遥か遠くの憧れへ

ゆらゆら。ゆらゆら。


何も無い白い空間で、私は揺蕩っていた。


ゆらゆら。ゆらゆらと。


足元も確かでない白い闇の中、ただただ頼りなく。




何処かから靄が集まり、闇の中に音もなく景色を作り出していく。


『………?』


それは何処にでもあるありふれた光景。他愛ない家族の形。

揺蕩う“私“は、引き寄せられるように景色へと引き込まれていく。


その奥にあるのは羨望と渇望、そして――





確かな苛立ち。











『おかあさーん……!』

『んー?どうしたの■■?』


そこは何の変哲もない、台所。『私』はどうやら料理をしているらしい。

そんな時、泣きじゃくる幼子が走り寄ってきて私の足へと縋り付く。名前を呼んだのだろうか。残念ながら、そこだけノイズが走ったせいで分からなかったけれど。

穏やかな声を出しながらも慎重に包丁を手放す『私』から発せられるその柔らかな声を、私は当に他人事の様に感じていた。


『おとうさんがいじめるー……!』

『あらら』


幼子の顔は、先程の靄が纏わりついているせいで不鮮明で、僅かに口元が垣間見えるのみ。けれど何故だろう。きっと可愛らしい子なのだと、不思議とそう確信出来た。


『お父さん?いじめちゃ駄目だよ』

『いじめてないいじめてない』


そして後ろからやってくる、よく知っているようで何処か大人びた顔。

これまた靄がかかっているから分からない筈なのに、私の目はいともたやすく、そして鮮明にその奥の輪郭を映し出す。


『かちをゆずったぁ〜…』

『ええやん』

『もっとさりげなくわからないかたちでかつわたしがいいかんじにゆーえつかんにひたれるかんじでぶざまにまけてこっけいになきわめいてくれなくちゃぁ…』

『むっずっ!!』

『■な姉はやってくれたのにぃ』

『恥っずっ!!』


幼子のあんまりと言えばあんまりな無理難題に、たまらずずっこけるお父さん。それを見て『私』が微笑ましそうに笑っている。

私から見てもその親子はとても仲睦まじく、そして温かかった。誰もがそう思うだろう。

けれども私は――


『ふふっじゃあ■■、次はお母さんと勝負しようか』

『え?いいよ、おかあさんパズルいがいくそざこなめくじだもん』

『言葉遣い』


私は―――












「……………」


何とも不快な目覚めだった。

目を開ければ、そこは四方をカーテンに囲まれた白く、狭い空間。鼻腔に届くのは、微かな薬品の匂い。

まあとどのつまり、保健室のベッドの上。


「……むかつき」


それは無意識に漏れた言葉。どれだけ手を伸ばしたところで、どれだけ心から望んだところで、私には決して辿り着けない夢の果て。わざわざそんなものを見せつけてくれるだなんて、神様というものは随分と暇を持て余している様だ。


「起きて早々、物騒ですねお嬢さん」

「っ」


しゃっ、と音を立ててカーテンが開く。オレンジ色の光が差し込む先にいたのは、親の顔と同じくらい、毎日、毎朝目にしている愛しい人。


「…おはよう、賢くん」

「おう、おはよう。……大丈夫か?」

「……うん、ごめ…じゃないね、ありがとう」


思わず口をついてしまった言葉。あまり聞かれたくなかったその言葉。

苛立ちが募りに募った結果、当たり前な気配を見落としていたらしい。何て情けない。


「悪い夢でも見たのか?」

「ううん、とっても良い夢だったよ」

「だからむかつく、と」

「………」


もう、ツッコまなくたっていいのに。私の捻くれた心の中なんてとっくにお見通しなくせに。


「聞きましょうか?」

「言いません」


…けれど、何だかんだ言葉にして吐き出すことで救われることもあるのだ。勿論、何もかもを吐き出したりしたらいくら彼でも溜まったものではないだろうけど、でも、彼は受け止めてくれるのだろう。きっといつもみたいにおどけた顔の奥に傷を隠しながら。


「………」


だからいつまでもこうやって甘えてしまう。


「…ねぇ、きぇ、…賢くん」

「なぁにすぃ乃ちゃん」

「…………。………………子供、好き?」

「好きじゃなかったらしょっちゅう一緒にはしゃがないだろ」

「………」


シンプルで、だからこそ心に刺さる答え。

分かっていた。彼と共に歩むということは、彼から一つの選択肢を奪うということだ。


「だよね」


それは私の望むことではない。彼には彼らしく、彼の道を歩んでいってほしい。幼い頃からずっと支えられてきた私だからこそ、これ以上彼を縛り付けることは耐えられなかった。


「ま、うちの町子供は多いからな。その上狭いから知った顔ばっかだし」

「うん」


ああ。


「一人二人子供いないところで何も寂しくなんてないだろ」

「……………」

「だからそんな泣きそうな笑顔で無理矢理納得しようとするなって」

「………………」


ああ。彼はいつもそうだ。いつも私の声にならない想いを汲み取って、寄り添ってくれる。離れられる訳が無い。手放せる訳が無い。私が今日も生きていこうと思えるのは彼がいるからだ。彼こそが私にとっての生きる理由なのだ。


だから


「…よいしょ」

「何だ、もう動けるのか」

「うん」


お母さんもお父さんも、お姉ちゃんもヒナも凪沙も葵ちゃんもついでに星野くんも。

皆がいるから私は今日も立ち上がれる。立ち上がろうと奮い立てる。


神様の嫌がらせが何だというのだ。彼風に言えば、こなくそなんぼのもんじゃいこのやろう。

だったらその期待に応えてやろうではないか。精々、あんな夢見せなければ良かったと天から苦笑いしていればいい。私は絶対そっちにいってやらない。

生き抜いて生き抜いて笑顔で天寿を全うしてやる。


だから、後少し、頑張ろう。


「賢くん」

「はい?」

「私ちょっと勉強してくる」

「今から!?」

「無論」

「ちょ、ちょちょっ…お嬢ちゃんぶっ倒れたばかりやで!!??」

「やらいでか」

「何なの突然の男前キャラ!!」




遥か彼方のあの景色に、辿り着くために。












「…なんてこともあったなぁ」

「もう…恥ずかしいよ」


顔を赤く染め、生娘の様に恥じらいながら、私は腕の中にいる小さな命を眺めてにやついていた。

果て無き夢を追い求め続けて、届かなかった筈の未来を掴み取って、私は今、一つの答えを見出していた。


「…志乃」

「うん」

「……今、幸せか?」

「勿論っ!」

「そうか………」


それは、私の一つの到達点―――











「でもこたろうにそれっぽい服着せて悦に浸るのはどうかと思うんですよね僕」

「ああぁ〜〜〜〜こたろう可愛いよぉ〜〜♡そのお洋服似合ってまちゅねぇ〜〜♡うふふこたちゃんミルク飲むぅ??」

「がるるるるるるるるぁっ!!!!」

「その威嚇はもうどうあがいても相容れない不倶戴天の間柄なのよ」


微塵の遠慮なく、蕩けた笑顔で頬をぐりぐり擦り寄せる私に対して、歯を剥き出しにして怒りを顕にするうちの子。その抑えきれぬ憤怒たるや、賢くん曰く最早B.O.W。


「そうだねこたろう私達の間にこれ以上余計な愛なんて入る余地は無いよねもうらぶらぶだもん」

「あいいれないだけに…ってばか」


いつか誰かが言っていた。『可愛がりすぎて、故に嫌われる。それが月城志乃』と。


……。


ちょっと何言ってるか分からない。だって初めはあんなに牙を剥いていたこたろうさんも、今ではすっかりこの通り。


「……………………わん………」


ね。


可愛いと言えば、凪沙の所の猫ちゃんも可愛いよね。この間ね、1日中肉球触ってたらね、その肉球でね、往復ビンタされちゃった。えへえへ。


「あ」


他の女にうつつを抜かした事が気に入らなかったのか、私に生まれた僅かな隙をつき這々の体で抜け出したこたろうが、そのまま部屋の外へと脱兎の如く逃げ出してしまった。


「うー何でぇこたろう…、可愛いのにぃ」

「そりゃあ『可愛い』って言葉耳元であんだけ聞かされたらノイローゼ起こしますわ」

「めんこい……」

「変えりゃいいってもんじゃない」


分かっている。流石に無理があることは。でもいいじゃないか。ちょっと遊ぶくらい。そうでなくてもせっかくの小さな家族、着飾りたいのが親心。


「……ふふ。…やっぱり可愛いなぁ」

「もー分かったって」


そして、未だこたろうの消えたその先を眺めながら、私はぽつりと小さく呟く。

背後できっと彼は呆れているのだろう。見なくても感じ取れる。


「……本当に分かってる?」

「…え?」


だから、振り向かないままに、もう一度ぽつりと。


「…そりゃあ、まあ、分かるだろ」

「……そういうとこだよ」

「ええ……?」


お馴染みのその言葉、何処か不満そうなその声色。一体何故なのか、君は分かってくれるだろうか。


「賢くん賢くん」

「……ん?」


さりとて気を取り直し、私は身体を反転させると、自身の膝をぽんぽんと叩く。

今更、言わずとも分かる、それは私が膝枕をしたい時の合図。私がしたい、というのがポイント。ここ、テストに出ます。


「…もうちょっと、練習しておきたいな?はい、どーぞ」

「はぁ?」

「……もう。…えー…そう、ほら、6月だしね。謂わばお嫁さん修行」

「気が早いなぁ」

「………かもね?」


適当に理由をつければ、深く聞くこともなく彼が大人しくすとんと。

私が頭を撫でれば、彼は黙って目を閉じる。いつも通りの、掛け替えの無い時間。




どれだけ時間が経っただろうか。会話もない静かな部屋で、私はまた、ぽつりと口を開く。


「…さっき、幸せかって聞いたよね?」

「………」


返事は無い。きっと寝てしまったのだろう。

見下ろせば、そこには子供の様な寝顔。これまたいつも通りで、だからこそ笑みがこぼれてしまう。

この景色を眺める為に、私はここまでやってきたのだ。


「…私はね」


…残念ながら、夢見た彼方の景色にはまだ遠かったけど。


でもいつか。


いつかきっと。


今度は二人で歩いていけたらいいな。


「今までも、これからも、ずっと幸せだよ」


君がいれば、寂しさなんて感じないから。

ゆっくりと、そこにあることを確かめるように、私は彼の髪に唇を寄せるのだった。

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