第9話 しょっぱい日

「けほっ」


誰もいない静かな部屋に私の咳の音だけが木霊する。

外から聞こえる虫の声が変に耳に残って、気を紛らわすための何度目かの寝返りをうった。


その日、私は体調が悪かった。…別に珍しくもない。寧ろ最近は調子が良すぎたくらい。


「楽しいなぁ」


仲の良いクラスメイトがいて、分かりづらいけど素直な後輩がいて、お姉ちゃんがいて、賢くんがいる。


恵まれすぎなくらいだ。毎日が楽しくてたまらない。明日は何をしようかなだなんて、そんな事で毎日頭を悩ませる日が来るなんて。


「寂しいなぁ」


だから、こういう日は人一倍心細くなる。ある意味では弱くなったと思う。でも決して恥ずかしくなんてなかった。それは彼が創り上げ、この町が育んでくれた私の誇りだから。


チラリと壁に掛けた時計に目を向ける。…そろそろ学校も終わる頃だろうか。


「賢くん何してるかなぁ」


最後まで心配そうにこちらを見つめていた朝の姿を思い出して、また少し寂しくなる。すぐに帰ると言った彼に、私に気兼ねせず好きに時間を使ってとは言ったけれど、それで帰って来なければやっぱり寂しくない訳ではない訳で。


「電話…」


無意識に携帯に手を伸ばしかけて、止める。駄目だ。すぐに甘えようとしてしまう。戻した腕をそのまま顔に乗せる。とん、という軽い衝撃でまた頭が気持ち悪くなった。


「………」


顔を隠したまま目線を動かして部屋を見回した。女の子の部屋にしては、あまり物のない地味な部屋。

まあ、最近は彼の部屋に置きっぱなしにすることが増えてきたというだけなのだけど。


「失敗したなぁ」


読みかけの小説も部屋に置いてきてしまった。まぁ起き上がる気にもならないし、あったところでそんなに読むこともないだろうけど。やることがないと、何かしなければと焦ってしまうのは人間の性みたいなものなのだろう。


「……寝よう…」


眠くないけれど。目を瞑っていれば、きっとすぐに時間が過ぎて、皆が帰ってくるはずだ。いつの間にか虫の声が止んで、時計が時を刻む音だけが嫌に耳に残る。時たまくるこの時間は、あまり好きではなかった。







「……うん?」


幸いなことにいつの間にか眠ることができていたらしい。窓の外はいつの間にか暗くなり始めていた。少し楽になった身体を起こすと、部屋の中を見渡す。誰もいない。


「…まぁ、そうだよね」


寝込んでいるのだ。彼だって自分の家に帰っているはずだろう。


「………ん」


そんな時、何かいい匂いが仄かに香った気がした。

もうお母さんが帰ってきたのだろうか。


椅子に掛けていた、昔彼がくれた大きなショールを纏うと部屋を出て、フラフラと匂いに誘われるようにリビングに入る。


「お」


彼が、台所に立っていた。


「…賢くん?」

「起きたのか」


まだ意識はぼんやりしていたけれど、彼の存在だけははっきりと頭が認識して。そのままペタペタと近づいて、彼の手元を覗き込む。


「…お粥」

「ああ」

「…作ってくれたの?」

「絶賛大苦戦中だ。助けてくれ」


顔を顰める彼の横には私が作ったレシピノート。でもこれって。私は無言で彼を見つめる。

私の言いたいことを察したのだろう。彼がジト目で私を見返す。


「お前これ『いい感じに』とか『気持ち少なめ』とかふんわりした書き方やめろよ…。こちとら右も左も分からないど素人だぞ…」

「うん…」


だよね。

私は分かるけど、碌に料理したことの無い彼からしたら何の参考にもならないだろう。


「おばさんももうすぐ帰るって。これ作ったら俺も帰るつもりだったけど」

「そっか」


帰っちゃうのか。

寂しいな、なんて。口にはしないけれど。


「後それ」

「ん?」


賢くんがテーブルを指さした。その上にはいくつかのノートが纏められている。


「あいつらが今日の分の授業まとめてくれたぞ。明日休みだから来週返してくれればいいってさ」

「………そっ、か」


ゆっくりとテーブルに近づいて、ノートを手に取る。表紙に何枚か付箋が貼られていた。


『ちゃんとご飯食べて寝なよ』

『ついでにここ教えて』

『熱で火照った身体ってエロいよね』


「ふふ」


書かれた文字だけで、それを言っているクラスメイトの顔がパッと頭に浮かんで思わず笑みがこぼれる。

取り敢えず最後の付箋を握り潰して、ノートを一冊手に取ると、胸にそっと抱きしめた。

やっぱり恵まれすぎだ。俯いた拍子に、紙に水滴が落ちそうになって慌てて目元を拭う。


「志乃。出来たぞ。食えるか」

「食べる」


暫くして、机でノートを読んでいた私の元へ、賢くんがお粥を持ってきてくれる。…彼らしい豪快な量だ。ちょっとたじろいだけど、まぁ、いける。と思う。多分。


「ほら」

「………」


スプーンが差し出されて、照れ隠しでもないけど差し出した彼の手をとって、ちょっとした悪戯心を口にする。


「ふーふーしてくれる?」

「………流石に自分でやれ」

「ちぇ」


まあ、それはそうだ。

言われた通りに自分で冷まして、少しずつ口にする。………


「……どうだ」


彼自身、あまり自信は無いのだろう。気遣わしげにこちらを見つめるその視線に、不思議と心が温かくなる。それはきっと熱のせい。


「………」

「志乃」


もう一度口にして。


「美味しいよ」

「そ、そうか。…良かった」


ちょっと量が多いけどね。けど、全部食べよう。せっかく彼が作ってくれたんだから。

少しづつ、少しづつ、ゆっくり噛みしめるように口にした。


胸を撫で下ろした賢くんが静かに私の隣に座り、頬杖をついて目を閉じる。

そのまま私が食べ終わるまで、彼は何も言わず隣にいてくれた。






ふふ、しょっぱいなぁ。


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