出なかったが、卑劣な犯罪は結局すべてが時効を迎え、迷宮入りしてしまったのであった。

 さて、これも同じ昭和末期の、バブル期に陰りが見え始めた頃のことであったが、

「老人を騙して、老後のために貯めておいたお金を、むしり取ると」

 という、こちらも極悪非道ともいえる犯罪が起こった。

 一人寂しく老後を過ごしている老人に、言葉巧みに近づき、その寂しさに付け込んで、優しくしてあげることで、安心させ、さらに、生きがいを与えてくれたということを老人たちに思い込ませることで、遺書を書かせたり、保険の受取人を自分にしたりさせていた。

 しかも、それが一つの会社による探団体だったのだ。会社ぐるみで老人を騙し、残り少ない人生に楽しみを与えるということで、罪悪感はなかったのかも知れない。

 だが、世間にそれが明るみに出れば、

「いずれ自分たちの老人になった時、こんな形でお金を騙し取られるということを考えると、たまったものではない」

 と、世間を敵に回す。

 詐欺というのがどれほど卑劣なものかというのを、皆が思い知った事件でもあった。

 マスコミは騒ぎ出し、社長や詐欺社員にインタビュアーが群がってくる。この事件の衝撃は、そんな時、男が乱入して、生放送中にマスコミに囲まれていた社長が殺されたことであった。これがこの一連の事件のクライマックスだったということが、センセーショナルな話題となったのだった。

 この時代、つまり昭和の末期、そして、バブル経済の末期状態だったのだ。そんな時代を象徴するかのような事件が多発したのは、ただの偶然と言って片付けていいものなのだろうか?

 そんな頃であっただろうか? 一人の不思議な老人を見かけたのだが、その老人はまるで何かにとりつかれたかのようになっていたが、何がどうなったのか、最初は分からなかった。

「ああ、タバコが吸いたい。吸いたいんだ」

 と言って、彷徨っていた。

 公園をウロウロしているかと思うと、公園から出ていき、最初はその老人を追いかけてみようかと思った茂三だったが、老人が公園を出た瞬間に、それ以上追いかける気持ちが失せてしまったのだ。

 なぜ、追いかける気持ちが失せてしまったのか、理由は分からなかったが、老人がまったくまわりを意識することなく、ただ、彷徨っているだけにしか見えないことが、もどかしかったのだ。

 まったく自分に関係のない人を見て、しかもその人がまわりを一切気にしない人だということなのに、なぜにもどかしく感じるのか不思議だった。もどかしく感じるなどということはありえないはずなのに、そんな風に思うというのは、自分がその人を気にしているからの他ならないのに、気にする理由が見当たらない。それが、もどかしかったのかも知れない。

 つまり、その人を気にしている自分をもどかしく感じていたのだろう。

 だから、そのことに気が付いて、その老人を追いかけることをやめたのだ。

 その老人が座っていたベンチに今度は自分が座り、老人が見ていた光景を見ようと思ったのは、そうすれば、少しでももどかしさが薄れるかも知れないと思ったからだったが、実際に座ってみると、もどかしさが消えるようなことはなかったのだ。

「それにしても、タバコが吸いたいとはどういうことなのだろう?」

 その頃は、まだ公園にも灰皿があった頃だったので、別にタバコを吸ってはいけないというわけでもなかった。

 タバコを吸ったとしても、まわりから白い目で見られることもない。白い目で見るやつを、恫喝すれば、白い目で見た方が恐縮してしまうくらいの時代だった。

 ということは、あの老人が、タバコを吸えないといって、悶絶していたのは、まわりに対しての思いからではない。すると、タバコすら買えないほどに、貧乏だということなのだろうか?

 なるほど、みすぼらしい老人には違いなかったが、その様相だけでその人の経済事情を図り知ろうとするのは、かなり乱暴なことだ。変な勘違いをすれば、余計に気になってしまうだろう。

「こんなことなら、考えない方がよかった」

 と後になってから考えるのであれば。必要以上に余計なことを考えない方がいいだろう。

 その頃の茂三は、そろそろバブル経済の限界が、世間に降りかかってくるということを感じ始めた頃だったので、人の経済事情を知るということ自体。どこか胡散臭い気がしていただけに、余計な勘違いが、自分に対していかにストレスを貯めてしまうことになるか、分からないでもなかったのだ。

 茂三自身も、まだ世間ではバブルの限界がほとんど知られていないことで、不安を感じるようになってきた。

 人に言っても混乱を招くか、余計なことを言われたと思って、嫌な顔をされるということが分かっているので、余計なことを言わないようにしていたのだが、それがストレスとなってきていることを分かっていなかった。

 謂れのない何とも言えないストレスが自分に鬱積してきたことは自覚していたが、それがどこから来るのかわかっていなかった。

 もし分かったとしても、それは、自分が認めたくない種類のストレスであって、それこそ自分が、

「余計なことを考えたためにたまったストレスだ」

 ということを感じてしまいかねない。

 理不尽なストレスが、自分を納得させられるわけもなく、怒りがこみあげてくることになる。理不尽はストレスの原因などではなく、自分を納得させることができないことにあるのだということを、無意識のうちに感じていたのではないだろうか。そのことを感じる自分をいつになったら、分かることができるのだろうか。

 そんな状態で、久しぶりに公園のベンチなどに座ったので、立ち上がることができなくなり、しばらくそこに佇むことにした。

「そういえば、最近、何も楽しいなどと思うことはなかったな」

 と、迫りくるバブル崩壊への感じていたストレスを、今さらながらに思うと、逆に昔の学生時代を思い出せるような気がして、そこから離れられないという気持ちになったのだろうという楽天的な気持ちになっていたのだろう。

 学生時代には、

「無駄なことを、無駄だと分かっていて過ごしていた」

 という意識があった。

 それは、そんな気持ちになれるのが学生時代であって、その時間を楽しむことができる時期を特権として持っていて、その時期が、本当に限られているという意識を強く持っていたからだと感じている。

 学生時代というのは、本当に限られた時間だった。

 一年生、二年生の頃は、本当に無駄なことを無駄と分かっていても過ごしていて楽しい時間であったが。三年生になると、少しずつ緊張してきて、四年生になると、どこかで開き直りがあり、その開き直ってからあとは、学生気分を払拭して、それまでの自分とは違う自分を、この自分が演出するのだという気持ちになっていた。

 これは、初めての経験ではなかった。中学、高校時代にも感じたことだった。

 それが、受験への心構えであり、合格すれば、その先は楽しい一歩進んだ学生生活が送れるという感覚があったからだ。

 大学という、まるでレジャーセンターの中で毎日を過ごすような生活を夢見て、信じて疑わなかったから、受験戦争を苦しみながらも乗り越えてこられたのだと思っていたのだった。

 だが、大学三年生以降では、それまでの楽しい学生生活。無駄なことを無駄だと思いながら過ごせるという贅沢な時間とはまったく違う。社会人になることをいかに覚悟できるかということが問題なのだ。

 小学校に入学してから、どんどん成長するにしたがって、学年が上がっていく。そして進学すると、上級の学校への進学で、さらにステップが上がってくる。最高学府である大学を卒業すると……。

 そこに待っているのは、それまでの解放感や無駄な時間などは一切ないと思える新たな世界。しかもそこでは、完全な新人なのだ。

 これまでは、上しか向いていなかったのだが、今度は、どこを向けばいいというのか、それだけでも戸惑うというのに、そんな戸惑いのために、活動し、今後どのように生きていっていいのか分からない中で、就職が決まったといって、

「おめでとう」

 などと言われるのは、実に理不尽であった。

 戸惑いながらも、

「ありがとう」

 としか言えない自分を情けなく感じた。

 社会人というものが、いかに自分を困らせる立場なのかを考えていかなければならない。

 だが、その時期がくれば思い出すのは、受験勉強をしている時だった。

 あの頃は、これからの努力でどうにでもなると思えたが、就職活動としては、学校の成績はすでにほとんど決まっていて、その中での面接でいかに相手に自分をアピールできるかなのだが、そんな時、

「この会社に決まったとしても、それを手放しで喜ぶことなんかできるのだろうか?」

 などと思うと、真剣に面接を受けれる自信はなかった。

 それが、分かり切っているだけに、面接官に対して、熱を持った面接が受けられるわけはないと思っていたことだろう。

 それだけに、就活は難航した。それでも、こんな自分を雇ってくれるような会社もあるようで。就職できたことで、喜びというところまではなかったが、ホッとしたことは間違いのない事実だった。

 ただ、就職できたのは、

「どこかのタイミングで開き直ることができたからだろう」

 ということは感じていた。

 確かに、どこかのタイミングで開き直ったような気がした。就職の内定がもらえたのは、その感覚を持ってすぐくらいのことだったので、その開き直りがあったことが、就職できた一番の理由だと思っている。

「結局は、受験勉強の時と変わらなかったのかも知れないな」

 と感じたのだが、この感覚が自分というものであり、状況が違っても、目的を達成することのパターンに概ね差はないのだろうと感じたのだった。

 就職してからというもの、いわゆる、

「五月病」

 と呼ばれるようなものに突入した時期があった。

 仕事を覚えなければいけないと思えば思うほど、寂しさのようなものが襲ってくるのか、自分でも、何かから取り残されているような気がしてくるのだった。

 しかし、その思いがあることから、

「大学時代を思い出す」

 ということはなかった。

 大学時代を思い出すから、寂しさを感じるというわけではない、なぜなら、就職してから大学生の連中を見ていて、

「大学生が羨ましい」

 と感じることはなかった。

 むしろ、大学を卒業したことの方がよかったと思うくらいで、大学生が友達と仲良くつるんで歩いているのを見ると、

「あいつらは、まるでまわりのことを考えていない」

 と思ってしまうほど、何か、彼らに嫌気のようなものを感じるのだった。

 もちろん、大学時代のような甘くない社会人が好きなわけではない。

「できることなら、大学時代に戻れるなら……」

 と思うのだが、だからと言って、大学時代に戻って何かをしたいという気分にはなれないのだ。

 大学時代には小説を書いていたが、それ以外に何か実績を残したというわけではない。

 つまりは、充実した毎日を過ごせたという感覚がないのだ。

 だから、今さら大学時代に戻ったところで、何をすればいいのか分からない。しかも、一度大学を卒業し、今は新たな世界をのぞいてしまったのだ。だとすれば、ここから逆戻りをするということに違和感があり、

「一番してはいけないことだ」

 と感じさせるのだった。

 つまり、この時の寂しさは、いわゆる、「五月病」の寂しさではなく、そのあとの、

「何をしていいのか分からない」

 ということの方が、この時の心境を物語っているのだといってもいいだろう、

 寂しさという感覚は、あとになって、この時の心境を思い出すのに、自分の中で納得させるために、勝手な印象として残させるものだったに違いない。

 まだ、その頃はバブル時代の真っただ中、仕事は山ほどあり、寂しさなどを感じている暇はなかったのだろうが、逆に、忙しさにかまけた毎日を過ごしていて、ふと我に返った時があったとすれば、それが、この、

「何をしていいのか分からない」

 という時期だったに違いない。

 何をしていいのか分からないほど、それまでが忙しかったのであって、ずっと上ばかり見ていたので、ふとまわりを見ると、自分がどこにいるのか分からなかったのだろう。

 上に何か目標があって、そこばかりを見ていると、自分が動いているという感覚すらマヒしてしまったのかも知れない。

 そんな状態は、一か月ほどであっただろうか、すぐに我に返っていた。その時は違和感こそあったが、

「大卒一年目の人が罹るといわれる、一般的な『五月病』だと思っていた」

 のだったが、それが違う種類のものであるということを知ったのは、この公園で、

「タバコを吸いたい」

 と言って彷徨っていて、公園を出て行った老人を見た時だった。

 それまで、自分が少しおかしな感覚になっているなどということをまったく意識もしていなかった。

 だから、おかしな言動をしながら、公園を彷徨い、出て行った人のことが気になったのだと思っていた。

 そう思いながら、その老人の座っていたベンチに腰を掛けて、公園を眺めていると、何か不思議な気分に襲われた。

「なんだろう? この懐かしい感覚は」

 と感じたのだが、その懐かしさというのが、思い出したということを喜ばせる感覚ではなかった。

 むしろ、思い出してしまったことを後悔させるようなものだったが、このまま思い出さないでいるということも、却って気持ち悪い。梯子に上らされて、屋上に上がったはいいが、その梯子を外されてしまったという、そんな中途半端な気持ちに陥っていることに気づいたのだった。

 そんな、

「五月病もどき」

 と感じていると、時間の感覚を忘れていたのか、気が付けば、夕日が家の屋根の陰になりつぃつあり、足元の影が伸びようとしていた。季節としては、そろそろ残暑も終わり、秋になろうとしていたことを思い出させるかのような影を見ていると、その陰から少し目が離せなくなってきているようにさえ思えたのだった。

 まっすぐ、前を見ていると、伸びた影がどんどん長くなっていくように感じ、その分、足元の影が遠くに感じられるようになった。

 それはきっと、

「錯覚を正当化させようとする、何かの辻褄合わせのようではないか?」

 と感じられるようになっていたのだ、

 つじつま合わせの感覚は、デジャブという感覚と同じではないかと考えたことがあった。

 デジャブというのは、

「初めて、見たり聞いたりしたはずなのに、かつて見たり行ったことがあった場所を覚えてもいないにも関わらず、以前にもどこかで……」

 と感じるものだ。

「どうしてデジャブというものを感じるのか?」

 ということを考えたことがあったが、それが、

「自分の中で、記憶してもいないのに、覚えているということへの矛盾を納得させようとして、頭の中が辻褄を合わせようとしていることだ」

 と考えるようになった。

 だから、本当は見てもいないということが大前提にあり、それでも見たことがあるかのように感じたのは、似た光景を感じたということが、過去の記憶を間違った方向に上書きさせようとしていることを分かっているのだが、その感覚を認めてしまうと、錯覚を正当化させることになるのだが、それを認めさせないようにしようという、自分を納得させるという基本的な大前提が自分の中にあることから巻き起こる潜在意識への屈折が生み出したものではないかと、考えるようになったのだった。

 だが、これはあくまでも、自分の中でのデジャブというものへの言い訳のようなものだった。

 しかし、デジャブというのは、自分だけではなく、他の人にもあり得ることで、自分だけの理屈として片付けてしまうと、他の人の理屈とは合わなくなってしまう。

 そうなると、皆それぞれに、

「自分と同じように、自分を納得させるための、自分に都合のいいい解釈を持っているのではないだろうか?」

 という思いと、

「確かに、自分に都合のいいように解釈しようとするのは同じ理屈であるが、それでも人間に限界があるからなのか、結局は同じ理屈にたどり着いているのかも知れない」

 という二つの考えが浮かんだ。

 後者は、まるで偶然が偶然を読んで、

「マイナスにマイナスを掛けると、プラスになる」

 というような考えが、

「理屈として、偶然を必然にしたという、実に稀なケースなのかも知れない」

 という思いを生んだのかも知れないと考えていた。

 デジャブという勝手な発想が、頭の中で勝手にトルネードを描いていると、そこには、

「負のスパイラル」

 というような、螺旋階段が浮かんでいるように思えてきた。

 そのうちに、またしても、時間の感覚がマヒしているということに気づくことになるのだが、今度は、本当に意識が、一気に現実に引き戻された気がしたのだ。

「ああ、タバコが吸いたい。吸いたいんだ」

 と言って、公園を出ていった老人が、また戻ってきたのだった。

 セリフもまったく同じ、

「ああ、タバコが吸いたい。吸いたいんだ」

 という言葉である。

 それこそ、今感じたデジャブが、老人が戻ってきて、老人が開けた自分の身体の形をした時空の穴を、自らが埋めているような気がしたのだ。

 スッポリと埋まったその光景が、眩しい光を放ったかのように見えた時、時間が凍り付いてしまったのを感じた。

 それは時間が止まったのではない、あくまでも、

「凍り付いた」

 という感覚だったのだ。

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