第4話 昭和レトロな喫茶店

 そのため、うまい具合にランチタイムにたまに行っている喫茶店を思い出したというのは、実にタイミングがよかった。

 思った通り、夕方の時間は、客がほとんどおらず、奥に一組のカップルがいるくらいだった。

 店は、十人くらい座れるカウンターに、テーブル席が三つという、スナックとしても、ちょうどいい間取りになっていた。

 時間帯としては、ランチタイムから夕方くらいまでのアルバイトと、夕方から、ラストまでのアルバイトのアルバイト二交代制になっているようだった。

 その時にはちょうどランチタイムの女の子が帰った後で、後半の女の子が入っていた。

 どうやら、アルバイトは三人制のようで、それぞれが、早番、遅番、休みとシフトを組んでいるようだ。

 だから、ランチタイムにいつも来ている人は、夕方誰が入っていたとしても、その娘を知っているということになる。

 アルバイトは、二人が大学生で、一人が主婦であった。

 主婦といっても、まだ二十代なので、大学生といってもいいくらいだ。

「主婦には見えないよ。大学生でも通用するよ」

 というと、

「あら、いやだあ」

 と言って、あからさまに喜んでいた。

 そんな彼女を見ていて楽しく、朗らかな感じを漂わせているのが、うれしかった。最初に来た夕方のアルバイトは、その主婦の女の子だった。

 茂三はお世辞ではあったが、まんざらお世辞だけではないつもりで話したので、彼女のその反応は心地よかったのだった。

 結構、彼女と話をしたのだが、普段はランチタイムということで、数十分程度であったが、その日は、閉店の九時までいたので四時間もいたことになるのだが、時間を感じさせなかったことが、この店の常連になりたいと思わせるには十分だった。

 それから、ほとんど毎日仕事が終わってから、立ち寄るようになった。

 当然、夕飯もこの店で食べる。茂三のお気に入りは、ピラフだった。

 何といっても、比べるのがファイレスの料理だったので、それだけでも失礼に当たるのだろうが、同じメニューを続けるとすぐに飽きてしまうタイプの茂三が、この店では一か月続けても、まったく飽きる気配がないほどの味だったことで、本当においしいに違いなかった。

 それは、誰が作っても同じで、それほどファミレスがひどかったということなのかと思うと、ファミレスに行っていた頃のことを思い出して、相当腹が立ったのであった。

「ファミレスなんて、待ち合わせで指定でもされない限り、行くことはないような気がするな」

 と感じたほどだった。

 そのお店は、

「喫茶ロマノフ」

 と言った。

 命名の理由は、店主が単純にロシアという国が好きだということで、この名前を思いついたのだという。

 その店長といのは、電力会社に勤めていたというのだが、定年退職後は、

「喫茶店をやりたい」

 という希望があったようで、その希望を奥さんも一緒にかなえたいということで、夫婦一緒に店を経営しているということだった。

 奥さんというのも、かなり気さくな人なので、喫茶店の経営には向いているように思えた。店を始めてから、五年ほどだというが、商店街が近いこともあって、常連さんが多かった。特にランチタイム前の十時前くらいに、店を開ける前の店長さん連中が朝食を食べにやってくるのだという。茂三も何度か朝のその時間に立ち寄ったことがあったが、なるほど、数人の期の知れた連中が店で、各々の朝の時間を過ごしていたようだった。その頃にはすっかり常連になった茂三は、平日に休みのある日などは、朝食をこの店で済ませて、街に繰り出すようにしていたが、そのうちに、ずっとこの店にいることが多くなった。とはいっても、昼のランチタイムはかき入れ時なので、その時は商店街をぶらぶらしたり、軽くパチンコ屋に行ってみたりしていた。

 当時のパチンコは今のような台と違って、

「権利台」

 というのが流行っていた。

 一度大当たりすると、今でいう確変状態に突入し、必ず、あと二回は当たるというのだ。いわゆる、

「三回権利台」

 というやつで、ドル箱三箱が、確定している状態だった。

 今の台と違うのは、三回権利を出し切れば、

「予定終了」

 ということになり、必ず、換金しなければならない。

 玉を持って他の台に移動することは許されず、一度交換してからでないと、プレイヤーも第二戻ることはできない。その台はしばらくの間、予定終了台ということで店員が何かを解除しないと打てないような仕掛けになっているようだ。

 ひょっとすると、今のスロットでいう、設定のようなものを解除する作業をしていたのかも知れないが、何も知らなかった茂三は、一回でも大当たりしてしまうと大満足で、その日は気分的にウハウハだったのだ。

 一回大当たりすれば、一万五千円くらいにはなっただろうから、今の台で一万五千円勝とうと思うと、かなりの時間、うまく立ち回らないと、うまくはいかないだろう。当時は駅前の商店街がまだまだにぎわっていた頃だったので、パチンコ屋も軒を連ねていた時期だった。

 今のように、チェーン店が多いわけではなく、昔からの種店街や地元の人に馴染んだ店が多く、よくも悪くも、

「地元を支えていた産業の一つだ」

 と言ってもいいだろう。

 店の前には、花輪が飾られていたり、パチンコ屋のBGMが、

「軍艦マーチ」

 だったりした時代だ。

 今から思えば、

「○○番台、予定終了でございます」

 などというアナウンスがあったり、軍艦マーチが流れている間、

「ジャンジャンバリバリ、お出しください」

 と店員がマイクで、客を扇動していた時代だった。

 お金の投入も、札しか入らない今と違って、導入されてすぐの五百円玉や百円玉という硬貨を入れられるところもあったりした。権利が発生してから、実際にアタッカーを開くには、入賞させなければならないので、球を買いに行くのに、お札を入れなければならないなどという問題をなくすためのものだった。出てきた球も、昔は隣の人と共有だったので、手で受けて自分の台に持っていくというような手間もかかった時代だった。だが、それを懐かしいと思っている人もいるだろう。

 実際に、茂三も当時のパチンコが懐かしいと思っている。もう、ここ十年くらいパチンコ屋から遠ざかっているが、

「最近のパチンコもスロットも面白くないな」

 と思っているのだった。

 そんな時代は、まだ駅前の商店街も賑やかだった。アーケードの中で、惣菜屋や八百屋などは、通路にまで出店を張り出し、営業している。その光景がいかにも、朝市を思わせ、新鮮さを感じさせた。夕方などでも、コロッケのいい匂いがすれば、思わず買って、近くの公園で食べていこうなどと思うこともあったくらいだ。

 商店街にいるだけで、一通りのものは何でも揃う。食料品はもちろん、電化製品、服飾関係、銀行はもちろんのこと、ゲームセンターから、小さいが映画館まであった時代である。

 それ以降は、郊外型のショッピングセンターが主流になったことで、車を持っている人は、週末などに、ショッピングセンターに出かけては、一日を過ごすという人が増えてきた。

 それだけ郊外に生活拠点が移ってきたともいえることで、都心部へのベッドタウンになるところに、商業施設を集中させるということは、大手スーパーの考えるところであった。

 テナントなどの店も充実している。テナントに入る店からすれば、単独で土地を借りるよりも。テナントとして入っておく方が、撤退する時も撤退しやすいというのもあるだろう。

 大型家電製品の店であったり、お酒などのディスカウントの店などが、結構多く入っていた。

 客からすれば、大型スーパーだけでなく、大型の専門店に車を移動させずに行けて、さらにゲームセンターなども入っているので、ゲームボウリングなどの遊戯もできるようになった。

 大人と子供、大人でも旦那と女房で、活動パターンが違うと、同じ敷地内で遊ぶのだから、ある意味安全ともいえるだろう。

「まるで昔の百貨店のようなイメージだな」

 と、昭和に子供時代を過ごした人には、

「日曜日になると、お父さんが家族を百貨店に連れていってくれる」

 というイメージが強かったことだろう。

 だから、都心に人が集まってくるのであって、百貨店の前の道などには、

「歩行者天国」

 なる道ができたりして、交通規制も、客に合わせて行われるようになっていた。

 そんな時代を懐かしいと思いながら、

「駅前の商店街も、閉まってしまう店が多くなってきたな」

 と感じるようになってきた。

 この間まで電気屋さんだったところが、いつの間にか、百均の店に代わっているなどというのも、ざらにあったことだった。

 ブームというのはすごいもので、昔、プラモデルが流行った頃は、模型屋さんなどが多かったのに、プラモデルがすたれてくると、ほとんど模型屋さんを見なくなってしまった。

 レコード屋さんに代わっているというのも経験したりしたが、こんなにもブームが去ると、店がなくなっていくのかとビックリさせられた。

 それでも、模型などは、そのあと、郊外型のショッピングセンター内に、おもちゃ屋さんのディスカウントのような店ができるようになって、プラモデルなどを売っていたりする。

 戦闘機や軍艦などの兵器や乗り物、城やお茶屋さんなどと言った建物系などは、相変わらず人気で、一つのコーナーを形成しているのを見ることができるのは嬉しいことだった。

 とはいえ、駅前の商店街が時代の流れとともに、すたれていくのは寂しかった。

喫茶「ロマノフ」のあった商店街も、何とか持ち直そうとして、あれやこれやと誘致を考えていたが、その方法として、

「影の歓楽街」

 を目指したようだった。

 風俗のお店が所せましと並んでいて、商店街の主要なところには、

「無料案内所」

 が設けられている。

 茂三の住んでいる県では、条例でいろいろ決められている。

「県庁所在地の一部の区では、風俗関係の店は営業してはいけない」

 あるいは、

「ソープランドは、一つの歓楽街の。一丁目、二丁目以外で営業してはいけない」

 などという決まりが厳しいところであった。

 他の自治体を知らないので、他も厳しいのかどうか分からないが、逆にいえば、それだけ、風俗が多いところだといえるのかも知れない。

 そんな街も。二十年近く、

「風俗の街」

 ということで、それまで、

「なんでも揃う商店街」

 という昭和時代の賑わいを、時代の流れとともに担ってきたものが、その時代の流れで本来なら、落ちぶれていきそうなところを、何とか華麗に街並みをシフトし、さびれていくところを逃れたのだった。

 だが、平成二十年近くになって、今度は新たな問題が発生してきた。

「県が、国内おオリンピック招致に乗り出した」

 というのだ。

 元々、県の風俗の中心は、この街ではなく、県庁所在地のほぼ中心にあった歓楽街であったが、当然のごとくそちらがまず、規制の対象になった。

 それにしても、まだ、候補に立候補したというだけで、実際に、国の代表に決まったというわけではない。それなのに、候補にふさわしい街になる必要があるということで、どんどん規制を厳しくしていった。

 そのせいもあり、いろいろな風俗がある中で、そのうちの一つの言葉を使っての営業ができなくなったのか、業種の名前を変えて営業をするようになった。

 つまり、この業種だけ、他の県と呼び名が違っているのだ。

 県の中心歓楽街も大変であっただろうが、それ以外も、例えば、喫茶「ロマノフ」の近くに存在していた風俗街は、軒並み潰れて行ったり、店を畳んで撤退していったりしたのだ。

 それまで、大小、百以上の店舗があったのが、今では十もないくらいになったであろうか。このあたりに以前から存在していた店が残ったくらいであった。

 しかも、その県は、国内オリンピック招致の戦いに、結果敗れてしまった。この街は完全に、

「犬死」

 と言ってもいいのではないだろうか。

 あれから十年近くが経ったが、結果として、もう以前のような賑わいは一切感じられない。

 昭和から平成に代わる時、郊外型のショッピングセンターに押されて、街が荒廃していたとすれば、こんな感じだったのだろう。二十年という時を超え、訪れた荒廃は、このような理不尽なことによるものだったということを思えば、これほど情けないものもないといえるのではないだろうか。

 ただ、これも、他の商店街がかつて味わったこと、町内会や、商店会の人たちがどのように受け入れたのか、その気持ちを推し量ることはできない。

 客は、自然と他に流れてしまい、今では商店街の七割近くはシャッターを下ろしたままで、半分ゴーストタウンと化しているようだった。

 しかも、夜が賑やかだった街なので、夜は、本当にゴーストタウンだ。そんな街に今さら、マンションなどをたくさん建てるというのも、時代に逆行するのか、立ち退いた店舗を更地にしたところは、ほとんどが、買い手がなかったり、駐車場として利用されるくらいだったが、駐車場になっても、駐車に利用する人もいないだろう。

 駅が近いということから、バスでここまで来て電車に乗り換えていた人の中には、車で駅前に駐車して乗り換える人もいるだろうから、そういう意味での、

「月極駐車場」

 として利用する人はいたのではないだろうか。

 その頃には、すでに喫茶「ロマノフ」はなくなっていて、茂三の会社も、その土地から移転してしまったので、その土地に来ることもなくなっていたのだった。

 茂三が、喫茶「ロマノフ」立ち寄っていたのは、店が潰れるまでの十年くらいであったが、茂三の会社がその土地を撤退したのが、店が潰れる三年前くらいだった。だから、仕事が終わってから立ち寄っていたのは、七年くらいであろうか。その期間を長いと思うか短いと思うのかということを考えてみると、考えたその時々によって、感じ方が違っていたのだった。

 会社が撤退してからというもの、この街には休みの日にしかこれなくなった。しかし、休みの日には必ず来るようになり、その頃には、会社も完全週休二日制となっていて、最初は、休みは土日だった。

 だが、完全週休二日になって少ししてから、会社の体制が、

「四週八休」

 という体制に変わった。

 これは、祝日を休みと考えず、基本的に、日曜日は休みであり、もう一日を、土曜日に限らず、仕事の都合で自分で決めることができるというものであった。

 最初は、

「祝日が他の会社のように休みでないということになると、少し損した感じだよな」

 と思っていたが、

「平日に一日休みがもらえるのであれば、それはそれでいいことだ」

 と次第に考えるようになった。

 どこの会社も、土日が休みなので、街に繰り出せば、人が多いところに出ていくことになる。個人的に、

「「人ごみの中に入るのは嫌だ」

 と思っていた茂三にはありがたかったのだ。

 学生の頃までは、人が多いと、訳もなくワクワクしていたものだが、社会人になってからは、どうも、人込みは嫌になった。それだけ、億劫だと感じることに対して、身体が反応するようになったのではないかと思うのだった。

 同じ部署の中には、それでも、

「休みは土日がいい」

 という人が結構いた。

 そういう意味では、お互いの利害が一致したということで平日に休みが取れるのはありがたい。仕事も、一日くらい休みがずれたとしても、大して影響のないものだけに、かえって、まとまって土曜日、皆が休みでないのは、会社としてよかったことだろう。

 しかお、土曜日は他の部署も、当番が数人出ているだけで、ある意味、

「留守番」

 という雰囲気になっていた。

 だから、仕事とはいえ、会社に出てきての、気分的には、

「休日出勤」

 かなり気は楽だった。

 そういう意味では、

「まるで、週休三日のような気がする」

 と思っていたが、敢えて、それをまわりに吹聴するようなことはしなかった。

 わざわざ自分の好きなやり方を、まわりに教えることもないからだ。

 だから、土曜日は、早めに終わって、店にやってきた。普段は六時までの仕事だったは、土曜日は、何もなければ、五時で終わってもいいということになっていた。

「土曜日のように、基本的に夕方仕事がないのであれば、何もいる必要はない」

 というのが、会社側の考えだった。

 変に居残って、経費を使われるよりもいいということであろう。

 そういう意味で、早く退社できるのはありがたかった。

 土曜日は、比較的喫茶「ロマノフ」は、客が少なかった。

 普段でさえ、夕方はあまり客がいないのに、土曜日はさらに人がいない。

「客は自分ひとり」

 というのが、閉店時間までだったことは、土曜日では珍しくもないことだった。

 最初の頃は、結構店のアルバイトの女の子との会話が楽しかったが、茂三が小説を書くようになってから。女の子も気を遣って、話しかけることはしなくなった。

「何を書いているの?」

 と聞かれて、

「ああ、趣味なんだけどね、小説を書いているんだ」

 というと、

「へえ、すごい。最近小説を書いているって人、結構聞くんだけど、実際に書いているのを見るところは初めて見るわ」

 というので、

「僕の場合は、本当にずぶの素人なので、原稿用紙に向かって書くというのができないんだ。だから、こうやってノートに書き留めておくようにしているんだけどね。なかなか最初まで書ききるというのは、骨のいる仕事で、これなら、会社の仕事の方が楽かも知れないくらいだよ」

 と言って、笑いかけると。彼女はそれでも感心したように、

「でも、すごいわよ。私は、書こうという気にもならないもの」

 というではないか。

「でもね、最近は、というか、バブルが弾けてから、生活様式がすっかり変わってしまったでしょう? それまではサラリーマンというと、本当に、いつ寝るのかわからないくらいに、会社のために、馬車馬のように仕事をしていて、しかも、それが美徳だと思われていたよね? でも、今の時代は、残業もしちゃいけない。仕事が終わらずに会社で仕事をしていると、連暖房も使っちゃいけない。しかも、会社の電気も使っちゃいけないので、自腹でスポットライトを買ってきて、それを使って仕事をしているのさ。まるで、昔の人が、蛍の光で仕事をしたというエピソードを思わせるようにね」

 というと、

「それは本当に大変よね」

 というので、

「でも、その分、仕事がない時は、定時に帰れるでしょう? 残業があるなんて、そんなにしょっちゅうでもないので、普段は、六時になったら、皆帰宅するので、六時半には事務所はもぬけの殻というところだね」

「そうなんだ」

「ああ、だからね。家に帰ると、それまでは自由だった奥さん連中も旦那が家にいるというのはあまりよくないらしいんだ。昔、コマーシャルであったように、亭主元気で留守がいいってのを聞いたことがあったかな? それを思い出しちゃってね」

 と、苦笑いをすると、

「うんうん、聞いたことがあるわ。でも、あれってそういう意味だったのかしら?」

 というので、

「いやいや、そうではないのだろうけど、今から思うと、実に皮肉なキャッチフレーズだったって思うよね」

 と、二人で笑い出した。

 そんな会話をしていた頃も懐かしい。夕方に一人で来るようになってからだったが、そのうちに小説を書くようになってから、

「ほら、前に話した時、六時以降、家に帰ってもしょうがないといったでしょう? と言っても、毎日飲み歩くお金があるわけでもないし、その分、サラリーマンは、何か趣味を持てないかと思うようになった人が多いというんだ。これは、逆に奥さん連中にも言えることであって、夕方家にいると、旦那が帰ってきて、気まずいらしいんだよ。それで、奥さん連中も何か趣味を持つようになったというんだけど、旦那の趣味はいかにお金を使わないかということがテーマなので、いろいろと模索しているようなんだけど、奥さん連中は、それよりも旦那と合わないようにしながら、同じ目的を持った奥さんたちと、時間を共にしたいと思うらしいんだ。そこで流行ったのが、スポーツジム。これだったら、健康にもいいし、美容にもいい。だから、少々お金がかかっても、旦那を説得できるというのね。それに、ここまでブームになると、入会者が増えてきて、そのおかげで、入会費や、施設使用料も、結構安くなったみたいなの。そういう意味で、今は隠れたブームと言ってもいいんだよ」

 と茂三がいうと、

「うん、それは知ってる。私も最近友達からスポーツジムに一緒に行こうって誘われているんだけど、とりあえず入会はしたのよ。今のところ、週一回の参加なんだけど、それでも、お金はリーズナブルなので、それなりに楽しんでいるわ」

 といった。

「そっか、それはいいことだと思うよ。とにかく、今の時代は、バブルが崩壊して、完全に生活が変わってしまったことで、それに乗り遅れないようにしないといけないと思うんだ。スポーツジムというのは、いいことだと思うわ」

 と彼女が言った。

「そんな時、僕が小説を書きたいと思ったのは、中学時代に少しと、大学時代に文芸サークルに入っていたので、少し書いたことがあるという経験があったので、入り込みやすいと思ったからなんだ。何といっても、資金がいらないだろう? 筆記具さえあれば、どこでだってできるんだからね」

 というと、

「そうなのよ。でも、なかなかモノを書くというのは、本当にすごいことだと思うわ。私は小説を読むのが苦手で、ついつい、セリフだけを読むような、極端な斜め読みになってしまっているので、読んでいて、途中でよくわからなくなるの。だから、当然、内容は読み終わっても残っていないという感じになるのかしらね」

 というのだ。

「僕も確かに最初の頃は本を読むと、中途半端にしか読まなかったので、印象に残る本は再保の頃にはなかったかな? でも、戦前戦後の探偵小説を読むようになってから、急に内容も読むようになって、読み始めると、一気に読んでしまうんだよ。これがね。本当に読んでいると時間を忘れるようになって、長編小説でも一日で読破できるんだけど、別に読み飛ばしているわけではないんだ。集中していれば、本当に一気に読めるんだなって思えてきて、読んでいて楽しいと思えるようになったんだ」

 というと、

「じゃあ、それから書けるようになったの?」

「いやいや、そんなことはない。書けるようになるまでにはかなりの時間を要したんだ。やっぱり読むのと書くのでは、根本的に違うんだろうね」

 と、茂三はいうのだった。

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