四月、親睦。






「うーん……なるほど?」

「門脇さん、結局いまいち分かってないでしょ」

「あれ、バレちゃった」

「バレるよ」


 教室では少しばかり騒がしいので、図書室に移動した。

 僕と門脇さんは数学の教科書を開いて、彼女の分からないと言っている箇所について話し合う。そうやって教えること小一時間、手応えはあまりなかった。

 彼女は至って真剣に話を聞いている。

 だが、どうしても会話が噛み合わなかった。

 僕の教え方が下手くそなのもあるだろうけど、失礼だが門脇さん本人の学力にも問題がありそうだ。


「いやー、ごめんね? せっかく時間を取ってもらったのに」

「いや、いいよ。僕の方こそ、あまり力になれなくてごめん」

「そんなことないよー! たぶん一レベルくらいは上がったから!」


 しかし、彼女にはそれ以上の武器がある。

 僕には欠片ほどもない、愛嬌という名の武器だった。これさえあれば、きっと彼女はこれからも多くの人に愛されて生きていくのだろう。

 そう、生きていれば……。


「ねぇ、門脇さん……?」

「どうしたの?」


 その時に僕は、一縷の望みを胸にこう訊ねていた。


「もしかして、何か……そう、持病とかあるの?」――と。


 藪から棒とは、まさしくこのことだろう。

 何の脈絡もない話をされて、門脇さんは一瞬だけポカンとしていた。そして首を傾げるのだが、しかしすぐに腕を組んで考え始める。

 それでもやはり、思い当たる節はなかったのだろう。


「ないよ! 私、昔から健康だけが取り柄だから!!」

「そ、そっか……」


 親指を立てて、輝かしくさえ思える満面の笑みで答えた彼女。

 それを見て僕は気圧されつつ、だが同時に落胆もした。どうやら彼女の寿命が短いことの理由は、見つけられないままらしい。もし何かしら抱えている病気でもあれば、前もって対策を打つことが可能かもしれなかった。

 だけど健康優良児であるなら、考えられる原因は事故か、あるいは――。


「……ねぇ、私からも一ついいかな?」

「え、あ……うん、いいよ」


 そこまで考えて、ふいに門脇さんから声をかけられて僕は答える。

 すると彼女は軽く頬杖をつきながら、こう言った。


「荒川くんは、さ。これだけ一生懸命に勉強して、将来はどんな大人になりたい、とかあるの?」

「将来、どんな大人になりたいか……?」

「そそ。だってキミ、他の人よりずっと勉強しているんだもん!」

「………………」


 その質問は、あまりに想定外の内容で。

 僕は少しだけ思考停止しつつ、それでもしっかり考えて答えた。


「いや、これといって……ない、かな?」


 その結論は、夢などない、というつまらないもの。

 僕が勉強に打ち込んでいるのは、それが最も一人になりやすいからだ。静かに、ただ机に向かって課題や試験勉強をしていれば、みんな気を遣って話しかけてはこない。集団行動必須の学生にとって、自学自習は孤独になる最善手だった。


 だけど、その先に何があるのか。

 門脇さんの問いかけで初めて考えたが、やはりそんなものなかった。

 将来はどんな大人になりたいか、なんて。僕からしてみれば、どれだけ他人の寿命を見ずに過ごしていけるか、ということの手段にしかならなかった。


 だから自分には、彼女の質問に答える権利はない。

 どうしたって歪んだ答えになるのだから、誤魔化すしかなかった。


「えー! もったいないよ、せっかく頭良いのに!!」

「そんなことないよ。……門脇さんは、何かあるの?」

「ん、私の将来の夢?」

「そうそう」


 門脇さんは図書室ということも忘れ、身を乗り出してそう叫ぶ。

 僕はそれを手で制しつつ、逆にそう訊ねた。せっかくの機会だし、彼女とはもう少し話をしてみたい。何故かは分からないけど、そう思ってしまった。

 だけど、すぐに後悔することになる。


「私はね、いっぱいあるよ! やってみたいこと!!」


 瞳を輝かせ、力いっぱいに語り始める門脇さん。


「まずは普通に会社員とかやってみたいでしょ? あとはボランティアにも興味あるから、海外にも行ってみたいし――」


 指折り数えて。

 その指の本数も足りなくなるほど、やってみたいことを話す彼女の笑顔。

 そうやって夢中になって将来を見据える無垢な瞳を見て、僕の胸に湧き上がったのはぶつけようのない悲嘆だった。だって、それらはきっと叶わないのだから。

 門脇さんの残る命は、今年の暮れまで。

 それまでに、叶えられる夢は一つもなかったから。


「あとはねー……って、荒川くん?」

「……え?」


 そう思いながらも、彼女の笑顔から目を背けられずにいた。

 すると、こちらを見て門脇さんは首を傾げて言うのだ。


「どうして、そんな顔をしているの?」


 その言葉にハッと我に返る。

 いったい自分がどんな表情をしていたのか、それを想像してうつむいた。きっと情けない顔をしているに違いない。あるいは、楽しげな相手に失礼な表情を。

 そう考えてまた、門脇さんに申し訳ない気持ちになった。


「ご、ごめん。……ただ、凄く眩しくて」

「まぶ、しい……?」


 謝罪をしよう。

 そう思って出てきたのは、そんな言い訳だった。

 だが、事実だろう。僕が彼女の将来を憂いたのは、それがあまりに眩しいから。何様のつもりだと思われるかもしれないが、眩しいからこそ悔しかったのだ。

 こんなにも真っすぐな少女の夢が、一つも叶わない、ということが。


「……ねぇ、荒川くん」


 そうやって、どれだけの沈黙が続いたか。

 その静寂を破ったのは、門脇さんのこんな提案だった。


「これからは、互いに下の名前で呼ぼうか」

「え……?」


 だけどそれは、あまりに突飛なもの。

 僕が驚いて顔を上げると、そこには変わらぬ彼女の微笑みがあった。


「私はキミのこと、真守くん、って呼ぶ。だからキミは――」


 もしかしたら、こちらの表情を確かめるためだったのかもしれない。

 そうなのだとすれば、彼女の策はピッタリと決まっていた。



「私のこと、麻衣、って呼んで……ねっ!」

「………………!」




 こつん、と額を人差し指で小突かれる。

 呆気に取られるしかない僕に、少女はただ笑っていた。



 

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薄命な彼女と、見えてしまう僕。~誰がキミを殺すのか~ あざね @sennami0406

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