第3話 好意


「甲斐。紅茶、一口。」

昼休み、学年の違う僕たちは非常階段の踊り場で落ち合う。

「ん。」

ストローを差したばかりの飲みかけのパックの紅茶を、アリステアに差し出す。

「ありがと。」

ちゅ、と音を立て、アリステアは紅茶を飲んだ。彼の唇は形が良く、顔の中心に収まっている。

「今日も暑いなー…。」

まるで檻のようなフェンスの鉄板に肘を突きながら、心底うざったそうにアリステアは目を細める。その視線の先を追うと遠くの高層ビルの隙間から入道雲が一座、居座っていた。

「あれがさー…、あ、あれって雲のことなんだけど。雲がこっち来れば、雨が降るんじゃね?」

無風に近い地上でも、天高くすればもしかしたら風に乗って雲が流れてくるかも知れない。甲斐は雨が降り始めてすぐの、アスファルトを焼いた籠もるような匂いが好きだった。

「それはそれで、湿気が嫌だ。」

アリステア曰く、その長い亜麻色の髪の毛に熱が籠もるのだそうだ。

「ふーん。」

切れば良いのにと思いつつ、甲斐は口にはしない。アリステアはその長い髪の毛に隠された目色を気にしているようだった。一人占めしたい甲斐は他人にアリステアの眼球を晒したくないので、余計なことは口にしないことにする。

「アリステア、全部甘いパンじゃん。」

彼の手元を見ると、クリームパンが一つとあんパンが二つ鎮座していた。

「今日は購買戦争に負けたんだよ。」

高校生の昼はすさまじい。人気のある惣菜パンは早々に無くなってしまう。

アリステアは、バリ、とあんパンの袋を破いて、大きく口を開けてかぶりつく。見ているだけで胸焼けを起こしそうだ。

「甲斐んとこは、いつも弁当だな。」

甲斐の手元を彩る弁当箱を見て、アリステアは言う。

「母さんの趣味、って本人は言ってた。…食べる?」

「あ、いーの?やった。」

アリステアが視線を注ぐ先にあったたまご焼きを勧めると、甲斐の箸を奪って一個、二個と口に運んだ。

「塩味が舌に心地良いー。色味からして、しょっぱい系のたまご焼きだと思ってたんだよね。」

確かに、森野家のたまご焼きは普通のものよりも茶色味が濃い気がする。

「そうそう。納豆についてる出汁醤油あるじゃん?小さいやつ。あれを入れてるらしい。」

へえ、と頷くアリステアにたまご焼きを完食され、甲斐は他のおかずは守るべく弁当を死守するのだった。

しばらく無言で、二人は昼食を摂った。ほぼ外にある非常階段の踊り場、梅雨が来る前に新たに食事場所を開発しなければならない。

「こうもさ、天気が良いと死にたくなるよなー。」

アリステアが朗らかに言う。中庭のバスケットコートでは女子生徒たちが無邪気にバスケを楽しんでいるのが見える。

「普通、逆じゃね。雨の方が鬱だろ。」

甲斐は不思議そうに首を傾げる。自主練、もしくは戯れだろうか。反対の校舎から軽やかなピアノの音色が聞こえてくる。

「死ぬときは晴れた日の方が気持ちよさそうじゃん。」

アリステアの左手首に自然と目が行った。校庭の片隅で、男子生徒がキャッチボールをしている。その近くの木陰では甲斐たちと同じく、男子生徒の仲間がのんびりと昼食を摂っていた。

「死ぬのって気持ちいいんかな。」

「バッカ、お前。死ぬのが苦しいとか、悲しすぎんだろーが。」

死ぬこと自体が悲しい気もするが、アリステアは違うらしい。

「それに苦しかったら、俺、多分長生きするよ?甲斐はそれだと不都合なんじゃん?」

「あー…。まあ…。」

初めて出会った保健室。甲斐はアリステアに自分の性癖をすでに暴露している。

「俺の目が欲しいとか、本当趣味が悪いわ。」

アリステアは自身の片目の瞼にそっと触れながら言う。

「目が欲しい時点で、悪趣味だけどな。」

その手を取って、甲斐はやんわりと自分の口元に運ぶ。丁度、瞼に触れた指先に唇を落としてキスをした。アリステアは嫌がったり、手を振りほどく事もしない。甲斐の行動を許し、受け入れる。

「自覚あんのか。損な性格だな。」

「損な性格とか、お互い様じゃん?嫌じゃねえの。」

別に、とアリステアはささやき声にも似た小さな声で呟いた。そして続ける。

「俺のこと、いつか殺してくれるんだろ。」

死にたがりのリストカッターであるアリステアは、どこか甘みを帯びた声で甲斐に問う。

「…よっぽど、欲求が高まったらね。」

アリステアの手を押し返して、甲斐は目をそらすように返却された紅茶のパックに口を付けた。紅茶の渋み、ミルクのまろやかさに砂糖の甘さが口腔内に広がる。

「目を取り出すのってさ、生きてたら相当の苦痛だから。だから、殺してから採取するって言われたときは、相当痺れたよ。」

そう言ってアリステアは、右の手のひらで下腹を撫でる仕草をした。

「脳内子宮が超疼いた。」

「えー…。いやーん。」

軽口を叩きながら、甲斐は弁当のおかずを口に運ぶ。いつもと同じ味付けのポテトサラダが美味しい。

「マジだよ。きっと甲斐なら最高に気持ちよく殺してくれるんだろうなって思った。」

いつの間にかあんパン二つを平らげたアリステアは、クリームパンに手を出した。

「え、何。腹上死希望とか?女の子の協力が必要じゃん。」

「男のロマンだよなあ。」

うんうんと頷くアリステアに、面倒なことになったな、と甲斐は思う。

「あー、でも俺、甲斐とならセックス出来るかも。」

あっけらかんとアリステアは爆弾発言を投下する。

「甲斐、何気に綺麗な顔してるし。髪の毛が真っ直ぐで黒くて、目元の涙ぼくろとかセクシーだと思うよ。」

「はあ、どうも。」

甲斐の気のない返事にアリステアは豪快に笑う。

「クールだなあ、甲斐は!じゃあさ、」

アリステアは甲斐の肩にしなだれるように、頭を乗せた。

「セックスするときは、俺の目を好きにしていいって言ったら?」

好きにしていいアリステアの眼球。

「それは…、とても良い。」

甲斐の口から思わず、本音が零れていた。その本音に、アリステアはいよいよ腹を抱えた。頭を上げてけたけたと笑いながら、甲斐の肩を強く叩いた。

「難儀な性癖だな。」

くくく、と鳩のように笑うアリステアの瞳の色が、長い前髪から忍ぶように柔らかく光る。

好きだ、と甲斐は思った。


初めて、甲斐に見つめられたとき。その視線の強さに、俺はたじろいでしまった。

五月にしては日差しが強い、暑い日だった。

「アリステア。君の眼球は…すごく良いね。」

保健室の壁際に追いやられて困惑してる最中、まるで口説かれているようだと思った。

左にあるぽつんとある涙ぼくろの所為で、真っ黒な瞳に自然と目が行く。口元は笑みをたたえているのに、その目は全く笑っていない。

甲斐は、アリステアのコンプレックスの一つである薄い色彩の瞳…、いや眼球を好きだと言った。

「本当に…。本当に、理想の眼球だ。」

アリステアの頬に触れていた手のひらを滑らせて、濡れた眼球ギリギリに指先を近づける。

動けない。

動けばそのまま、眼球をえぐられそうだ。

「…眼球って、マニアックだな。」

喉が渇いて、思いのほか引きつった声になってしまった。「そうだよ、アリステア。僕は世の中でマイノリティな眼球性愛者だ。…緊張してる?瞳孔の大きさが変わった。」

こくりと生唾を飲む音が、どちらからのものかわからないまま鼓膜に響く。

「正直に言えば、今すぐにでも君の眼球を取り出したい。けど…、それは相当な苦痛を伴うだろうから、それはアリステアを殺してからにする。」

今、単純に死の淵に立っているはずなのに、アリステアは恐怖よりも興奮が勝っていた。自分の死に、意味を与えられた気がした。

「ねえ、アリステア。」

甲斐の瞳に情欲の色が滲む。

「キスしても良いかな。今。」

「…。」

アリステアの身体は硬直していたが、ぎこちなく頷くと甲斐は、ありがとう、と呟いた。

甲斐の綺麗な顔が視界いっぱいに広がる。その刹那、アリステアはきゅっと瞼を瞑ってしまう。次の瞬間には瞼の上から生温かく柔らかい、甲斐の唇の感触がした。幾度となく口づけられて、時々、瞼を縁取る睫毛を、つん、と唇の先で引っ張られるのがわかる。滑った舌で、瞼の上から眼球の丸みをなぞられて、アリステアの背筋はぞくぞくと粟立ち、熱い波がこみ上げてくるようだった。

「これ、以、上は…、」

手探りで甲斐の肩を押し返す。

「うん。ごめん。」

弱い力でも、甲斐はアリステアの意思を汲んで離れてくれた。

「…どう?これが、僕。気持ち悪いだろ。」

甲斐は随分とすっきりしたような表情で、自らを嘲笑する。白いカーテンが、開け放たれた窓から風をはらみ円錐状に広がった。

「…え…?」

「拒否られても、まだアリステアの眼球が欲しいんだ。」

困惑するアリステアを置いて、甲斐は手のひらを見つめた。その手は僅かに震えていた。寒さでも、怯えでも無く、それは歓喜による震えだったと後に聞いた。

ガラ、と保健室の引き戸が開かれる大きな音が響く。

「!」

はっとして顔を上げると、そこには用事を終えた保健医が立っていた。

「お留守番、ありがとうね。あら?」

恐らく、生徒は甲斐一人だと思っていたのだろう。アリステアの姿を認めて、保健医は首を傾げるように様子を覗う。「原くんも来てたのね。どうしたの?」

生徒一人一人の名前を覚えていることに感嘆しながら、アリステアはすねたように言った。

「…俺、名字呼び嫌いだって言ってんじゃん。」

「そう?伸びやかで良い名字だと思うけど。」

保健医が朗らかに笑った。その刹那、間延びしたように授業の終了を告げるチャイムが鳴る。

「丁度、授業が終わったわね。森野くんは教室に戻るでしょ。原くんは、どうするの。」

二人を見つめて、保健医は問う。

「俺も行きます。もう…、甲斐が手当てしてくれたんで。」

ちらり、と甲斐を見ながら、アリステアは告げた。

「そう。森野くん、ありがとうね。」

「いえ。じゃあ、失礼します。」

甲斐が頭を小さく下げて保健室を出て行くのを、アリステアも追いかけた。

「甲斐。」

「…。」

甲斐は何も言わずに、足を速める。

「甲斐!」

思いがけず、アリステアの声が大きくなった。

「…何。」

ようやく立ち止まってくれた甲斐は、不機嫌そうに眉をひそめていた。

「どうしたんだよ。」

「…ごめん。邪魔をされて、先生に殺意がわいたから。」

そう言う甲斐は苦しそうに、体操着のシャツの裾を握った。「眼球が絡むと、感情が振り切れる。」

おかしいだろ、と甲斐はか細い声を絞り出す。背後で授業から解放された生徒たちの笑い声や、足音が近づいてくる。やがて合流するざわめきの波に飲まれてしまわないように、アリステアは甲斐の手を取って歩き出した。

「アリステア?」

戸惑った甲斐の声を振り切って、アリステアは使われていない視聴覚室に彼を連れ込んだ。

視聴覚室は窓が閉められ、カーテンも引きっぱなしだったので熱い空気が籠もっている。

「…。」

外の廊下では生徒たちが駆けていく靴音や、それを注意する教員の声が響く。互いに無言で、アリステアは甲斐の腕を掴んだまま向き合った。甲斐の素肌は汗の所為か、ひやりと冷たい。

「…あの、」

アリステアは言葉を探りながら、甲斐を見た。目が合うと、甲斐の瞳がきらりと輝くのがわかった。

「うん。何?」

思いのほか、優しい色の甲斐の声。

「甲斐、は、俺を殺してくれるのか。」

「…アリステアが許してくれるなら。」

甲斐の答えを聞いて、アリステアは頷いた。

「いいよ。殺してくれるなら、甲斐に俺の目をあげても。」

甲斐の喉の奥で、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。そして、アリステアに掴まれた腕を柔く解く。

「だめだよ。そんな簡単に許しては。」

以外にも甲斐に諭されて、アリステアは首を横に振った。

「俺に死んでも良い免罪符をくれ。」

予鈴のチャイムが鳴る。あと5分後には、教室に居なければならない。

「甲斐、」

アリステアは更に甲斐に詰め寄ろうと、近づいた。

「待って。」

甲斐がやんわりとアリステアの肩を抱くようにして止める。「今はだめだ。アリステアの眼球は欲しいけど…、今じゃない。」

アリステアは首を傾げる。

「アリステアの瞳の色が一番綺麗に輝いたときに、そのときに採取したい。」

「今の俺は違うってことか。」

甲斐は頷いた。

「今のアリステアの目色は、不安や不満が滲んでいるから。僕は明るい色の眼球が欲しいんだ。」

あまりにも正直すぎる、その歪んだ願いにアリステアは笑ってしまう。

「じゃあ、そのときが来たら殺してよ。連絡先、交換しよーぜ。」

「いいよ。」

二人はクスクスと笑いながら、まるでいたずらを共有するような気軽さで互いの連絡先を交換するのだった。


それから、数週間が経ったが甲斐は俺を殺そうとはしない。

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