今日も明日もこれからも
「いっちに、いっちに…」
陽も登りきらないまだ涼しい朝方。
隣で眠る彼を起こさぬように、私は忍び足で外に出ると念入りに準備運動を済ませ、凝りきった関節を存分に解す。まだまだ真新しいジャージだけどぼちぼち馴染んできたかも。…そして実は上着だけは彼のだったりする。彼の残り香が何とも安心します。袖だけ捲ればちょうどいいしね。
最後に二、三度感触を確かめると、私は隣に微笑みかけた。
「じゃあ、行こっか。こたろう」
「わん!」
きび団子を渡してもいないのにいつの間にか横にやってきた、旅のお供たる黒い仔犬は、その小さな体躯に負けないくらい元気のいい一声を上げて、私と同時に勇ましく一歩を踏み出し
「いい?最初はゆっくり行くからね。まずは身体を慣らす様にじっ」
どひゅん!!!!!
「話聞いて」
二歩目で遥か彼方へと飛んでいった。神速の黒き矢。射手は構えてすらいないのに。一歩目は溜め動作って感じだったのかな?そういうとこだよ本当に。
「……しゅっぱ〜つ………」
朝のジョギングは、たちまち迷子探しに早変わり。毎度いつものことなれど、あの子は私を過大評価しすぎていると思う。私は人間です。何なら普通よりも貧弱な。
繋がれていないリードを虚しく掲げて、軽く走り出しながら遠い目で天を仰ぐ。顔だけを覗かせたお天道様が向こうでニヤニヤと嘲笑っている気がして何とも腹立たしかった。
■
「こたろう〜、こたろうー?…おこたー、…こしあーん…」
何度問いかけた所で返事など無い。人気の少ない町通りに虚しく響く私の声。
最近では私がこたろうを探しまわる哀れな声がご近所様のお手軽目覚ましボイスと化しているというのだから、皆呑気ちゃんがすぎる。
「…ぁ……」
路地を曲がって通りに出て。片隅に見えたのは、嘗てお婆さんが開いていた駄菓子屋……があったはずの場所。
軒先にそれらしき看板は無い。朝方だからシャッターが閉まっている訳でもない。
きっともう長い事使われていないのだろう。具体的には3年程。彼女の家族は既に町の外へと出ていったはず。代わりといっては何だが血の繋がらない喧しい子供達はしょっちゅういたけれど。きっと最後まで寂しくなかったことだろう。
「………」
だけど私はやっぱり寂しいな。…なんて口にしない。
あの厳しくも優しかった瞳はもう何処にも無い。けれど遺されたものはこの胸の中に確かに息づいている。たとえ長い間遠く離れた地にいても、こうして記憶は呼び起こされる。
お久しぶりです。挨拶が遅れてしまいましたね。
帰ってきて間もなく、お墓参りは済ませたはずだけど改めて。…こうして彼女の生きた証を目の当たりにするとまた目の奥がじくじくと。
「うん」
誰もいないお店に軽く一礼。
気を取り直し、迷子探しの再開を。
そして脚を上げた瞬間
「わ」
突然強い突風が襲い掛かり、最近三つ編みにハマっている私の髪が大きく舞い上がった。
「………こっち?」
風の導くままに、踵を返す。
清々しい風は、綺麗に道の続く方向を抜けていた。
…本当に素直じゃないなあ。もっと優しく案内してくれればいいのに。
「行ってきまーす」
案内人に続いて、ゆっくりと走り出す。
いつか聞いたあの声が、また背中を押してくれた気がした。
■
「おはようございまーす」
「おや志乃ちゃん」
「あら、早いわねぇ」
町のお爺さんお婆さんの朝は早い。
何ならお爺さんお婆さんに限らずお店を持つ人も朝は早い。
仕入れの関係だろうか。朝早くから店の前でダンボールに囲まれる八百屋のおじさんおばさんと挨拶を交わしつつ、二、三歩余分に歩いて立ち止まる。
「あのー、こたろう見ませんでしたか…?」
「何だ、また脱走したんかい」
「元気だねぇ」
並ぶ苦笑いと快活な笑み。最早お馴染みの光景となっていることに、もう申し訳なさすら通り越してしまったけれど、この様子ではどうやら見かけてはいないようだ。
「こないだは何処にいたんだったか…」
「河川敷で野球チームの朝練に混ざってました…」
「元気だねぇ」
今回もそんな風だったらいいんだけどなぁ。
目指すは河川敷。取り敢えずの目的地を定め、軽く脚を揉んでからさぁ再出ぱ
「ああ、待ちな志乃ちゃん」
「はい?」
「ちゃんと水分は補給しとかないとな」
「はい…?」
■
「お、おはようございまーす……」
きゅうり片手にジョギングする私を訝しげに見る皆の視線にも決して負けず、ついにやってきました河川敷。……水分?
野球やってるかな野球ー。階段を登って全体が見渡せる位置に上がって、さてさて。
「お」
やってるやってる。朝っぱらから元気だね。プレイボール。
今はバッティングの練習かな?こたろうらしき影は…無いかな?見たところ。
目を凝らし、もっとじーっと。…いない…よね?
徐々に身体が前のめりになる、そんな時。
「うぇうっ!?」
眼の前の、そう遠くない距離にボールが落ちてきた。あっぶない。もうちょっと前にいたら脳天直撃コースだったよ。
『すみませーん!!』
『大丈夫ですかー!?』
少年少女の慌てふためく声に片手を上げて応えながらきゅうりを口に加えると、私は落ちてきたボールを拾い上げ、見様見真似のピッチングで勇ましくボールを構える。確か賢くんはこんな感じで鋭い打球を繰り出していたはず。
「えいっ」
へろへろっ……という擬音が素晴らしく似合うスローボールはまるで見当違いの方向へと飛んでいった。いや、寧ろ飛んでいったっていう表現も合っていないかも。風に煽られ流されるボールは見事に選手の間を抜けてバウンドする。ふぇあ。
ごめんねスポーツ少年達。お姉さんノーコンだった。
『いっちに、いっちに』
『ワン、ツー、ワン、ツー』
苦笑いする子供達から目をそらし、残ったきゅうりを堪能した後、改めて迷子探しへ出ようとすれば、向こうから今度は別の運動部の学生の列が走ってきていることに気づいた。…掛け声揃えないの?
私が来た方向へと向かっているようだ。せっかくなのですれ違いざまにぺこりと会釈。何か男の子達、皆顔赤かったけど大丈夫だろうか。熱中症かな?
「いっちに、いっちに」
「ワン、ツー」
「わん」
「ツー」
それにしてもこたろう何処行ったんだろう。町から出る…なんてことは無いと思うんだけどなぁ。不思議なことにいつもそうなんだよね。どれだけ探し回っても最終的にはいつの間にか家にいる。
かと言って当然、探さない訳にはいかないわけで。
もう一度振り返ってみれば、運動部の子たちの後ろにはマネージャーだろうか。女の子が自転車に乗って後を追従している古き良き光景。そして彼らの横には小さな仔犬。へー、最近の学校ってペット飼ってるんだ。
へー。
…………。
……………。
「…いたー!!」
なんで並走してるのぉ!?自然に馴染みすぎて気づかなかったよぉ!!
急いで後を追い、追いかけ、お、…は、速い…!…運動部に病み上がりの素人が追い付けるわけない。
みるみる離れていく距離。訪れる悲劇的な別れ。世界は私達を何処までも無慈悲に引き裂くというのか。
「こた…こたろうーー!!」
『いっちに、いっちに』
『わん』
『ツー』
「うわーーーーん!!」
『ツー』
長い長い河川敷、青空の下で私の届かぬ叫びが虚しく響き渡っていた。
■
「ぜ……ぜぇ……はぁ………っ…」
「わん」
真っ青な顔で、家に命からがらたどり着いた私は、玄関に着くやいなやその場に崩れ落ちた。こうなった原因様は、遊び足りないのか目を輝かせて無邪気に私の顔を覗き込んでいる。
「ゆ……許さないよ…こたろう……これから…一週間はこしあんって呼ぶからね……」
「!!??」
そんな歯を剥き出して威嚇しても駄目だよ。君はこしあん。可愛い悪魔。
……何でそんな親の仇見る様な反応するの?そんなに嫌だ?こしあん。可愛いのに。緋南は可愛いって言ってくれたよ。緋南だけは。
「…向こうで…は、反省…してなさい……」
「くーん……」
兎にも角にも、今日は私に分がある。…悪いことしたかな?いや、厳しく躾けないと。寂しげに俯くこたろうならぬこしあんを置いて汗を流すと、私は彼の、いや彼と私の部屋へ。
確か今日は午前中から講義があると言っていたはず。そろそろ起こす頃合いだろう。
一応ノックして、部屋に入る。主は未だに夢の中。私が変わり身として差し込んだ抱きまくらを抱いて眠るその顔は何とも安らかで。
「………」
きゅんきゅんする胸とにまにまする顔を何とか抑えこんで、取り敢えず今日の一枚を撮影。至近距離で彼を舐め回す様に散々に眺め、満足した後、漸く私は部屋にお日様をおもてなしする。
カーテンを開ければ何とも心地良い日光が部屋に差し込んだ。走った時からわかっていたけど、今日は本当にいい天気。こんな日は二人でお散歩したいな。彼は何時に講義終わるかな。
「賢くん、朝だよ」
眠る彼の耳元に唇を寄せ、囁くように。もちろん反応は無い。
「けーんくん」
「……後、…五分…」
「ふふ、仕方ないなぁ」
はい五分だね。じゃあ明日は更に五分早く起こそうか。悪あがきを重ね続けて起きる時間が寧ろ早まっていることに彼はいつ気づくだろうか。私はまだまだ気づかないと思う。
そっと頬に唇を落とすと、私は部屋を後にした。
「さ、て、と…」
今日は何を作ろうかな。パンにしようか、ご飯にしようか。昨日は何作ったっけ。冷蔵庫の残りは、と。
何とも馴染んだ朝のルーティンに、誰もいない台所で人知れず笑みが漏れる。
ああ、幸せだなぁ。私が心からそんなに風に思う未来が来るなんて。
向こうからばたばたと忙しない物音が響いてくる。間もなく愛しい人が寝ぼけ眼を見せるのだろう。鏡の前で笑顔の練習。うん完璧。今日も私は絶好ちょ…いや筋肉痛かな。
「おはよ〜………」
まだ夢現な様子の彼に振り返り、そして毎日毎日飽きもしないで笑い、祈るのだ。
「おはよう。賢くん」
今日も明日もこれからも、何の変哲もない、退屈で、変わり映えのしない
かけがえのない一日になりますように。
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