第3話 バブル崩壊がきっかけの小説

 茂三は、比較的忙しい部署にいなかったので、それほどきついことはなかった。その分、会社を早く離れなければならず、逆に暇を持て余すことになった。

 給料とすれば、かなりカットされたという感覚があった。全員一律だったので、それも仕方がなかったが、元々それほどあったわけではないので、これもしょうがなかった。

 しかし、何といっても、ボーナスがまったく入らない時代が何年も続いたのは痛かった。ローンが組めないのはもちろん、まったく、予定も立てられない。

 そのため、

「お金がたまったら、結婚を考えないとな」

 と思っていたのだが、その予定が狂ってしまった。

 と書きはしたが、実際に、結婚というものへの願望が強かったわけではなかった。

「いい人がいれば、結婚してもいいかな?」

 という程度で、実際にいい人が現れることもなく、完全に今季を逃してしまった。

 もっとも、結婚していて、いつリストラに遭うか分からないという不安を絶えず感じながら毎日を生きるのも辛いと思われた。そんな不安を感じるくらいなら、一人でいる方がいい。そう思うと、毎日をどう過ごせばいいのかを考えるのも、億劫な時期もあった。

 そんな時期は、とにかく、

「悪いことは考えたくない」

 と感じていた。

 新聞も毎日読んでいたが、この時期は敢えて読まないようにした。人事にいれば、本当は読まなければいけないのだろうが、前のように、出世を目指しているわけではないので、読む必要もなければ、その時の記事のように、ロクなことが書いていないものを、敢えて読む必要などないと思えたのだ。

「新聞なんて、何が面白くて読んでたんだ」

 と感じた。

 毎日のように、朝出かける前、通勤途中に満員電車の中で、人に揉まれながら読んでいるなど、考えてみれば、バカバカしかった。

 それこそ、

「二十四時間戦えますか?」

 などという宣伝に惑わされてか、何の疑問も抱くことなく、会社のためといい聞かせて、仕事をしていたのだ。

 バブル経済の崩壊を誰もが疑わず、突き進んだのと同じかも知れない、

 経済の専門家がたくさんいるのに、一人くらい誰か思いついてもいいのに、本当に思いつかなかったのだろうか?

 思いついたとしても、それを口にしたところで、誰も信じて疑わないこの世界で、何を言ったとしても、

「オオカミ少年」

 呼ばわりされるのがオチではないか?

 仕事をいくら一生懸命にやっても、報われないのがこの世界、誰もが信じて疑わない間に、自分だけは備えをしておくのが得策というものである。こちらも、童話にあった、

「アリとキリギリス」

 の話のようではないか。

 昔から、格言になりそうなことは、たいてい童話や昔話になったりしているものだ。特にイソップやグリムのような西洋の童話には、感心させられるというものである。

 バブル経済も、その崩壊も、ひょっとすると、西洋の童話を勉強していれば、想像がついたのかも知れない。しかし、それはあくまでも後からであれば、何とでもいえることであった。

 しかし、なってしまったものは仕方がない。いかにやり過ごすかということが問題だった。

 茂三は、比較的、その被害には合わなかった方かも知れない。それはあくまでも、それほど深く考えずに、

「なるようにしかならない」

 という程度に考えていたからではないだろうか。

 一種の他人事という感覚が強かったのかも知れない。

 別に楽天的というわけでもなければ、なあなあな性格というわけでもない。とりあえず、深く考えないようにしようと思っただけのことだった。

 バブルの時代には、何といっても、残業がなくなったことで、アフターファイブの過ごし方が、問題と言われるようになっていた。

 自分を中心とした若い連中の中には、趣味を持つ人が増えたのも、特徴であった。

 残業だらけの毎日であったバブル時期でも、年がら年中、残業ばかりしていたわけではない。残業のない時期は、飲み屋通いなどをしていたものだが、それでも、十分に賄えた。

 しかし、バブルが弾けた時に、毎日飲み歩くだけのお金があるわけではない。それに、こんな時期なので、飲み歩いても楽しいわけでもなかった。

 楽天的なことを考えるようにしようとは思っていたが、だからと言って、飲み歩いて、すべてを忘れるなどということはできなかった。

 楽天的なことを考えるようにしたり、余計なことを考えないようにしようという思想は、酒を飲んで、

「嫌なことは忘れてしまう」

 という発想とは全然違っていた。

 楽天的なことは、前を向くことのできるものだが、嫌なことは忘れてしまうという発想は、あくまでも、逃げの姿勢であるのは、間違いないことだったのだ。

 しかも、お金も結構使ってしまうので、そんなに毎日行けるものではない。

「それでは何をすればいいのか?」

 と考えた時、他の人は、趣味などのサブカルチャーに時間を使おうと考えるようになったようだ。

 人気があったのは、スポーツクラブなどであった。

 残業残業の毎日で、運動もロクにせずに、夜食ばかりを食べることで、完全に不健康になっていた。

 そのことを思い知らされた人も結構いるだろう。それまでと、百八十度、生活が変わったのだ。それまで目立たなかった身体の変調が、健康診断などで、急に出てくると、不安になるのも無理もない。

「これじゃあ、ダメだ」

 と思う人も多いことだろう。

 そんな頃、スポーツジムが、結構新店を増やしてきた。

 バブルが弾けて、その反響からか、ほとんどの企業が衰退していく中で、儲かっている企業もある、それが、サブカルチャーなどを中心にしたところであった。

 いち早く、その情報を掴んで、スポーツジムを開く人もいたであろう。

 だが、これらの反響は、あくまでも、一時期のことであり、

「バブルが崩壊した」

 ということで訪れた、一過性の流行りでしかないことに気づかない人は、そのままズルズルと、泥船に乗っかったまま、沈むしかない状態になる人もいたりした。

 数年くらいは、スポーツジムに通う人も結構いて、充実した繁栄をしていたことだろうが、時代が少しずつ落ち着いてくると、一過歳暮ブームは次第にすたれていく。

 商売上手な人は、

「流行る前くらいに情報を仕入れていて、流行り始めに店を始め、そして軌道に乗ってからは、いかにいつ撤退するかを考えている」

 といえるだろう。

 何事も、物事というのは、

「始める時よりも、終了させることの方が、数倍難しい」

 と言われている。

 それは、戦争などにおいて言われていたことだ。かの大東亜戦争もそうではないか。

 アメリカという大国に挑むのだから、いかにすれば勝つことができるかというのは、回線の二年くらい前から、政府と軍部の間で、ずっとシュミレーションが行われてきた。

 英米蘭を相手に宣戦布告した大東亜戦争だけでなく、その前のシナ事変というのも、その代表ではないだろうか。

 何度も小競り合いがあり、その都度和平交渉が行われてきた中国問題で、日中全面戦争に突入してから、トラウトマンの和平交渉というのが、途中にあった。

 実際に、日本政府も、国民党蒋介石も、それぞれに妥協した案で、和平交渉がまとまりかけていたのに、日本軍が南京を占領したものだから、日本政府が態度を硬化させた。それにより、蒋介石側も、怒り心頭に発し、和平交渉はなくなってしまい。和平の道は完全に閉ざされてしまったのだ。

 その時に、和平が成立していれば、大東亜戦争が起こることもなかったのかも知れない。まずこの時に、

「戦争をやめる時期を逸してしまった」

 といえるのではないだろうか。

 さらに、日本軍は、北部仏印に軍を進めると、英米蘭は、日本に対して、資源の輸出を全面的に禁止した。

 一種の、

「海上封鎖」

 といえるものだった。

 これは、外交における、

「最後通牒」

 だといえるのではないだろうか。

 日本が真珠湾攻撃の際に、数時間宣戦布告が遅かったせいで、

「アメリカが不意打ちを受けた」

 などと言っているが、果たしてそうだろうか?

「海上封鎖:

 というのは、国際法上では、

「宣戦布告」

 に値するともいわれている。

 宣戦布告というものが、最後通牒であっても、十分に宣戦布告に値するといわれているのだから、この海上封鎖と、さらに、アメリカの出した、

「ハルノート」

 の二つを持って、アメリカが日本に宣戦布告をしていたといってもいいのではないだろうか?

 何しろ日本が、他の国にエネルギー資源を求めて出ていこうとするのを、まったく輸出を禁止するのだから、それは無理もないことなのだ。それを、侵略などと、今までさんざん、植民地を作ってきた国家が、

「どの口がいうのだ」

 と言わんばかりであった。

 そもそも、日本軍は、それまで、全戦全勝の無敵を誇っていたのだ。

 日清戦争の大勝利に始まり、世界最大の国ともいわれるロシアを相手に、弱小明治日本が、薄氷を踏む思いで勝利した。

 これは、日米同盟がかなりの部分で大きかったし、アメリカが協力的だったことも大きかっただろうが、とにかく、

「皇国の荒廃」

 は、滅亡に至ることはなかったのだ。

 日本は、大国の仲間入りを果たし、中国大陸にも進出していったが、世界恐慌という荒波で、一変してしまった。

 そおせいもあってか、軍国主義が激しくなり、国家総動員法や、治安維持法などによって、市民生活が国家によって制限される時代に入っていく。

 世間が、戦争を望むという時代背景に入っていったのだろう。

 だが、さすがに政府も軍部もバカではない。まともにアメリカなどの列強を相手にしても勝てるわけはなかった。

 かと言って、中国での戦いを止めて、撤兵することはできない。

 陸軍としては、

「これまでに犠牲になった連中に対して申し訳が立たない」

 という考えと、

「今兵を引き上げることは、陸軍の威信にかかわることで、今後の軍の士気にも影響する」

 ということであった。

 アメリカの案を飲んでしまうと、日本の領土は明治維新の状態に戻ってしまい、すでに併合している台湾や朝鮮もなかったことになり、満州鉄道周辺の権益、さらに、中国大陸での派兵などもすべてが無に帰するのである。

 そんなことが許せるわけもなかった。しかも、

「日本軍は無敵だ」

 という不敗神話が存在するのだ。

 軍だけではなく、国民の間にも暴動がおこるレベルではないか、それを思うと、撤兵などありえない。いかに戦争になったら、勝つことができるかというシュミレーションを主なっていたのだ。

 日露戦争の時もそうであったが、相手の首都に乗り込んで、首都を占領するなどという、

「完全勝利」

 などありえるわけはなかった。

 この戦争は、

「いかに勝つかではなく、いかに負けないようにするか?」

 というのが、一番の問題だった。

「やめ時が難しい」

 というのは、まさにそのことであった。

 日本軍の不敗がなぜだったのかということを、政府や軍首脳がどれほど分かっていたのかというのも、問題だ。

 日清戦争においては、眠れる獅子と言われた清国に対して、日本軍は謙虚に臨んだ戦争だった。

 富国強兵の旗印のもと、戦意と士気の高揚が高まり、さらに最新鋭の兵器を訓練で使いこなせるようになっていた。

 しかし、清国軍は、列強との戦争に敗れ続け、ボロボロの状態で、士気もあったものではなかった状態で、軍事費の方も、当時の西太后の贅沢三昧のせいで、満足に得られなかった。

 東洋随一と言われた、

「定遠」

 を中心とした戦艦群も、まったく整備された状態ではなかったこともあって、最新鋭兵器を揃えた日本に、かなうわけはなかったというのが実情だったであろう。

 ただ、日露戦争の場合は、そういうわけにはいかなかった。

 何といっても、世界最強ともいわれたロシア軍である。しかも、極東艦隊の一つ、旅順艦隊のある旅順には、日清戦争の時にはなかったトーチカを中心とした、東洋一といわれた大要塞があったのだ。

 近づくことさえできず、攻略ができない。

 海軍は、旅順艦隊を出れないように、港に船をわざと座礁させて、湾をふさぐという、閉塞作戦を行ったが、何度かの失敗で断念するしかなかった。

 そこで、陸軍に旅順要塞を攻略してもらって、丘の上から、旅順艦隊を撃滅するという作戦に出たのだ。

 ロシアの極東艦隊は、ウラジオストックと、旅順艦隊があった。そこに、ロシア本国のバルチック艦隊が集結すれば、日本海軍に勝ち目はなかったのである。

 そのために、旅順攻略は絶対条件だったのだ。

 しかし、実際に攻撃してみると、

「日清戦争の時と、被害の数が二けた違う」

 と、いうことで、伊藤博文に、

「信じられない」

 と言わせたほどだった。

 そもそも、伊藤博文は、対ロ戦は反対派であった。もちろん、平和主義者だというわけではなく、ロシアを敵にするリスクが大きいと思っていた。

 しかし、戦争前に日英同盟を結んだことで、開戦に舵を切ることになるのだが、ロシアとの戦争を奨励派も、

「やるなら今しかない。時間をかけてしまうと、ロシアが日本を攻撃する準備が整ってしまう」

 というのが、理由だった。

 何といっても、大国ロシアが相手なのだから、作戦が狂えばすべてが狂ってくるのだ。日本としても、もちろん、モスクワまでせめていくなど考えていない。最初から、

「途中のどこかで決定的な大勝利を収めて、英国、米国を使って、講和条約の席に着き、有利に戦争を終わらせること」

 というのが、作戦であった。

 そのためには、バルチック艦隊に敗れることは許されず、さらに、旅順攻撃は必須だったのだ。

 正攻法で旅順要塞を攻撃しても被害が増えるだけでどうしようもない。

 ということで、陸軍は、二百三高地を攻めることに決めた。内地から運んできた、

「三十八サンチ砲」

 が、威力を発揮し、何とか二百三高地を攻略し、旅順艦隊を撃滅させた。

 陸軍はその余勢をかって、奉天会戦に勝利することで、陸軍は十分に役目を果たした。

 さて、バルト海を出港したバルチック艦隊は、よーろーーあを迂回し、大西洋から、アフリカを経由し、インド洋から日本に来る方法しかなかった。

 ここに、日英同盟が大きく影響してくる。

 本来なら、エーゲ海から、シナイ半島を経て、スエズ運河からインド洋に出ればいいのだろうが、当時のアラブはイギリスの領地であった。日英同盟の観点から、イギリスが通してくれるわけもない。しかも、途中の港で、食料や武器、燃料の補給を行いながらの航海なのだが、途中にイギリス領が点在しているため、なかなかそうもいかないというものだ。

 そのため、バルチック艦隊は、ボロボロの状態で、日本に来た。

 ここで問題は、バルチック艦隊の航路である。

 ウラジオ艦隊と合流するのに、太平洋からの航路をとるのか、それとも、東シナ海から、玄海灘沖を通り、千島へ抜けようとするのかという選択があった。

 日本海軍は千島航路を考え、そちらで待ち伏せすることになった。

 もし間違っていれば、ウラジオ艦隊とバルチック艦隊の連合艦隊に、日本の連合艦隊が挑むことになったのだ。

 しかし、想像通りの日本海航路であったため、日本海海戦が勃発した。

 この戦争は、何と半日で勝負がついた。勝因としては、T字戦法という、新たな戦法と、下瀬火薬という、ピクリン酸を応用した砲弾が使われたりと、新兵器も活躍したりした。

 したがって、日露戦争の勝利は、

「外交面、科学技術面、戦略面からも、うまく機能したということであり、これが、日本における日露戦争の勝利だった」

 といえるだろう。

 それ以降、日本は大陸に進出し、中国での権益を増していく。次第に諸外国から煙たがられる状態であり、満州事変においては、世界的に孤立してしまった。

 さらに、ドイツ、イタリアと同盟を結んだことで、世界を敵に回すことになったといってもいいだろう。

 そんな時に発生した、

「盧溝橋事件」

 を発端(諸説あり)とするシナ事変が起こると、日本軍は国民党軍を追い詰めていく。

 第二次上海事変ののちに、トラウトマンによる和平交渉が起こったのだが、日本が南京を占領したことで、立場を硬化させ、それが国民党軍の許容を超えたので、和平がならなかった。それにより、アメリカは経済制裁を行ったが、日本が北部仏印に進駐したので、今度は経済封鎖に入った。

 こうなってしまっては、戦争は避けられないものとなり、軍部では、どうすればいいかを政府と模索をしていた。外交と、開戦の同時進行であったが、そもそも、アメリカは参戦の機会を模索していたので、外交がうまくいくはずはない。そうなると、日本は戦争に突き進むことになるのだが、ある時、海軍大臣が連合艦隊の司令長官、山本五十六に、開戦における勝利について聞いた時、

「半年やそこらは存分に暴れてみせるが、それ以降は保証はない」

 といったという。

 つまりは、半年以内に、決定的な勝利をおさめ、いいタイミングで講和に持ち込めば、日本有利なところで、交渉ができる。それしか日本には道はないといっているのだった。

 実際に、日本は、海軍は太平洋上で、陸軍は、仏印から、マレーを抜け、シンガポールを陥落させ、そして最大の目的であった、インドネシアの油田地帯を手に入れることができた。

 本来なら、そこで講和に持ちこむべきだったのだが、日本は、そこで間違えた。

 勝ちすぎたことで政府がおごってしまい、我を忘れるかのように、戦争に没頭してしまう。

 さらに、アメリカ起死回生の作戦である、空母から爆撃機「B―25」を出撃させて、帝都空襲を行ったのだ。

 被害は大したことはなかったのだが、それに臆した日本政府と軍部は、ミッドウェイ攻略に走ってしまった。

 ここで海軍は間違えてしまう。兵装転換のミスから、空母四隻と、大量の航空機を失ってしまう。

 ただ、一番の問題は、

「熟練のパイロットのほとんどを失ってしまった」

 ということである。

 本来なら、まだ大丈夫なはずの戦線であったが、人材不足は一番大きく、それが最後まで尾を引くことになったのだ。

 つまりは、

「日本は、せっかく当初の目的を達成していたにも関わらず、引き際を間違えたということが悲惨な運命になった一番の理由だ」

 ということであった

 途中で講和が結ばれていたら、

「完全勝利には至らないが、少なくとも負けることはなかった」

 そして、中国の戦争も、各国に認めさせることもできたかも知れない。妥協できなかったことで、日本は、すべてを失いことになったのだ。

「日本にとって、最初で最後の、対外国との戦争での敗北」

 だったのである。

 誰がこのことを予想したであろうか? そもそも、戦争前のマスコミや、政府の陽動が大きく、世論も戦争に突っ走ったというのもいけなかったのだろう。

 そうでもなければ、さすがに日本も、我を見失うほどに突っ走ることもなかったように思うからだった。

 このような知識は、学生時代からあったものではなかった。会社に入ってからしばらくは、バブル経済のせいで、ひたすら仕事に邁進していたが、その結果、バブルが弾けたことで、できた時間、本を読む機会が増えたことで、歴史の本を買って読んだのだった。

 興味がなければ、途中で読むのをやめていたかも知れないが、読めば読むほど面白い。

 探偵小説を読んでいた関係で、戦前戦後という時代背景にも興味があった。

 ただ、歴史的に、それ以前の歴史を見ることはなかったので、あくまでも、戦時中から戦後にかけてを漠然と知っているという程度だった。

 だが、あの時代の歴史というのは、

「どこからが、始まりなのか分かりずらい」

 というところが面白かった。

 だから、時代をさかのぼってみていただけに、どこまでさかのぼっても始まりが見えない。それが面白かったのだ。

 探偵小説で見る時代背景と、実際に歴史の本で見る時代背景とでは、どこに視点を置くかということでも、見え方が違ってくる。

 しかも、歴史を勉強していると、その時代の経済状況も見えてきて、当時のバブル崩壊に至るまでの、日本経済の経緯を勉強するのも面白かった。

 戦後の混乱から、復興、そして、経済成長と独立、さらに、オリンピック開催に至るまでの、戦後復興の時代。そして、そのあとの経済成長における、公害問題など、そして、経済が世界最高峰に上り詰めた時代から、バブルの崩壊。そして、そこからまだ這い上がることのできない日本。

「日本には無能な政治家しかいあい」

 と自ら公言しているようなものである。

 バブル崩壊において、残業もせず、給料も減らされた。ボーナスもないのであれば、今までのような感覚であれば、あっという間に破産してしまう。

「お金を使わないようにして、いかに余暇を楽しむか?」

 というのが、その時の課題であった。

 それでも、まだ幸いにも首になることもなく、会社に籍があるというのはありがたいことで、とりあえずは、余暇をいかにお金を使わずに過ごすかということに従事した。

「大学生の頃に一度やろうと思って、途中で挫折した形になった小説を書いてみようか?」

 と感じたのだ。

 確かに、小説であれば、お金を使うこともない。ノートや原稿用紙のような紙に、筆記具があるだけで、どこででもできる。

 自分の部屋で執筆するというのは、どうも難しいと思ったので、どこか喫茶店であったり、ファミレスのようなところで活動するのがいいように思えた。

 部屋にいると、高校の時の試験勉強のように気が散ってしまって、ついつい音楽を聴いたり、テレビを見たりして、無駄に時間だけが過ぎていき、何も成果が上げられないという状態になってしまうだろう。

 それを思っていると、会社の近くに喫茶店があるのを思い出した。木造のいかにも、

「昭和の喫茶店」

 を感じさせ、奥のショーケースには、酒類も置かれているので、

「夜になると、バーか、スナックになるのだろうか?」

 と思ったので、話を聞いてみると、

「以前は、スナックもやっていたんだけど、スナックの方はお客さんが減ってきたので、不定期に開けています」

 ということであった。

 別に常連がいたというわけでもなかったので、喫茶店の常連が、何かの会を催したい時は、場所を貸してくれるということで、様式はそのままにしてあったということであった。

 その喫茶店をどうして知っていたのかというと、以前、ランチタイムに会社の先輩に連れてきてもらったことがあったからだ。

 時々ランチタイムに来るようになっていたがそれ以外の時間帯にくることはなく、普段がどんな店なのかということに興味もなかったのだった。

 だが、一度、出張から帰ってきて、会社を出てから小腹が空いたのだが、ファミレスは、人がいっぱいで、かなりやかましかった。どうやら、学生の誕生パーティのようなものをしていたようで、本当は店も迷惑だと思っていたかも知れないが、せっかくのたくさんの客に対して、むげにもできないということで、きっとしょうがなく、その日だけはと我慢をしていたのだろう。

 だが、茂三とすれば、そんな状態を見せられて、気持ちがいいものではない。

 いつまたなんどき。今度は違う人の誕生パーティをするか分からない。そう思うと、長いをできる場所ではないと、早々に感じたのだった。

 そこで思いついたのが、ランチタイムの喫茶店である。

 ランチタイムは満席は仕方のないことだが、喫茶店などは、ランチタイム以外は、ほとんどガラガラではないかと思えた。喫茶店なので、軽食くらいはあるだろう。ナポリタンやピラフなどの喫茶店メニューを想像すると、ファミレスの料理を考えると、あそこまでひどくないと思わせるに十分だった。

 しかも、バブル崩壊に対していち早く対応したのが、ファミレスだった。

 価格をかなり下げ、そのために、それまでのサービスをほとんどしなくなった。

 例えば、注文の時の水も、最初は持ってくるが、あとは水のサーバーでのセルフサービスであったり、今でいうドリンクバーのようなものであったりが出始めた頃だった。

 そして何といっても、料理の味があからさまに落ちていた。店側は、

「料理の味を落としてはいない」

 と言っていたがそんな馬鹿なことはないだろう。

 何といっても、価格を下げるのだから、仕入原価だって落としているに違いない。そもそもの原材料が落ちているのだから、味が落ちないわけはないと、いくら客だってわかるというものだ。そういう意味では、

「客を舐めるのも、いい加減にしろ」

 と言いたいところだった。

 そういう意味で、茂三はそれ以降、仕方がない時を除いては、ファミレスに行こうとは思わなくなったのだ。

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