第4話 時雨


「アリステアー。一緒に帰りましょー。」

甲斐は学年が上の教室でも、物怖じしない。アリステアが所属する教室によく顔を出す。最初こそ小さくざわつく教室内だったが、今ではもう日常となり誰も気にしなくなった。

「甲斐…。校門で待ち合わせって言ったろ。」

連絡の意味が無い、とアリステアは言う。

「今日、蒸し暑いじゃん。」

アリステアの席の前まで来て甲斐は、早く、と彼を急かした。

「何をそんなに急いでんのさ。」

「だって、雨降りそうなんだもん。」

甲斐にそう言われて、窓の外を見る。見上げた先の空は灰色の雲が分厚く覆いかぶさるように広がっていた。心なしか鳥たちも慌てて寝床に戻るように空を駆けている。

「…わかった。でも、ちょい待て。学級日誌書いて、職員室に届けねえと。」

はーい、と行儀良く返事をして、甲斐は前の席の椅子にどっかと座った。もう前の席の生徒がいないからいいものの、本当に甲斐はそういうところを気にしない。

今日は全校がクラブと部活が休みの日で、一斉の帰宅が義務づけられている。

「ねえ、カフェに寄っていこうよ。」

「今月、金欠なんだよね…。」

「あ。今日、新作ゲームの発売日じゃん!」

「塾、かったりいなあ。」

二年生の生徒たちはそれぞれ思うことを口にしながら、教室を出て行った。やがて教室に残ったのは、アリステアと甲斐の二人。

しんとした静けさを孕む教室で、アリステアは学級日誌に今日の授業内容を書き込んでいく。

「…。」

コツコツ、と今日起こった出来事欄に何を書こうか悩み、シャープペンの先を机に叩きつける。

「アリステア?どしたん。」

前の席で文庫本を読んでいた甲斐が、顔を上げて尋ねた。

「え?あー…、出来事欄。」

「そんなの、真剣に悩んでんのかー。」

貸して、と言って甲斐はアリステアからシャープペンを取り上げて、学級日誌に文字を書き込む。

「『今日も良い日だった』って…。適当すぎないか。」

甲斐の右肩上がりで少しシャープな印象を持つ字を読んで、アリステアは突っ込む。

「えー、ダメかな。うちのクラスはこれを書き続けて、何日目で注意されるかって遊びが流行ってるけどな。」

「結局、注意されるんじゃん。」

アリステアが呆れていると、甲斐は文庫本を鞄にしまいながら帰り支度を始める。

「大丈夫、大丈夫。一日目で注意はレアだから。」

「レア引く可能性もあんだろ…。」

ため息を吐きながらも、最終的にアリステアもこれを良しとして鞄を持って席を立つのだった。

職員室に寄り、担任が学級日誌の中身を確認する前に昇降口へと急ぐ。高校を出る頃には、大分と空に雨雲が近づいていた。

家路につく二人が住宅街を歩いていると、鼻の先にポッと雨粒が当たった。

「甲斐、折りたたみ傘とか持ってる?」

手の甲で、濡れた鼻を拭いながら問う。

「んな、気の利いたもん持ってねーよ。」

「だよな。俺も。」

雨粒は段々大きくなり、地面を叩く音が大きくなってきた。「うっわ。本降り!」

甲斐が駆け出すのを合図に、アリステアも走る。

「甲斐、雨宿りしよう!」

雨音に負けぬように声を張って、アリステアは住宅街にぽつんと存在する公園に甲斐を導いた。その公園には半休型の遊具があり、滑り台の他に中に入れる構造になっていた。せいぜい小学生をターゲットにした作りの遊具は背が低かったが、二人分は雨宿りが出来る広さが保たれていた。甲斐とアリステアは、かがみながら中に入る。湿気で蒸すが、雨に濡れる不快感は防げた。

「この遊具、まだあったんだな。」

甲斐は鞄を横に置いて、ワイシャツの首元を緩める。その鎖骨のくぼみには雨粒が一滴溜まっていた。半袖の淵が雨水に濡れて肌に吸い付く様が妙に印象的に記憶に残る。

「何?」

じっと見つめていたのがバレて、アリステアは気まずくふっと視線をそらした。

「別に。」

「ふうん?アリステア、長袖で暑くねえの。」

衣替えを終えた季節でも、アリステアは長袖のワイシャツを着込んでいる。

「暑いよ。」

「半袖にすれば良いのに。」

アリステアは服の上から自らの左腕をさすった。

「やだよ。目立つじゃん。」

「ああ、リストカット痕?別に気にしないけどな。」

何でも無いことのように甲斐は言う。

「それは甲斐だけだよ。」

アリステアは遊具に開いた穴から遠く住宅街の奥を見る。雨の所為でその景色はまるで墨絵のように霞んでいた。

「じゃあ、今だけでも脱げば?僕しかいないじゃん。」

「はあ?」

視線を戻すと、甲斐が好奇心を目色に隠さずアリステアの元に四つん這いで近づいてくるところだった。近くまで来ると、甲斐はアリステアのワイシャツのボタンを外そうと手を伸ばす。

「やだって。バカ!」

後ずさろうにも、すぐに壁にぶつかってしまう。逃げられない状況で、甲斐は楽しそうだった。

「いいじゃん。減るもんじゃないし。」

「精神がすり減るわ!!」

嫌がるアリステアの防ごうとする手首を掴んで、甲斐は器用に片手でボタンを外す。

「うまいこと言うなあ。…あ?」

「…っ、」


見られた。


アリステアの布地で隠れた胸元にあったのは、いくつもの火傷の痕。あまりにも綺麗な円形の火傷は、偶然では無く人為的なものと証明していた。

甲斐の視線が注がれる。

「…アリステア、これって自傷?煙草だよね。」

そう言うと甲斐は何故かアリステアの首元に鼻先を埋める。そのささやかな刺激に、アリステアの肩が小さく震える。

「そうだよ。…自分でやった。」

「嘘。」

すんすんと甲斐の鼻が僅かに動くがわかる距離感。

「服が匂うのは必然として、アリステアの汗。煙草臭くないし。」

「…嗅ぐなよ。」

気まずくて、恥ずかしくて、アリステアは顔を横に向ける。甲斐は顔を上げて、その視線を遮るようにアリステアの頬に手を添えてやんわりと正面を向かわせた。そしてアリステアと目線を合わせて、改めて問う。

「誰に付けられた?」

甲斐の瞳に自分の情けない顔が写っているのがわかる。

「誰でもいいだろ。」

「いいけど、その誰かの所為でアリステアの目色が濁ってると思うと、腹が立つ。」

改めて、甲斐は自分の眼球にしか興味が無いことを知った。それが妙に残念に思ったのが可笑しくて、アリステアは笑ってしまう。ひとしきり笑い、ふう、とため息を吐くように呼吸を整える。

「叔父だよ。」

「へえ。…ねえ、全部見せろよ。」

柔らかな声で、命令形。その真逆の性質は、化学反応をおこすかのように妙に気分を興奮させた。

「いいよ。もう、どうでも。」

抵抗を止めたアリステアの手首を解いて、甲斐は無言で彼のワイシャツのボタンを外していく。

アリステアの徐々にあらわになる素肌を覆うインナーの下に、甲斐は緩く触るように手を差し入れた。そのゆっくりと緩慢な仕草に、背筋がぞくぞくとした。

ひた、と触れる甲斐の手のひら。熱くて、指紋さえもわかるような錯覚を覚える。

「っ!」

昨日出来たばかりの新しい火傷に触れられて、アリステアは息を呑んだ。痺れるような痛みが電気信号となって、脳に伝わる。

「熱持ってる。痛い?」

「少し。」

指先でなぞると綺麗な素肌に残る醜い凹凸がありありとわかった。少し固くなった痕や、熱を持つ真新しい痕が痛々しいと甲斐は思う。

「アリステアの死にたい理由って、これ?」

「本当…、甲斐ってデリカシーない。」

遊具の外壁を叩く雨音が小さくなってきた。吹き込んでくる飛沫がやがて、金色に染まっていく。

「雨、上がったかな。」

甲斐はふっと目線を反らし、小さな丸い穴から外を覗く。不意に差した日光に目を細めた。

「通り雨だったらしいね。」

その隙にアリステアは開けたワイシャツを正した。甲斐は先に狭い遊具の中から這い出る。

「あー…。天使の梯子が降りてるね。」

「何だって?」

甲斐の後を追って、アリステアも外に出てきて彼の視線の先を追った。

「あれ。」

空に向かって指を差す甲斐。空は蒼色を滲ませて、灰色の分厚い雲の狭間から光を地上に降ろしている。光は幾重にもなり、濃い白の色をしていた。

「画家のレンブラントが好んだモチーフで、レンブラント光線とも呼ばれてる。」

その荘厳な光の景色に、アリステアは久しぶりに空を見上げたことに気が付いた。

「…ふーん。誰か死んだのかな。」

天使のお迎えの梯子なら、それはきっと最期に見る絶景なのだろうと思う。

「かもねえ。」

甲斐は、静かに笑った。

「人間なんて三秒に一人は死んでるから、今、死んだのはよっぽどの聖人君子じゃない?」

僕は絶対に選ばれないな、と言葉を紡ぐ甲斐は特別羨ましい表情ではなく、至極当然だと思っているようだった。

「ねえ、アリステア。」

「何?」

アリステアは視線を甲斐に戻す。

「聖人に選ばれないついでに、叔父さんを殺してあげようか。」

二人の視線が手を取り合うように絡まり合う。

「バーカ。ついで、で人の保護者を殺すなよ。」

その視線を振りほどいたのは、アリステアの方だった。そして歩き出して、公園の敷地を出る。甲斐も後を追って、水にぬかるんだ土を蹴ってアスファルトの道路に足を踏み出した。

「…甲斐は、さ。人を殺すことに躊躇いはないのか?」

「え?僕、そんなサイコに見える?」

見える、と正直にアリステアが頷くと、甲斐は考え込むように口元に手を当てた。

「そうだなあ…。僕にとって、人間って眼球の器でしかないから。別に皿を割っても、よっぽどお気に入りの物じゃなければそんなに後悔ってしないだろ?あ、割っちゃった、ぐらいで。」

「眼球って、そんなに特別なのか。」

甲斐は目を丸くして、アリステアを見る。そして、当然とばかりに断言するのだった。

「当たり前だ。」

涙に濡れた表面が最高に色っぽいとか、丸い形がコケティッシュでかわいいだとか。白目は肌と同じで色が白いほど僕は興奮する、と甲斐は語った。その目色は熱が帯びて、嬉しそうにらんらんと光っている。それは好みの芸能人について語る男子高校生のようだった。

「わかった、悪かった。甲斐にとって、眼球はそこまで熱く語れるものなんだな。」

アリステアは甲斐のマシンガントークを止めに入る。

「えー。まだまだ序の口なんだけど…。」

唇を尖らせる甲斐を見て、アリステアは苦笑するのだった。

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