第5話 楽天的な感覚
小説が書けるようになった顛末を話した。そもそも、中学の時に書きたいと思っていたのだが、その時は中途半端にしか書けなかった。それはやはり、セリフのみの斜め読みが原因だったのだ。
そのせいと、高校受験の時期が近づいてきたので、次第に書くのをやめてしまった。
「高校生になったら、書き始めよう」
と思っていたが、高校入学してから、また書き始めようとは思わなかった。
入学したことで安心して、嬉しくなったからなのだろうが、それだけではなく、高校生になったことで頭がリセットされたのが原因であろう。
高校に入ってからは、部活にいそしもうとは思わなかった。入学してすぐにはそこまでは思っていなかったが、一年生の途中から、
「大学に進みたい」
と考えるようになって、考えが変わっていった。
その頃は、受験戦争と呼ばれる前の時代で、自分から十歳以上若い連中は、中学受験なども盛んになっていき、
「教育ママ」
などという言葉が流行った頃があった。
その頃は、まだ大学への進学率は低かったのかも知れないが、進学校というのは存在していて、高校一年の時の先生が、大学時代の勉強の話をしてくれたので、そのおかげで、茂三は大学に対して徐々に興味を示し始めた。
「法律の勉強がしてみたいな」
と漠然と考えていた。
別に、弁護士や裁判官になりたいという思いがあったわけではない。勉強するなら、法律の勉強がしたいと思っただけだった。
少し、文学部に進んでみたいとも思ったが、小説の書き方を中心に教えてくれるところはなかなかないということだった。
「小説の書き方は、習うよりも、実践ですよ。皆一通り同じことしか言わないので、実際に深いところを教えてくれるわけではないからですね」
と、いうのが先生の話だった。
「それなら、サークルに入って、活動する方がいいかも知れないですね」
というと、
「文芸サークルも大学によっては、豊富にあるだろうから、そちらの方がいいかも知れないね」
と言われ、とにかく大学受験に邁進する高校時代になっていた。
現役で入学できたのは、自分の努力よりも、運がよかったのかも知れないと思うほど、まさか、現役で入学できるとは思わなかった。だからと言って、高校入学の時ほど、自惚れるようなことはなかった。
入学してから、すぐに文芸サークルを探した。そこは、機関誌を発刊することが主な活動内容で、それが、自分の趣旨にマッチしたことで、入部は即決だった。
入学して、数日での入部だったので、その年、五人が新入生として入部したのだが、一番最初に入部したことで、部の中で、発言力が強かった気がした。
ただ、自分の小説がそれほどいい作品だという意識を持っていなかったので、少し違和感があった。
それでも、大学に入ると本を読んだりしても、しっかりとセリフ以外も見れるようになり、そのおかげで、小説を書くことに苦労を感じなくなった。
読んだ本を何度も読み返すこともあり、おかげで、小説が自分なりのオリジナルで書けるようになったのは、そのおかげではないかと思うようになったのだ。
小説を書いていて、やはり頭の中に描く内容としては、戦前戦後の探偵小説が基本になっていた。
ただ、時代背景としては、戦後の探偵小説から比べれば、少し変わってきていた。
本格探偵小説も、変格探偵小説も、その境目がなくなってきたのか、その中間に位置する感覚なのか、社会派小説が生まれてきた。
また、それまでの探偵小説に、SFやホラーなどと結びついて、新しいジャンルになってきていたのだ。
ホラーというよりも、オカルトのような、そう、
「奇妙な味」
と呼ばれる小説で、その言葉を日本で初めて提起したのが、江戸川乱歩だという。
「奇妙な味」
というジャンルは、あまり浸透していないかも知れないが、
「世にも奇妙な……」
という物語で、昭和の終わり頃からオムニバス形式でドラマ化されているものが多く、話としては、短編や、ショートショートの話が多い。
文字数が少なければ少ないほど、文章作法が難しいといわれているが、確かにそうである。だが、実際には小説を書いていて、文字の体裁などをいちいち気にしていることはない。どちらかというと、思ったことをそのまま書いてしまう方なのが大きく影響しているのだろう。
「余計なことを考えると、文章が続かない」
という意識があった。
書いているうちに、先々を考えることで、文章が繋がっていく。この感覚が小説を書くということだと思っているのだ。
実際に後から読み直してみると、ちゃんと文章が繋がっていたりする。書いている時は、文章が支離滅裂ではないかと思っているのにである。
茂三には、自分が、
「文章作法の師匠だ」
と思っている人がいた。
その人の作品が、「奇妙な味」と呼ばれる作品を書いている人で、その作品のほとんどが、文庫本で三十ページくらいの短編で、それが十作品ほどおさめられて、一冊の文庫本となって販売されている。
しかも、複数の出版社から、それぞれ違う作品集が発表されているので、本にすれば、五十冊以上になる。一冊十作品だと考えると、その人の発表された作品だけで、ゆうに、五百作品は超えるということになるだろう。
発表されていない作品も含めると、生涯作品がどれくらいなのか、興味深いところであった。
「一体、一日にどれくらいの時間を執筆に使っているのだろう?」
ということに興味があり、
「頭の中の構造を見てみたい」
と、思わず声に出して言ってしまいそうになっていた。
その人の作品は、あたかも、
「大人の作品」
であり、少し卑猥な表現も含まれているのだが、
「この人の作品では、それほど嫌らしいという雰囲気はない」
と思わせ、そこに大人の文章を思わせるだけの力量を感じるのだった。
「俺もこんな文章が書けるようになれればいいのに」
と思いながら、奇妙な味のような作品を作りたかった。
途中は曖昧で、話が前後になったりしながらも、最後の数行で、それまで謎だと思っていたことが解明されることで、大どんでん返しを見せられるという、そんな作品を感じたかった。
短編を書いているのは、
「中編以上の長い話が書けないからだ」
と思っていた。
起承転結というものがうまく描けず、文章や舞台のバランスもとれていないことで、
「小説をうまく締めくくれない理由がよく分からない」
と思っていたが、その理由が、
「プロットを書けないことだ」
ということだと、思ってもみなかった。
プロットというのは、小説の設計図のようなもので、企画書と言ってもいいものなのかも知れない。ただ、企画書としてのものは、プロになれば、プロットよりも前に用意しなければならないものとなるだろう。
ジャンルであったり、書き方の目線が、一人超なのか、三人称なのかであったり、登場人物の設定や、起承転結の流れなど、普通であれば、最初に決めておかないといけない部分だといえるだろう。
ただ、これは、プロとして、出版社から作品の執筆を請け負った時に、出版社に対して最初に示すものが企画ということになる。
これが、出版会議で認められれば、やっと、そこからプロットを作ることができる。企画書から、この度は設計書に落とし込むもので、設計書ができれば、その通りに書いていけばいいのだろうが、プロットの書き方は、作家によって、それぞれ違っている。
ある程度の骨格程度に書いている人もいれば、起承転結ごとに書いて。それを章単位に落とし、さらに、場面単位に落とすことで、より具体的な設計書にしてしまう人もいるだろう。
ただ、そこまで落とし込むと、実際に文章にした場合に、流れに乗れないことも往々にしてあるのではないか。
それを思うと、最初からがっつりと設計書を作っておかない方が、執筆がしやすいということもあるのではないかと思うようにもなった。
実際にがっつりとプロットを書いてから小説に臨むと、小説を書き始めた時に感じた。
「自分には、小説なんて書けない」
と思っていた頃の感覚が思い出されるのだ。
つまり、小説が書けるようになったのは、小説を、頭で考えることなく、想像や妄想の中で続けられるという思いからきているということである。下手に考えてばかりいると、
「自分にはできないんだ」
という思いが、過去の記憶としてよみがえってきて、夢の中で、かつて感じたという思いに結びついてくる気がしてくるのだった。
確かに、小説の書き方なるハウツー本を見ていると、
「プロットというのは、書き方は自由であり、実際に書かなければいけないものだということではない。だから自由なのだが、あると、途中で迷うことなく進めることができる」
と書かれていた。
実際にプロットを作って書いてみたのだが、書いているうちに、最初のプロットから、徐々に話の筋がずれていき、気が付けばまったく違った内容になっていることもあるが、それはそれで、
「最初にプロットを作っていたので、筋が離れていくにも関わらず、迷うことがないのだ」
と思うのだった。
つまり、
「筋が離れていくことと、迷うということは、決して同一の意味ではない」
ということになるのだろう。
小説を書いていて、プロットが気になりだして、先に進めないとか、考えながら書いてしまうので、なかなか書き終えることができないなどの問題が生じてくれば、それはそれで、本末転倒な気がしてくる。
自分が書いた小説で、実際に、どこまでプロットに忠実に描いたのかということも分からない時がある。
実際に小説を書いている時は、無意識だったりすることがある。流れに沿って書いているので、三つくらい先の文章まで考えて進んでいると、
「気が付けば書き終えていた」
というくらいになって。後で読み返しても、プロットとは少し違ったラストになっていたとしても、プロットを考えた時の思い出がよみがえってくるようで、その思いから、
「きっとうまく書けたと感じているに違いない」
という思いが浮かんでくるのであった。
プロットを書いている時も、小説を書いている時も、無意識に描いている時がある。その時に頭に描いている感情が同じであり、小説を書いている時に、
「プロットを書いたのは、たった今だったような気がする」
というくらいに、官需が同調している時ほど、素晴らしいと思える文章が書けるのではないかと感じたのだ。
自分がどんな小説を書けるのか、自信がないと思うのは、初心者であればよくあることだ。
初心者といっても、小説を最後まで書くことができずに喘いでいる時と、一度でも最後まで書くことができたという自信を抱いている時とで、かなりの違いがある。
小説であっても、他のことであっても、何かができるようになるまでには、誰もが超えなければならない段階のようなものがあり、それを自分で自覚できるかできないかということが大きな意味を持ってくるのではないかと、茂三は感じていた。
小説というものを、
「特殊な文章」
として感じるのは、きっと、文章が長いというところにあるのだろう。
作文のように、原稿用紙数枚であれば、時系列に沿って書いたことに対し、最後に感想を書けばいいだけであろうが、これが小説となると、作文の体裁とはいなかくなってしまう。
起承転結が必要であったり、会話文も必要であったり、場面を読者に想像させることができるくらいの表現力が必要になってくる。作文ではいつも百点を取っていたような人が、小説を書いたとして、プロのような作品が書けるのかというと、それは無理である。作文には作文の、小説には小説の体裁というものがあるからである。
茂三が師匠と仰ぐ作家の小説は、流れるような文章が特徴で、読み始めると、短編ということもあり、あっという間に読めてしまう。
しかも、四十ページの小説を、実際には一時間くらいで読んでいるのに、意識としては、まるで十分くらいで読破したような感覚だった。
しかも、その時間の差というものに違和感があるわけではない。十分しか読んでいないという感覚を、最初から想像していた通りに思えるのは、
「作家の作風にまんまと乗せられたかのような気がする」
というほど、鮮やかな作風に、思わず脱帽してしまうのを感じた。
「俺もあんな小説が書ければな」
と思いながら、まずは、短編から書けるようになろうと思うのだった。
四十ページといっても、起承転結は必要で、最後の数行に対して、
「いかに、伏線を敷けるか?」
ということが大切で、一度敷いた伏線を、最後の就業で、
「どのように、伏線回収ができるか?」
と考えさせられてしまうのだろう。
これが、ショートショートであっても、長編であっても、同じことを思いさえすれば、「自分には書けないに違いない」
と思っている長編でも、書けるのではないかと思うのだった。
枝葉になる部分ばかりを居趙すると、途中の中だるみを生んでしまうというのが頭にあり、最後まで書き続けることができなくなると思うことが、
「自分には長編は書けないんだ」
と感じてしまうに違いないと思わせた。
特に書いている時というのは、自然と無意識になって書けるようにならなければ、文章は続かないと思っている。だから、無意識になるということは、
「覚えていることを忘れていっている」
と考えることもできるのかも知れない。
覚えていることというのは、
「理屈まで記憶しえいる」
ということであり、
「何について、そう感じた」
という過程があっての結論だということを考えていなければ、本当に覚えているということにはならないのだと思うのだった。
小説を最後まで、曲がりなりにも書いた時は、自分でも感動したものだ
内容としては、決して自慢できるものではなかったが、
「書き上げることに意義がある」
という意識と、
「書き上げることができるということが、いかに小説をこれから書き続けられるかどうかの登竜門のような気がする」
という意識に繋がっていくことが大切な気がした。
茂三が尊敬するその作家は、
「文章講座」
なる講義も受け持っている教授でもあった。
雑誌が企画する、投稿小説への添削なども公開で行っていて、雑誌にその投稿小説と、添削が書かれている。
「なるほど」
と思うような内容の添削が書かれていたが、それは、あくまでも文章の体裁に対してであって。その作品に対しての批評ではない。
少し突き詰めて書かれてはいるが、内容に関して何か書かれているわけでもなく、さらにどのように書けばいいのかということも書かれてはいるが、あくまでも、その作家の個人的な意見でしかないと思うと、
「いかに、文章講座という講義が、お金を払ってまで受ける必要があるのだろう?」
と思えてきたのだ。
それらのことは、ハウツー本にも書かれていることだ。それを読むだけでいいのではないか?
そんな風に考えていると、
「尊敬する作家の本を読むのはいいが、モノマネには決してならないようにしないといけない」
と思うようになった。
「ここでのマネというのは、モノマネではなく、サルマネではないか?」
と思うからだった。
学生時代に小説を書いたといっても、十作品くらい書いたくらいだろうか。機関誌に載せるための作品を、機関誌発行の少し前になってやっと書き始めて、何とか締め切りに間に合うという程度のものであった。
元々、小学生の頃の宿題にしても、テスト前の勉強にしても、ギリギリにならないとやらない方だった。
「切羽詰まらないと、何事もやる気が起きないんだ」
という性格だったのだ。
「こんな性格で、よく大学に現役で合格できたものだ」
と自分でも感じたものだが、世の中には、切羽詰まらないと、実力を発揮することができないという人がいるとは聞いていたが、まさか自分がそうだったのかということに気づいたのは、やはり、大学に合格できた時だったのだ。
大学四年間、文芸サークルに所属しながら、作った作品が、短編の十作品そこそこというのは、実に少ないといえるのではないか。
一応、作品を文庫本にすれば、ちょっと厚めの本くらいにはなると思われるが、四年間の成果としては、あまりにも寂しいように思えてならない。
確かに、他の人も、似たようなものだったが、少なくとも、大学に入ってから、勉強がおろそかになり、サークル活動くらいしか、成果らしきものがないと考えれば、作品数からすれば、寂しいだろう。
だが、元々、大学に入ってから、何を目指そうなどということを最初から思っていなかっただけに、ズルズルと過ごした四年間であることを、証明しているようで、寂しいというよりも、情けなく思うほどだった。
だから、就職した会社も、大卒のバリバリの学生としては、鳴かず飛ばずといってところか、就職活動も真剣にしていたわけではないので、就職先があっただけでもよかったというべきなのだろうが、会社側も一応、大卒ということで、人事部への配属を決めたようだ。
総務部や人事部は大卒が多く、そういう意味では、人事部の新人としては、先輩たちから比べれば、少し落ちると思われていたようだ。
大学時代の成績は本当に平凡で、そこまで真面目な学生ではなかったということを成績が証明していたのだが、就職できたのは、文芸サークルにいたということが、決めてになったようだ。
入社すぐに回されたのは、社報を編集している部署だった。ちょうど前の年まで社報を編集していた人が、支店の営業に回されたことで、人が足らなくなった。それで茂三が抜擢されたのだが、茂三は最初、
「自分が編集の方に回されたので、先輩が押し出される格好で、支店に飛ばされたのではないか?」
と思っていたが、内情は違ったゆだ。
その先輩に対して罪悪感を持つこともなければ、
「人事部にいるからといって、あとから入社してきた人に押し出されることはないなどということはない」
という心配をしていたが、それは取り越し苦労だということだ。
ただ、会社員である以上、いつ何時、内示が出るかも知れないという覚悟だけはしておかなければいけないということであろう。
幸か不幸か、それから定年になるまで、人事部から外されることはなかった。ただ、そのせいで、出世という道とはまったくの無縁であったのだが、退職してみれば、それがよかったのか悪かったのか、自分では分からない。
「下手に営業などに回されると、やっていける自信は皆無だったので、きっと、何かをしでかして、辞めなければいけなくなるか、自分から辞表を提出することになるのではないか」
と思えて仕方がなかった。
だからと言って、順風満帆だったというわけでもない。
バブル崩壊のあとの、人員整理のため、責任を会社から押し付けられることになり、そのための罪悪感に苛まれなければならなかったことで、一時期、精神的に病んでしまい、一か月くらいの入院を余儀なくされてしまった。
一種の労災ものなのだろうが、人事でリストラを任されたことで、精神的に病んだとしても、まわりの人たちは同情してくれるわけもない。
「そんなのは、自業自得だ」
と言われても仕方がなかった。
「会社の犠牲になっているわけなので、リストラされる人と何が違うというのか?」
とも考えたが、ここで怒りを面に出せば、却って悪くなるということで、気持ちを抑えるしかなかったのだ。
会社に入ってから、二十代から三十代前半は、
「お気楽モード」
になっていた。
そうでもしないと、
「明日は我が身」
で、人に対してリストラ勧告してうることで、いつ自分の身に降りかかってくるか分からないとビクビクしながら、仕事をしていた。
基本的に、営業に回されたり、支店に転勤させられるのも嫌だった。
営業にしても、支店にしても、見ている限り、社員一人一人を大切に考えているという雰囲気はない。あくまでも、社員を、道具としてしか見ていないのだ。
だから、回されたら最後、どんな営業先を押し付けられるか分かったものではない。会社の中でも鬼門と呼ばれるようなところを、新入社員に押し付けて、成績が出なければ、容赦なく社員をクビにするようなところが営業にはあった。
もし、管理部あたりから、
「そんな大変な先を、新人にやらせるなんて、どういうことだ?」
と言われたとしても、
「営業には営業のやり方があるんだ。部外者は黙っていてもらおう」
ということになるだろう。
もちろん、令和の今であれば、
「パワハラ」
などと言われ、コンプライアンス違反に引っかかることだろうが、まだ平成に入ったくらいの頃はそんな言葉もなかった頃だ。
管理部長の方も、営業と謂われなき闘争を繰り広げることはしたくないので、敢えて何も言おうとしないのかも知れない。
営業もそのことを分かっているので、やりたい放題だったことだろう。
いつの時代もわりに合わないのは、新人社員だということである。
だが、管理部にいる以上は、それほどのことはない。いつどうなるか分からないからと言って、ずっとビクビクしているのも大変である。
どうせなら、気楽に過ごせるのであれば、それに越したことはないだろう。
そう思って、会社では、気楽に過ごすようにしていた。
それでも、ストレスはたまるもので、そのストレス解消に、また小説を書いてみようと思ったとしても、それは無理もないことだ。
そして、もう一つ考えたのは、
「人生、いつどうなるか分からない。不敗神話のあった、銀行が倒産する時代だ。それなら、別に会社に忠義を示す必要なんかない。金をもらうのは、仕事の代価であって、必死に会社のためを思って仕事をしても、適当にやったとしても、どうせ、上司も自分のことしか考えていないのだから、結果しか見ていないんだ。どちらにしたって、結果はそんなに変わりがないのであれば、別に神経をすり減らしてまで仕事をする必要はない」
と思ったのだ。
さらに、
「どうせ、仕事のせいで神経を病んでしまったとしても、会社が保証なんかしてくれやしないんだ。俺一人が頑張ったって、会社が潰れる時は潰れるんだ。そもそも、俺一人の努力だけで、どっちにでも転ぶ要素のある会社だったら、最初から潰れたようなものではないか」
と思っていた。
そんなことを考えていると、
「せっかくの人生、いつ何が起こるか分からないということで、今のうちに、自分が生きた証になるものを自分が納得するために、残しておきたい」
と思った。
それは、自分のものが売れたとかそういうことではなく、
「自分の残したいものを残す」
という意味で、考えたのが、
「小説を書いて本を出したい」
ということだった。
幸いにも、原稿を送れば、見積もりをしてくれる出版社があるようなので、そこに原稿を送ってみることにした。
最初から、
「怪しい」
とは思っていた。
だから、怪しさを感じながら、恐る恐る扉を叩いたような気持ちだったのだ。
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