第1-5回「身元照会」


 <まえがき>

・長くなります。約7,900字、読了に20分ほどかかります。




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 漁村を出発して、かなり歩いてきた。

歩いている間に村のような所を二つほど通り過ぎたが、まだニッコサンガには辿たどり着きそうにもない。

空にもだんだんと、燃えるような色が広がっていく。

空の変わりゆくさまに、あの時の光景がふと浮かびあがってきた。



 初めて荒野で目覚めて、ゴブリン共に追いかけられた、あの時の光景が。



スタックス支部長の口数もすっかり無くなって、今にも走り出しそうな勢いで歩いている。

またどくどくと心音が早まってきた頃、突然、前を行く彼が足を止めた。


「どうしたんですか?」

「あそこ、見えるかい?」


 彼の指差す先には、ぼんやりとした山のような物。

そして、白や赤褐色っぽい物が小さく、たくさん広がっているのが見えた。



 あそこが、ニッコサンガ・・・・・・。



彼から教えられなくても、あそこが目的地だと言う事が、なんとなく分かった。


「あそこですか・・・・・・」

「ああ。ここまで来たらあと少しだ。受付に間に合わないかもしれないからな、少し急ごう」

「はい!」


 彼の言葉に、俺もこころよく返事をする。

地を蹴って駆け出すその後ろ姿を、俺も離されないように、腕を振って追いかけた。




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 ぼんやりとしていた物が、少しずつはっきりと、走って行くたびに見えてくる。

小さく、たくさん広がっていた物は建物だという事が分かり、そして、想像していたよりもそれはずっと多く、ずらりと立ち並んで広がっていた。

白っぽい建物は空からの光に照らされて、うっすらと赤みを帯びている。

その色合いは、つい美しいと思ってしまうほどに、綺麗きれいだった。


「おーい、どうしたー!ついて来てくれ!」


 彼の声に、はっと我に返る。


「あ、すいません!」



 はぐれたらいけない。



うっすらとした赤に染まる彼の側へ、俺は小走りで駆け寄った。




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 彼はこのニッコサンガを、要害の都市だと言っていたが、ついて行くうちにその理由がだんだんと分かってきた。

真っ直ぐ進んでいったと思うと、建物にさえぎられ左右どちらかに進路を取らされ、また進んでいくと、道が真っ直ぐと曲がる方へと分かれていく。

通り道は横に人が並べば十人いけるかくらいの幅。

通る分にはせまくはないが、とても広いという訳でもない、絶妙な広さで作られていた。

急ぎ足で進む彼に置いていかれないように、俺もひたすらついて行く。

その途中で、ぽつりぽつりと、曲がり道三つ四つ間隔で作られた、大きな建物とすれ違っていった。

通りに面する所が開かれていたり、家のような作りになっていたり───。

と、多種多様な顔を持っていたが、ちらりと一番上に目をやると、こちらから上の様子が見えないような作りになっていた。



 すれ違う人は家や、近くの村へと帰る途中なのだろう。



ぴりぴりとした緊張感は、全く伝わってこない。

だが、入り組んだ町の作りに、点在する見張りのような建物────。

視界に広がる町並みが、敵の侵攻を食い止める重要な拠点であるという事を、ひしひしと伝えてきている。



 ここも、戦場の最前線なんだな・・・・・・。



過ぎゆく建物を見ていくうちに、そんな言葉がぽんと浮かんできた。


「ふう・・・・・・。なんとか間に合った」


 前を行く支部長は、立派に組まれた門を見据みすえながら、ぽつりとつぶやく。

その門の向こうには、大きく広がる建物。

さらに遠くの方には山のような所に建てられた、立派な建物が見えていた。



 あの立派な建物に、ここのえらい人が居るのだろうか。



一度もニッコサンガに来た事が無い自分でも、そう分かるほどに、遠くに見えている建物は堂々としたものだった。


「さ、ついて来てくれ。まだ夜にはなっていないから、間に合うとは思うけれど・・・・・・」

「あ、そ、そうですね。すいません、ついぼーっとしちゃって」


 彼の呼びかけに意識を戻し、再び歩みを進めていく彼について行く事にした。

目の前の建物には入っていかず、横にれてから一つ建物の横を抜けていき、更に斜め奥に位置する建物に辿たどり着く。

彼の開けた扉を抜けると、そこには何かを待っている人がおり、長く作られた机のような仕切りの向こうでは、まばらではあるが何かをしている人達が居た。



 あの人達は、ここで働いている人達かな。



また彼に視線を戻すと、きょろきょろと何かを探している様子だ。

何を探しているんだろう、と思いしばらく待っていると、手招きしてこっちだよと呼びかけてくれていた。


「彼の身分について、調べて欲しいんだ」


 向こうに居る人に、スタックスさんがそう話しかけている。


「分かりました。じゃあ、書類を用意しますので───」

「いや、それなんだが・・・・・・。彼は記憶喪失きおくそうしつなんだ」


 その言葉に、対面する方の動きが止まった。


「記憶喪失───。えっと、まさか名前とかも、思い出せないんですか?」

「ああ、名前だけじゃない。生まれた場所も、両親の名前も、思い出せないようで・・・・・・」


 うーん、と向こうの人は考え込んでいる。

その様子を見ているうちに、また不安な気持ちがふつふつと湧き上がってくる。


「なんとか出来ないかな?」

「そうですね・・・・・・。ちょっと聞いてきます」


 そう言うとその人は奥の方へ、誰かを呼びに行ってしまった。


「あの、スタックスさん。今、何をしてもらっているんですか?」


 居ても立っても居られなくなり、思わず彼に尋ねてみる。


「ああ、ここで君の戸籍こせきを確認してもらっているんだよ」

・・・・・・」

「君がその人かどうか、その名前で正しいのかどうか。それを調べる前に『君以外の君』が居るのかどうかを、まずは調べないといけないからね。今はその手順を踏む前の段階なんだよ」

「う、うーん・・・・・・?」



 分かるような、分からないような。

 自分以外にもが居る───そんな事があるのか?



「ははは。いや何、君が気にする事は無いよ。思い出せない事は仕方ないんだし」

「す、すいません。思い出せたら良かったんですけれど、お手数掛けてしまって」

「いいっていいって。前にもこんな事があったんだ、今回はその応用みたいなものだし」


 そうこうするうちに、さっきの人がよりしっかりとした印象の人を連れて、こちらに戻って来た。


「あ、スタックスさん。彼がその人だね?」

「いやー遅くにすまんね、トーカーさん。何とか調べられないかな?」


 目の前に現れた、ぴしっとした印象を与えるこの方は、どうやらトーカーと言う名前らしい。

彼とスタックスさんの話す雰囲気からして、前にどうも接点があったらしい。


「他に、こう名前が分かりそうな、手掛かりは無いか?」

「いや、ある事はあるんだよ。すまない、あの短剣を彼に貸してくれないか?」


 支部長に呼び掛けられ、ハッとなる。


「え、ええ。どうぞ・・・・・・」


 言われるがままに、俺はトーカーさんに腰に付けていたそれを手渡した。


「ほら、ここに書いてあるだろ?これから何か分からないかな?」

「ああ、スティッケルの文字だねこれ」


 刻まれた文字をなぞりながら、彼はそう答える。


「ああ、それか!なるほど、どうりで見覚えがある訳だ!」

「お、おい。もう閉めようって時なんだから、あんまり興奮すんなよ・・・・・・」


 手を叩き喜ぶ彼の姿を、トーカーさんはまゆをしかめて、たしなめている。

だが彼の喜ぶ反応からして、あの文字は決してこの地域とは馴染なじみの薄い物でも無いようだ。



 それなら俺がいったい誰なのかも、案外あっさりと分かるのかも・・・・・・。



不安だった気持ちもふっと薄れて、ぱっと希望が差し込んだような気がした。


「なんて書いてあるか分かるか?」


 笑みを浮かべて尋ねる彼に対して、トーカーさんはうなりを返している。

その表情は、どんよりと曇りっぽかった。


「いや、すまん。俺にはちょっと分からん。多分、どこかの部隊所属だって事が分かるぐらいしか・・・・・・」



 部隊所属───。



その言葉で、あの短剣に書かれているのが自分の名前じゃない事が、あっさりと確定してしまった。

喜んでいたスタックスさんも、しょんぼりと肩を落としている。


「そ、そうか・・・・・・」

「あと、これがスティッケルの文字だっていう事は多分、身元を証明するの相当大変だぞ」

「えっ、相当大変・・・・・・?」


 彼のその言葉に、思わず尋ねてしまった。


「あの、どうして大変なんですか?」

「うん?ああ、一応そこと、うちの国は地続きで繋がってはいるんだがね。魔族に分断されて、すぐにやり取りは出来ないんだよ」


 彼の説明に、スタックスさんが補足をしてくれる。


「来る前に言った、戦争の相手。そいつらがその国とここを攻めているから、情報のやり取りも時間がかかるんだよ」



 ああ・・・・・・なるほど。

 だから、トーカーさんは短剣の文字を見た瞬間、あんなに険しい顔をしていたんだ。



「そうだったんですね・・・・・・」

「うん、そうなんだよ。───で、調べ終わるのは、いつぐらい掛かりそうだ?」


 支部長がそう尋ねると、彼はあごを軽くさすってから、こう返事をする。


「うーーーん。断言は出来ないけれど、二週間は超えるかも。下手したらもっと・・・・・・」

「そ、そんなにか・・・・・・」


 彼の返事に、スタックスさんは絶句している。

その様子を見て、記憶の無い自分を自分だと証明するという事が、どれだけ大変なのかと言う事を、身をもって痛感させられた。



 自分はこの人達を、とてつもない苦労に巻き込んでしまった。



そう思った時にはもう、申し訳ない気持ちで、心の中がいっぱいになっていた。


「すいません・・・・・・」


 俺には、その言葉をつぶやく事しか、出来なかった。


「いや、気にしちゃダメだって!ちょっと時間が掛かるだけだから!そんなに落ち込まないで!」

「そうそう!手掛かりはこうしてあるんだし、調べる方法が無い訳じゃないから。大丈夫だよ、ちょっと手間が掛かるだけだから」


 二人は懸命に、俺をはげましてくれている。

その姿が、申し訳ない気持ちをますます湧き立たせてきた。

見えている床が、ぐらあっとゆがんだように見えてくる。



 ・・・・・・いや、ここで自分が落ち込んだらダメだ。



ぐっと目をつぶってから、前を見据えて返事をする。


「・・・・・・ありがとうございます。トーカーさん俺、頼らせてもらいます!大変なのは承知ですが、よろしくお願いします!」


 俺の言葉に、彼らの表情がやわらぐ。


「・・・・・・よし!そこまで言ってくれるんだ、俺も頑張らせてもらうよ」

「すまん、トーカーさん。よろしく頼むよ」

「じゃあ、出来る範囲でなんとか情報が欲しいからね。ちょっと待ってね」


 そう言うと彼は奥の方へと戻って行き、そして両手に何かを持って帰って来た。


「すまないが、ここに手形を取りたいんだ。そのインクに手を浸してくれ」


 彼の視線の先には、真っ黒なそれと紙のような物がかれた物があった。

ここに手を乗せればいいのか、と思いつつ、俺はインクに右手を軽くひたして、ぐっと紙に押し付けた。

ぺらりとした触感の後に、はらりと手の形が付いた紙ががれる。


「ありがとう、じゃあこっちには左の手を押してくれ」


 言われるがままに今度は反対の手を浸して、また別に用意された紙の上に押し付けた。


「よし、今はこれで何とかするか。ちょっとタオルを取ってくるから待っていてくれ、手はそのままでね」


 彼は手形の付いた紙とインクを持って、また奥の方へと消えて行ってしまった。


「へえ、あんな感じでも照会って出来るんだな」


 横で見ていた彼は、感嘆かんたんの声を漏らしていた。

その反応からして、このやり方は随分ずいぶん珍しい方法らしい。



 記憶喪失のまま生きて流れついて、しかもこの国の人では無い───。

 それだけ、自分のように助かった人は珍しい、という事なのだろうか。



そう考えるとなぜだか、しっかりと生きなきゃ、という考えがむくむくと伸びていっているような気がした。



 この命は自分だけの命じゃない───そんな気持ちが。



「やあ、すまんね。これで手をいてくれ」


 そう言いながら、戻って来たトーカーさんがうっすらと黒みがかった布を手渡してくれた。


「ありがとうございます」


 受け取ってから手を拭いていると、横に居るスタックスさんが彼に話しかけた。


「なあ、これからどうやって調べるのか、教えてくれないか?」


 どうやら彼も、名前も分からない状態で国外の人を調べる方法が気になるらしい。



 それは、自分も気になっていた。

 いったいどうやって調べるんだろう。



「この短剣を持っているんだ、おそらく国軍に徴収ちょうしゅうされた人間のはず。ならば、スティッケル王国の兵なら台帳に手形などの情報と一緒に紐付ひもづけされているはずなんだ。手間は掛かるが、所属部隊を調べてそこから手形と照合していけば、多分名前が分かるはず」

「なるほど」


 彼は軽く手を叩いた。

自分が所属していた、スティッケル王国は、かなり手厚く戸籍を管理しているんだな、という事がその説明だけでも雰囲気で分かる。

何も知らない自分でも、その説明だけで何となく理解する事が出来た。


「って事は、その短剣もしばらく預かりになるのか」

「まあ、そうなるな」



 ああ、そうか。

 所属部隊が分からないと、手形だけで闇雲に探すだけだもんな。



「どうしよう、彼は何処かに、身寄りとかあるのか?これの解読は明日にでも終わるから、すぐ返せると思うのだが」

「あっ、なら私の居る、あの支部に持って来てくれ。しばらくそこで彼を預かっているから」



 えっ?



という言葉が思わず浮かぶ。

が、すぐにここへ来る前の彼の言葉を思い出した。



 ああ・・・・・・そうだ。

 スタックスさんが、しばらく預かってくださるんだ。

 そうか・・・・・・ありがたい。



「そうなのか?」


 トーカーさんに声をかけられ、うなずきながら笑みを返す。


「はい、しばらくお世話にならせてもらいます。本当に、スタックスさんには感謝もしきれません・・・・・・」

「ああ、いや。そのまま放ってはおけないし、ははは」


 スタックスさんは恥ずかしそうに笑みを浮かべていた。


「そうか・・・・・・分かった」


 トーカーさんもうんうんと頷き、軽く笑みをこぼしている。

さて、と軽く息をついてから、彼の表情がふっと元に戻る。


「で、しばらく彼はどうするんだ?他に身寄りがあるのか?働き口とか」


 その言葉に彼の表情も落ち着いたものになる。



 いや、今の自分に身寄りは無いんだ。

 何も、何も思い出せないから・・・・・・。



「どうだろう。何か思い当たる場所でもあるかい?」


 彼に尋ねられるが、答えられる場所は無い。


「すみません、無いです・・・・・・」


 そう返事するしか無かった。


「なら、名前が分かるまでの間、私の所を家だと思ってくれたらいいさ。君が思い出せるまで、私も徹底的に支えていくよ」


 スタックスさんは、そう語りかけて笑顔を向けてくれる。

その表情にほっとした気持ちがして、不思議とまた目頭が熱くなったような気がした。


「と言う事は、しばらくここに居るって事だな」

「まあ、そうなるな。しばらく私の所で預からせてもらうよ」

「分かった。じゃあ仮の戸籍を作る手続きも一緒に取ろうか」


 お願いするよ、と彼の言葉を受けて、またトーカーさんは奥の方へと消えていった。

ふと辺りを見渡すと、自分達の他に待っている人は居らず、職員の人達も来た時より少なくなっている。

窓の向こうに映っていた空も、すっかり暗くなっていた。


「その、スタックスさん。本当にありがとうございます」


 震える目尻をぐっとこらえて、もう一度彼に深くお礼を述べた。


「いいっていいって!こんなの気にしなくて、本当にいいから!」


 彼は変わらず、屈託くったくの無い笑顔で応えてくれた。

その表情に、また心の中がふっと温かくなった。


「二人とも、すまないがここに書ける事を書いてくれ」


 戻って来たトーカーさんが、一枚の紙を手渡して置いた。

紙に書いてある文字は、やはり自分には何も読めない。

スタックスさんは気にする事なく、ペンを手に取りインクに浸してから、すらすらと文字を書いていった。

すぐに書き終わった部分や、つらつらと長く書いている部分。

彼の書いている内容が気になり、思わず目で追ってしまう。


「さあ、君の名前。どうしようか」


 彼はペンを止めて、俺の目を見ながらそう尋ねてきた。


「えっ・・・・・・」


 紙に視線を戻すと、上の方に何も書かれていない部分がまだ残っていた。



 ここに自分の、仮の名前が書かれる・・・・・・。



そう考えるとまた、ばくばくと胸が高鳴ってくる。


「とは言え、名前も分からない状態なんだろ?何と呼んだらいいのか、そんなの彼もどうしたらいいか・・・・・・難しいよなあ」


 腕を組みながら、トーカーさんが言葉を漏らす。


「うん・・・・・・。まあそうなんだけどさ、ここはじっくり、自分のペースで考えなよ。慌てなくていいからさ」

「大事だから、そりゃ慌てなくてもいいけれど・・・・・・。いや、別に飛ばしてくれてもいいんだよ。ここは後で、どうとでもなるから」


 トーカーさんは、一瞬後ろを振り返りスタックス支部長に返事をする。

見渡す感じ、彼以外に働いている人は居なくなっていた。

彼の表情に焦りの色が見えている。



 早く、彼を帰してあげないと・・・・・・。



そう思うと、より胸の鼓動が早くなっていく。


「無理なら、無理でも大丈夫だから。あくまで仕分ける為に、仮の名前を決めておくだけだから。無理なら番号入れて終わりだし・・・・・・」

「ま、まあトーカーさん。それじゃちょっと味気無いよ。仮だから深くじゃなくてもいいだろうけどさ、せっかく名前なんだし。もうちょっとじっくり待ってくれても、な?」

「う、うーん・・・・・・」


 彼はどうしたらいいのか、と凄く困った表情を浮かべていた。



 どうしよう・・・・・・。

 ああ、何とかしないと・・・・・・。


 良い響きの、名前みたいなもの・・・・・・。

 早く彼をここから解放してあげないと。



その一心で、もう数字でも良いです、と答えそうになった時。

はっ、とある音が頭の中に浮かび上がった。



「あの、スタックスさん。『アール』って書いてください」



 支部長は何度か目をまたたかせてから、また俺に尋ね返してきた。


「アール、でいいんだね?」

「はい、お願いします」


 彼はすらすらと文字を書いていく。



 アール、あれがアール。



仮の戸籍を記した部分に書かれた文字を、しっかりと目の奥に刻み込んだ。


「よし、じゃあ名前の所に指を押して」


 スタックスさんが指印を押してから、インクに指を浸してと書かれた部分の横に、ぐっと押し込む。

書類を手に取り、トーカーさんはホッとした表情を浮かべ、軽く溜め息を吐いた。


「よし、これで受理出来たから。名前が分かるまで、しばらくはこれで安心出来ると思うよ。ナイフは明日にでも、取りに来てくれたら返せると思うな」

「分かった。今日は時間掛けてすまなかったな、この埋め合わせはまた・・・・・・」

「いいっていいって!仕事の一環だし、またセッちゃんにでも言ってくれたら俺はそれでいいから!」

「なんだ、やっぱりしっかり取るところは取るじゃないか」


 ははは、と笑い合う二人。

外はもう暗くなっていたが、二人の笑顔はぽかぽかと明るいものだった。


「それじゃ、また分かったら連絡をくれよ」

「ああ、ばっちり調べておくから」


 俺もトーカーさんにお礼を述べる。


「すいません、今日はありがとうございました」

「いやいや!少しでも、何か思い出せたらいいな。頑張れよ!」


 ありがとうございました、ともう一度礼を述べて、見送る彼に背を向けて、俺は後にするスタックスさんに続いて行った。

扉を開けると、外からぐんと冷えた空気が抜けてくる。

だが、心の中は何か温かいものでたくさん、満たされているような気がした。


「よし、アール!帰ろうか!」

「はい!しばらく、お世話になります!」


 彼の呼び掛けに、俺は明朗な言葉を返し頭を下げた。

笑みを浮かべてから、彼は頷いてすたすたと歩き始めていく。

アール、と言う響きを胸に刻みながら、彼の背中を追いかけていった。




 -続-

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