第6話 最悪の場面に
だが、小説の原稿を書いても、実際に見てもらったり、ましてや、評価をもらうなど、それまではまったく不可能だった。小説を書いたとして、ネットもない時代、どうやって発表すればいいというのか、それこそ、文芸サークルに入って、機関誌でも発行するか、あるいは、同人誌に送るかくらいしかなく、それもジャンルが決まっていたりして、発表したとしても、自己満足でしかなかった。
そんな自己満足であっても、小説を書いていると、
「いずれは」
と思うのは、新しいものを自分で作っているという気持ちの表れではないだろうか。
それは小説に限らず、芸術的なことであれば、そのほとんどは、何もないところから新たなものを作りだすという意味での共通点は多いだろう。
絵画しても、造形にしても、新しいものを作ることに変わりない。その場合の共通点というのは、
「自分の個性が入り込んでこないと、作り上げることはできない」
ということであろう。
それでも、やはり、
「誰かに見てもらう」
というのは、自分が今どのあたりにいるのかが、まったく分からないよりも、ましなはずである。
前を向いていけばいいのか、それとも、少し避けてあるいた方がいいのか。そのあたりを考えてしまうと、他人の目や評価のないことが、急に足元が割れてしまって、、奈落の底に突き落とされるような恐怖に打ちひしがれそうで怖いのだった。
そんな時に、さっそうと出現したのが、
「本にしませんか?」
という謳い文句をひっさげた、新たなタイプの出版社だった。
彼らは、そんな不安な気持ちになっている素人作家の心を巧みに掴んでいた。
会社を運営している人たちは、きっと自分たちも作家として、不安な毎日を過ごしてきた人たちだろう。
不安を抱えながら、そのまま先に突き進む比十いれば、一歩立ち止まって、
「待てよ?」
と冷静になったことで、違う才能が目覚めたのかも知れない。
それが、金儲けという才能で、自分たちの経験を売り物にして、それを、商売道具にするのだから、罪悪感もないのかも知れない。
「自分が書いた作品を読んでもらえない」
つまりは、出版社へそのまま持ち込んでも、笑顔で受け取ってくれたとしても、作者が帰った瞬間、顔を歪めて、何もなかったかのように、原稿をゴミ箱に放り込む。ゴミ袋の中には、そんな持ち込み原稿が一日分だけでいっぱいになるかも知れない。それが、昭和の時代までだっただろう。
しかし、バブルが弾けたおかげで、趣味に走る人が増えた。しかも、お金のかからない趣味である。
小説などは前述のとおり、普通ならお金がかからない。だから、猫も杓子も書こうとして、にわか小説家が増えてくる。
さらに、有名出版社が主催する、
「文学新人賞」
なるものは、原稿を送っても、
「審査についての質問には一切お答えできません」
という回答が返ってくるだけだ。
つまりは、自分の作品が、一次審査、二次審査、最終審査のどこでダメだったかということくらいは分かるが、その中での順位や、何がダメだったのかなど、一切分からない。Sと少しの努力で最終審査まで残ることができるのか、それとも、箸にも棒にもかからないような小説なのか、まったく分からないのだ。
しかも原稿に対して批評も何もない。最終審査に残った作品だけが、批評してくれている賞があれば、マシな方ではないだろうか。
なぜなら、最終審査に行くまで、プロの作家、つまり、審査委員として、公表されているプロ作家が見るわけではない。そもそも、同じ作品を何度も見るくらいなら、審査は一度で十分のはずだ。
ちょっと考えれば分かるはずのことである。それを誰も分からなかったというのは、それだけ、皆の期待だけが大きかったというのと、出版社側のやり方が巧みだったといえるのではないだろうか。
その証拠に、原稿を送ってから、それについて、さすがに添削まではしてくれないが、批評はつけて返してくれる。どこがいいのか、悪いのか、その書き方も実に巧みであった。
いいところばかりを書いていれば、いかにも、作者の気持ちはいいだろう。しかし、それは人が見れば姑息にも見える。それだけに、まずは、悪いところを、いかにも腫れも二にでも触るかのように、言葉を選びながら批評し、
「しかし、欠点を補って余りある秀逸な作品」
と、一度落としておいて引き上げるのだから、うまい作戦である。
最初に長所から書いてしまうと、短所は単独で悪いことになる。しかし短所から先に書けば、
「長所は短所の裏返し」
という言葉を実践しているようで、この方がよほど、作者の胸を打つというものだ。
しかも、この書き方だと、いかにも信憑性があるように感じられ、作者のこれからの創作意欲をくすぐることにもなる。
そして、最後に、
「あなたの作品は秀逸であるが、出版社がすべてを請け負って出版するところまではいっていないので、協力出版の形を提案いたします」
とばかりに、巧みに協力出版としてお金を出させることに終始するのだ。
その手に引っかかった人は、相当の数がいるようで、月に数百冊という単位で出版する。そして、全国で出版部数だけで見れば、日本一の会社となって、それがまた宣伝となることで、原稿が送られてくる。
ここからが、出版社の自転車操業の始まりだった。
ただ、出版社もここまではよかった。
バブルが崩壊したおかげで、趣味に生きる人が増えて、自分の作品がお金になるかも知れないと思うと、作者は有頂天になる。
何といっても、最初にお金が少々かかっても、売れさえすれば、次からは出版社が出してくれる。作家も先生として、立ててくれて、本がどんどん売れる。
などという浅はかな夢を負わせるのだ。
しかし、ちょっと考えれば、これほどバカげたことはないだろう。
新人賞を取った作家であっても、次回作が書けずに、消えていく人が多い中、何の実績もない作家の本が売れるはずもなく、これだけ毎月、本が出るのであって、そのうちのどれだけの人が生き残っているかということも、考えれば分かるはずのことだ。
それを思いつかないほどに、小説というものを執筆できるようになるだけで、
「自分は一端の小説家だ」
と感じるようになるのだろう。
「上には上が」
ということが見えなくなってしまうと、相手の思うつぼであった。
しかし。出版社側も、バブルがどうして崩壊したのかということを、知らないわけでもなかろうに、それが自転車操業の恐ろしさであるはずだ。
「バブルという実態のないものを右から左に転がして、土地ころがしに代表されるようなやり方こそ、自転車操業ではないか」
と言えるのだ。
このような出版社での支出は、まずは宣伝費、本を出したいという人が集まらなければ、何も始まらない。
そして、次に必要なのは、人件費である。
何といっても、ちゃんと小説を読んで、しっかりとした批評をして、相手が納得するように仕向けないと、お金を出してまで本を出そうとは思わないからだ。
そして、その次に印刷代であったり、在庫を保管する倉庫の使用料が、結構なものではないだろうか。
なにしろ、一人の作家の本をロットとして、五百部から千部作るのだ。それを毎月、何百冊単位である。それが年間になると……。
作者にお金を出させるために、売れるはずのない本を作り、それを処分するわけにもいかないとなれば、在庫を抱え込むしかないだろう。
まさか、最初からそんなことも分かっていなかったとは思えないが、どこまで資産計画があったのかというのも、怪しいものである。
それを思えば、
「どこまでずさんなんだ」
と感じさせられる。
それだけ、いい加減だったといってもいいだろう。
せっかく、相手を引き付けることにかけては、かなり素晴らしい発想を持っていたのに、そのあとの詰めが甘いということであろう。逆に、引き付け方が完璧だっただけに、いよいよ自分たちの本性を現そうとした時、相手に見透かされてしまうということに気づかなかったのだろう。
そういう意味で、出版社側も、これまでの他の出版社に対する不満を理解はしていて、それを利用するところまでは、うまくいったのだろうが、同じ怒りが自分たちにも向けられるという意識を、一切持っていなかったのかも知れない。
一度心を引き付けてしまうと、その絆が強いとでも思ったのか、それとも、一度騙せたのだから、最後まで騙せるとでも思ったのか、詰めの甘さと、人間の心理の読み間違いが、彼らの敗因だったのだろう。
特にお金が絡むと、人間というのは用心深くもなるし、冷めてもくる。
本を出した最初の頃こそ、
「私は小説家の仲間入りをしたんだ」
と思い、できた本をそれこそ宝物のように、仏壇に供えたりしていたかも知れない。
しかし、これは、出版社や世間が認めてくれたという裏付けがあっての出版ではない。逆にいえば、相手におだてられたとはいえ、
「お金を出せば、たいていの本は出版できる」
というものだ。
その証拠に、
「最後まで完成していない作品であったり、アイデアだけの小説でも、わが社の編集者が一つの作品にするためのお手伝いをいたします」
というではないか。
あきらかに、
「何としてでも本にしたい」
という思いがあり、それを思うと、次第に胡散臭く感じられると、次第に熱が冷めて、冷静に考えられるようになると、そのうちに、
「騙されたのではないか?」
と、今さらのように考えてしまった。
出版社側が甘く見ていたというのは、そこにもあって、
「お金を出させて本を作ってしまったら、相手は、もうどうすることもできまい」
と思っていたのではないかとも思える。
確かに、強制して本を出版したわけではない。騙したわけではないということは、誓約書もあれば、本を発行したという事実がある以上、
「騙されて出版した」
とは言えないだろう。
当然、そういう理由で訴えることはできない。しかし、波紋は別のところから広がってきたのだ。
「有名書店に一定期間、置いてもらうように手配する」
という契約だったが、それがなされていないことを調査し、しかも、その事実を持って、同じ不満を抱えている連中と一緒に集団訴訟を起こしたのだ。
裁判で勝てる勝てないというのは、この際二の次であった。一人一人が単独で訴訟を起こしたくらいでは、そんなに目立つことはないが、集団粗酒が、あちこちでおこれば、世間、ましてやマスコミが黙ってはいない。
「最近、流行りの、新出版社系と言われる出版社が、集団訴訟を起こされる。原告曰く、自分の小説を一定期間、有名書店に置くという約束が守られていないという理由での集団訴訟である」
という記事であった。
その記事を読んだ本を出した連中が次第に騒ぎ出す。そのうちに社会問題になってくると、彼ら出版社の命綱であった、
「自転車操業」
が成り立たなくなってくる。
一番の原因は、信用問題だった。
作品を送ってくれた人に対して、批評をすることで信用させる。そこからすべてが始まるのに、批評がその効果を示さなくなってきたのだ。数か月先まで、本を出したいという人のスケジュールは詰まっていて、そのための資金はすべて払い込んでいる。それなのに、本を出そうとする人がいなくなると、そこから収入が得られなくなる。この時点で借金がさらに嵩み、完全に首が回らなくなる。
すでに似たような出版社が五、六社できていたのだが、一気に三社ほどが、倒産や破産宣告を起こした。信用と自転車操業が軸になっている会社の経営は一気に成り立たない。完全に自分の首を絞めることになったのだった。
ここまでくると 、出版社だけではなく、関連会社の連鎖倒産はもちろんのこと、この倒産によって、これから本を出そうとする人、実際に本を出した人は、さらにひどい目に遭っていた。
べ語紙立ち合いのもと、、民事再生、民事更生法などの法的手続きにおいて、出版社に対しての債権者は、その債権を放棄せざるおえなかったりして、これから本を出すはずの人は、
「本の発行は中止。しかも、払ったお金は返ってこない」
というありえない措置に至ったりした。
また、この出版社で本を、五百部、千部も作成した人たちの在庫はどうなるかが問題だった。
何と、弁護士団体からの申し出は、
「定価の八掛けで、引き取ってもらうか、あるいは、廃棄するかのどちらかだ」
ということになった。
しかし、元々は、半分は作者が出しての出版という建前だったわけで、(本当は、ほとんどが作者のお金かも知れないが)それを八掛けということは、
「定価千円の本を、八百円で引き取れ」
と言っているようなものだ。
これも悲惨以外の何物でもない。
最終的にどうなったのかまでは、なかなか世間での注目になることはなかったが、とにかく、悲惨であったことは間違いない。
ただ、この社会問題で一つ言えることは、
「作家になるなどという大それたことを、ずぶの素人が簡単に信じた」
ということが問題だったのだ。
ここまで簡単に、詐欺に引っかかるというのは、それこそ、被害者には気の毒であるが、
「身の程を知らない人たちの自業自得」
ともいえるのではないだろうか。
もちろん、一番悪いのは詐欺をした方だが、簡単に騙される方に、何ら責任がなかったのかというと、それも検証が必要だろう。
そうでなければ、これからも、類似の詐欺が起こらないとも限らない。これを教訓として、騙されないようにもするだろうが、騙そうとする方でも、検証をして、さらにいかに騙すことができるのかを探ってくるに違いない。
それこそ、
「キツネとタヌキの騙しあい」
であり、いたちごっこを繰り返すという意味で、
「籠の中に設けられた輪の上をすzと走り続ける、ハツカネズミを思わせる」
そんな光景が思い浮かぶのだった。
そんなこともあり、空前の、
「作家志望者の増加」
による、にわか作家の数が、どんどん減っていき、本当に趣味で書いているか、地道にプロを目指して頑張る人しか、小説を書かないという、
「正常な状態」
に戻ったといえるだろう。
小説家というものが、どれだけ難しいかということが分かった人も多いだろう。
新人賞に入賞したとしても、それは通過点でしかない。そこからどれだけの人がプロとして生き残れるかということも分かっていないと、ここでも勘違いしてしまい、人生を踏み外す人もいるだろう。
それでも、今度は詐欺に引っかかったわけではない。詐欺がなくても、悲惨なことには大いになる可能性があるのだ。それを思うと、
「芸術というものへの道は、段階があって、その段階だけで満足していてはいけないのではないか」
と言えるのではないだろうか。
そもそもはバブルが崩壊し、
「お金はないが、時間だけはある」
という人が増えたところから来たものだ。
「お金もないのに、よく出版しようと思ったものだ」
と後から考えればそう思うのだが、それこそ、人間の心理の恐ろしさ。
真剣に、
「これは先行投資だ」
とでも思ったのだろうか。
もし、そうであるとすれば、
「人間というのは、欲を前にすると、本当に自分に都合のいいようにしか考えられなくなるものなのかも知れないな」
と感じるのだった。
考えてみれば、これが根本にあることが、直接の原因だったのではないだろうか。この心理がなければ、事件は起こらなかった。確かに、詐欺グループは表面上のことだけにとらわれて、それを追いかけるがゆえに、このことを意識もせずにスルーしてきたおかげで、相手を騙すことができたのだし、騙される方も、騙されたことに気づかなかった。
だが、それだけたくさんの人がかかわったわけで、その中の誰も気づかないなど、その方が不自然ということではないだろうか。
ただ、この理屈に気づいたとしても、これをいかに利用するかということが分からない。だから、最終的には悲惨な結果になるしかないのだった。
そもそも、
「自分が作家になれるかも知れない」
という浅はかな考えの人が多かったことで、詐欺に付け込まれたのだ。
詐欺を行う方も、相手を、それもよりたくさんの人を騙せるという意識がなければできることではない。
いくら何でも、これが自転車操業であることを分かっていない人が経営のトップにいるなどありえない。曲がりなりにも数年は、うまく転がせていたのだからであろう。
しかし、この事業も、ある意味戦争と似ているのではないだろうか。
前述の、
「かの戦争」
についての話ではないが、
「撤収のタイミングが難しい」
と言えるのではないだろうか。
戦争も、こちらが圧倒的に弱い立場なのだから、いつ、
「最高の状態で和平に持ち込むか?」
というのが、最大の戦争遂行理由だったはずなのだが、序盤に勝ちすぎたために、欲が出てしまって、当初の目的を逸脱した政府や軍が、先行してしまったことが、敗戦、しかも、国の滅亡という悲惨な状況を作り出したのではないか。
そのあと、いくら復興ができたとしても、それは、理由が違うところにあったのだから、国が滅亡したことには変わりない。
「国破れて山河あり」
とは、まさにこのことである。
出版社の方も、本当であれば、ある程度設けたところで。うまく撤収すればよかったのだろう。
「戦争も結婚も、始めるよりも、辞める時の方が数倍大変だ」
ということであるなら、自転車操業も同じである。
いや、むしろ、結婚も戦争も、やめなければいけなくなるのは、自転車操業のようになってしまって、二進も三進も身動きが取れなくなることが原因だといえるのではないだろうか。
始めた時、果たして、どこまで計画性があったのだろうか?
考え方によっては、深く考えていなかったともいえる気がする。
つまり、
「相手の気持ちを引き付けて、宣伝によって、本を出したいと増えてきたにわか作家に、金を出させるところまでができれば、あとは何とかなる」
とでも思っていたのか、それとも、
「そこまで順調にいけば、その時にまた考えればいい」
という思いから、一刻も早く、他の会社がマネをする前にやってしまおうと思ったに違いない。
「先にやってしまうと、他の会社が追随してくることで、会社がうまく回っていくという状態を見定めることができる。つまりは、一歩下がってみることができる余裕ができるというもので、その間に、ゆっくり状況を見ることができて、撤退の時期を模索することもできるのではないか」
と感じることができるのだろう。
ただ、実際にここまでくると、それを考えることをしなかった。それは、かの戦争の時のように、
「儲かっているから、撤退の必要はない」
という勘違いをしたのか、それとも、撤退をするという計画自体を忘れてしまっていたのか、眼中にない状態だったのかも知れない。
というよりも、時代の断片を切り取ると、いろいろな場面の人がいる。これから本を出そうとする人、本を製作中の人、すでに本を出してしまった人、それぞれの立場の人がいるのに、断片だけを切り取って考えることがどれほど難しいかということを、分かっていなかったのではないだろうか。
そう思うと、きっとやめられないということに気づいたのかも知れない。
そして、その中で茂三が考えたのは、
「俺は不幸なのかも知れないが、この時の加害者や被害者ほど、自分は不幸ではない」
という思いであった。
「上を見ればきりがないが、下を見てもきりがない」
と言われるがまさしくその通りだろう。
だからこそ、不安に感じるのかも知れない。前を向いても、後ろを見ても、五里霧中で、そのうちに、どちらが前で、どちらが後ろなのか分からなくなる。それほど意識が悲惨な状態になると、惰性で生きることが楽なの丘、きついのかが分からず、本来であれば、何も考えずに身を任せることが楽なはずなのに、何も考えないことが億劫に感じられるようになると、今度は、楽天的に考えるしかないのではないかと思うようになるのだった。
とにかく、最悪になると、何を考えるかということを想像したことがあっただろうか?
茂三には、時々そんなことを考える時期というのがあったのだ。
自分で最悪だということを、本当に感じているのかどうかも分からない。たぶん、
「最悪だと考えた時には、その感情に流されるのが一番いいのではないか?」
と感じるだろうと思っていた。
何が楽だといって、それが一番楽であるし、一番最初に思いつくことだからである。
それ以外にも当然選択肢はあるのだが、その分、いっぱい迷うことだろう。人によっては、
「いっぱい考えて、悔いのない答えを導きだせばいいんだ」
という人がいるが、最悪だと思っている時に、いろいろ考えてしまったとしても、答えを一つにまとめることなどできるのであろうか?
何かを考えて、
「よし、これが結論だ」
と思ったとしても、
「待てよ。もっと考えれば、それ以上の答えが出るかも知れない」
と思うことだろう。
そうなると、負の連鎖を起こしてしまい、結果として、堂々巡りを繰り返してしまうに違いない。
「将棋で、一番隙のない布陣ってどういう布陣なのか分かるかい?」
と聞かれて、どう答えるかというと、
「最初に並べた形なんだ。一手打つごとにそこに隙が生まれる」
という話を思い出した。
ということは、
「下手な考え、休むに似たり」
と言われるがまさにその通り、直観で思ったことをするのが一番なのかも知れない。
なぜかというと、
「直感で動く方が、一番後悔しないと思うからだ」
という思いに至るからであって、結局迷った時に行きつく先は、
「自分が一番後悔しないところだ」
と言えるのではないだろうか。
それを思うと、最悪の場合を感じた時は、直観で動くということが一番なのだろう。
もし、それが間違っていたとしても、その時に死にさえしなければ、次回似たようなことがあっても、その時には別の選択をすればいいという答えを導き出すしかないのかも知れない。
まずは、
「最悪だ」
と思うかどうか、それが問題であって、きっと負の連鎖に陥る人は、最悪だとは思わないだろう。
なぜなら、最悪だと思ったとしても、まだ。
「それ以上最悪なことが待っているかも知れない」
という、堂々巡りを繰り返すに違いないからだ。
「堂々巡りは堂々巡りしか繰り返さない」
人生においての、思考の行きつく先は、そういうことなのだろう。
だったら、
「やはり直感が一番後悔しないことへの近道になるのではないか?」
ということになるのであろう。
そう思うと行きつく先は、やはり、
「最後には楽観的な考え方だ。それは一種の開き直りに違いない」
と思うのだった。
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