第2話 衝動

そして自分が本当に欲しい眼球が現れない中、数年の時が過ぎていった。

僕は満たされない欲望を抱えながら、高校生になっていた。学ランタイプの学生服。色は紺一色で、小学生の入学式の日に来ていた服を彷彿とさせる。

「行ってきます。」

スラックスを着こなした足に馴染んだ革靴を履き、玄関の扉を開ける。

「待って、待って!お弁当忘れてる。」

母親が台所から顔を出して、僕に慌ただしく手作りの弁当を手渡した。

「ありがとう。」

お弁当の入った手提げ袋を、学生鞄と供に下げて家を出る。騒々しい朝を繰り返していく。この頃にはもう、人の眼球を手に入れることなど不可能だということに気が付いていた。

そう、今日までは。


初夏の季節。二限目の授業は体育で、本格的に太陽が活動し始めるために人気の無い時間帯だった。更に授業内容をマラソンに設定されて、僕たち生徒は校庭の外周を余儀なくされた。もちろん本気で走る生徒などおらず、だらだらと走るのが定番だった。

「あー、かったるいよねー。」

クラスメイトの女子が横に並び、走りながら僕に話しかける。

「そうだね。」

適当に相づちを打ち、会話を交える。

「日焼け止め、もっと強いのにしようかな。でも良いヤツだと高いんだよね。」

クラスメイトは充分白い腕をさすりながらぼやいた。

「バイトすれば?」

「うちの学校、アルバイト禁止じゃーん。」

笑いながらクラスメイトは僕の肩を叩く。その衝撃で、僕はバランスを崩して転んだ。

「え、えっ!ごめん、大丈夫?」

謝るクラスメイトに内心で舌打ちをしつつ、僕は立ち上がる。大丈夫、と言いながら、膝に鈍い痛みを感じて顔をしかめた。見ると、膝が擦り剥いて血が滲んでいた。

「どうした?大丈夫か。」

いつの間にか様子を見に来た体育教師に尋ねられて、僕は答える。

「ちょっと転んだだけです。でも、血が出てるんで保健室に行っていいですか。」

「私、付き添う!」

責任を感じたクラスメイトの申し出をやんわりと断って、体育教師の了承を得た僕は校庭を離脱した。

まだ授業中の校舎を一人歩く免罪符を手に入れた僕は、わざとゆっくりとした歩幅で保健室までの道を辿った。ふと窓から外を見ると、体育のマラソンが再開されている。太陽が意地悪く生徒たちを照らしていた。

校舎内はとても静かで、保護路の喧噪がまるで嘘のようにしんとしている。今頃、授業を受けて教室に拘束されている生徒たちのことを思うと、ちょっとした優越感に浸れた。

廊下の角を曲がると、一階の校舎の端にある保健室の札が見えてきた。

「失礼します。」

カラカラカラと音を立て、保健室の引き戸を開ける。

「あら。どうしたの。」

柔らかな雰囲気の保健医が、脱脂綿作りの手を止めて僕を迎えてくれる。事情を説明するとすぐに膝の手当てをしてくれた。この保険医の目は日本人らしく少し小さめで、僅かに薄い焦げ茶色に光る光彩をしているので僕はよく彼女に懐いていた。

「どうする?授業に戻る?」

保健医は救急箱を棚に片付けながら、僕に問う。

「保健室にいたい。戻っても、見学するだけだし。」

「そうねえ。今の時期、熱中症が心配だからね。ベッドで寝てる人もいないし。」

この授業中だけ特別ね、と言って保健医は僕が保健室にいることを許してくれた。

僕は椅子に座って、机に突っ伏す。

「ねえ、先生。恋がしたいー。」

目の前に、僕好みの眼球は現れないだろうか。心の中にだけ付け足して、僕はぼやく。

「出会いなんていくらでもあるわよ。心配しなくても、そのうちに好きな人が現れるわ。」

うふふ、と笑いながら保健医は脱脂綿作りを再開する。大きめな綿の布を手軽なサイズにはさみを用いて裁断していく手つきは、慣れていて鮮やかだった。サクサクと軽やかな音を立てて、布は切れていく。

「…僕私も手伝おうか。」

保健医の手元に視線を注いでいた僕は気まぐれに申し出てみる。

「いいの?じゃあ、お願いしようかしら。」

布を半分分けてもらい、はさみを構える。大きさを指南してもらって、僕も脱脂綿を切り出す。

「要領が良いわね。脱脂綿作り、全部頼んじゃおうかな。」

冗談交じりに保健医が会話を続ける。僕は、えー、と言いつつも悪い気はしなかった。

そんな和やかな空気を邪魔したのは、校内を繋ぐ内線電話だった。

「ちょっとごめんね。」

そう言って、受話器を取る保健医。二言、三言、と話をして電話を切る。

「先生、職員室にプリントを取りに行ってくるけど。あなた、どうする?」

「それなら留守番してます。」

保健医は少し考えたように首を傾げながら、そして言う。

「そうね、本当はダメだけど…。まあ、いいか。」

すぐ戻るから、と言い残して保健医は保健室を出て行った。一人になった僕は、脱脂綿作りに没頭することにした。

カチコチと壁の時計の秒針が時を刻んでいる。どのぐらいの時間が過ぎたかわからないが、ガラリ、と扉が開く音が響き僕は顔を上げた。

「先生、おかえ、り…、」

「…。」

扉を境に廊下に立っていたのは、一人の男子生徒だった。

全体が明るい色の前髪は長く、目元を隠していて表情がよくわからない。僕ほどではないが背は高く、細い体躯は人形のようだった。

「…保健の先生は?」

小さく、か細い声だった。

「え…と、今は留守です。」

「ふーん、そう。」

じゃあいい、と呟いて踵を返そうとする男子生徒の前髪が僅かに翻り、僕はその目色に一瞬で心が奪われた。

「待って!あの、」

その光彩の色は、甘く美味しそうな琥珀色。

アイちゃんと、同じ色だった。


「何。」

僕をいぶかしむような声色で、立ち止まる男子生徒をどうにか引き留めたかった。

「先生、すぐに戻るって言っていたから。待っていれば、いいんじゃないかな。」

「…。」

右手で左の肘を抱くように立つ男子生徒の左手首にある傷に気が付いた。一閃引かれたような細い筋に、目が覚めるような赤い血液が滲んでいる。血液は玉のように浮かんで、表面張力を破って今にも垂れそうだった。

僕が男子生徒の左手首に視線を注いでいるのを察したのか、彼は気まずそうに腕を背中に回して隠そうとする。

「ええと、それ、は…。」

「リストカットを見るのは、初めて?」

男子生徒はふっと息を漏らして俯き、そして顔を上げて私を見た。キラリと光る金色に近い瞳が、私を縫い止めて離さない。

「…うん。」

「そうか。気持ち悪いだろ。」

自嘲気味に笑い、男子生徒は再び僕に背を向けた。僕は彼の背中を追って、暑くて学ランを脱いだのだろう。ワイシャツの裾をきゅっと摘まんで止めた。

「手当て、するんだろう?僕がやってあげる。」

「…できるのか?」

男子生徒は以外にも僕の手を振りほどくことなく、そっと振り返って様子を覗う。

「ちょっと待ってて。あ、座っていて。」

僕は保健医が救急箱を仕舞っていた棚を思い出しながら、男子生徒に椅子を勧めた。

「あった。」

救急箱を探し当て振り向くと、男子生徒は所在なさげながら勧めた椅子に座って待っていてくれた。

「手を出して、消毒するから。」

「…ん。」

男子生徒の左手首には、真新しい傷の他にいくつもの古い傷痕があった。かさぶたになって固い傷。桃色の肉がふっくらと線状に盛り上がるものや、白くなって皮膚を薄く彩るものまでがある。

「滲みる?」

消毒液を傷口に染みこませながら問う。

「平気。」

男子生徒は素っ気なく言いながら、その視線を僕の手元に注いでいた。

「名前を聞いてもいい?ほら、保健の先生に伝えておかないと行けないから。」

「…原 アリステア。」

アリステアの話を聞くと、彼は二年生で先輩だった。

絆創膏では覆いきれない傷をガーゼで隠し、包帯を巻き、ネットで保護をする。応急手当ての方法を思い出しながらにしては、よくできたと思う。

「ありがとう。」

アリステアは確かめるように、手のひらを握ったり開いたりを繰り返していた。僕はアリステアの長い前髪から見え隠れする目色をじっと見つめていた。

「…あんた、よくそんなに人の目を真っ直ぐ見られるね。」

「え?」

それは決して褒めている声色ではなかった。

「カラコンとかじゃなくて、自前なんだ。ついでに言えば、この髪色も地毛。」

アリステアはふっと自らを蔑み、髪の毛を一房を摘まむ。

「見世物じゃねえんだよ。」

その美しい瞳に睨まれて、僕の腹にきゅっと力がこもった。


欲しい。


反射的にそう思った僕は、自分でも驚く行動に出た。アリステアとの距離を詰めて彼が逃げられない壁際に追いやる。戸惑う彼の丸く白い頬に手を添えて撫で、そっとその視線を邪魔する前髪をカーテンのように横に分けた。

「な、何…。」

あらわになるアリステアの瞳。琥珀色一色に見えていた光彩は以外にも他の色を含んでいた。

黒い瞳孔の縁を、淡い黄緑、鮮やかな黄色、僅かな白でグラデーションのように彩って、最後に赤に近い琥珀色が広がっている。涙の水分により、あの日の鯛のようにぬらりと光ってハイライトを添えた瞳。白目は貧血気味なのか青みを帯びていた。

アリステアの瞳に映る僕と目が合う。

僕は、歪に笑っていた。

「…あんたも、俺と一緒で歪んでいるんだな。」

アリステアが言う。その目色に喜色が、ぽとんとインクが落ちたように広がっていくのがわかる。

「そう?」

「そうだよ。あんたみたいな狂気に触れるのは初めて。」

ゾクゾクする、と言ってアリステアは僕の手に、己の手のひらを重ねた。

「教えてくれ。あんたは、何を抱えているんだ?」

僕ー…、森野 甲斐はアリステアの眼球を手に入れたい。

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