セクスアリス
真崎いみ
第1話 視線
君の視線に、目を奪われた。
例えば、上瞼を針と糸で縫い合わせる。眼球を守る皮膚は薄くて、瞼を縁取る睫毛を、つん、と引っ張るとよく伸びた。
瞬きを禁じられた眼球は十秒もすれば乾き始め、これ以上の乾燥を防ぐために分泌された涙が玉のように滲む。
充血する白目。
歪に形を変える角膜。
開かれる瞳孔。
眼球が好きだ。
物心が付く頃から、人の目をしっかり見る子ね、と褒められた。幼心に涙に潤み、濡れた光を放つ眼球に心が惹かれたことをよく覚えている。
初めて自分だけの眼球を手に入れたのは、6歳の冬。クリスマスだった。
寝ぼけ眼で目覚めたその日の朝、僕の枕元には可愛らしい大きなテディベアが置かれていた。クリーム色の柔らかい毛並みで、琥珀色の瞳を持つ子だった。人目見てこのテディベアを気に入った僕は、その子に『アイ』ちゃんと言う名前を付けて可愛がった。
アイちゃんがいなければ夜に眠れなかったし、もうすぐ卒園する幼稚園にも行きたくなかった。
可愛い。可愛い、僕の友だち。
僕だけに注がれるアイちゃんの視線がお気に入り。
だから、母親の裁縫箱から大きな裁ちなばさみを持ち出して、僕はアイちゃんの小さくつぶらな瞳を切り取ることにした。
刃物の扱いに慣れていない僕は四苦八苦しながら裁ちばさみをぬいぐるみの身体と、半円の瞳の間に刺し込むことに成功する。身体と糸を切断する瞬間、僕は下腹にきゅっと力を込めた。
バツン、
鈍い音を立て、身体から断たれた瞳がころんと膝の上に転がった。瞳は眼球に名前を変えて、アクリル製のそれは小さな幼い子どもの手のひらに良く馴染んだ。
時々部屋の電灯の光にかざしてみたり、ぎゅっと握り締めてみる。自分の体温が作り物の眼球を温めて、本当に生きているようだと錯覚した。
ー…お母さん。アイちゃんの目、取れてどっかに行っちゃった。
僕はさらなる眼球を求めて、母親にささやかな嘘を吐いた。母親はその日のうちにアイちゃんに新しい目を付けてくれた。それは、いらなくなった洋服のボタンだったけれど。
以来、僕はアイちゃんから取った眼球をポケットに入れて、よく手で転がした。この瞳は今までどんな景色を見てきたのだろうと考えるとその想像に胸は躍り、どんな感動する本や面白い漫画。流行りのアニメや噂の映画をも超えた。
小学校に入学した麗らかな春の日のこと。この日のために着飾った紺色のジャケットのポケットに、僕はいつも通りアクリル製の眼球を入れていた。
教室では紙で作られた輪っかと花が、わざとらしく新入生を祝う。黒板にはでかでかとした文字で、おめでとう、と書かれていた。そんな教室に入ってきたのは、スーツに身を包んだ年配の女性の教員だった。その教員が、教卓に立ち僕たちを見渡して言う。
「皆さん、ご入学おめでとうございます。このクラスの担任を務める、」
そんなにめでたいのだろうか?
僕は窓際の席に座り、校庭をハラハラと舞う桜の花びらを眺めつつ、机の下で眼球を手のひらに転がしていた。
興味の無い担任の紹介終えて、退屈な入学式の前に僕はお手洗いに向かった。用を足し、水道にて手を洗ってハンカチを取り出した際に、眼球が転げ落ちた。
あっと思った瞬間、不注意な同級生に踏まれてヒビが入り呆気なく眼球は崩れた。熱湯のように沸いた感情は、間違いも無い殺意だった。
目は口ほどにも物を言う、という言葉は本当だった。僕が殺意を込めて睨んだ同級生は怯え、しくしくと泣き出したのだ。
同級生の瞳に次々と浮かぶ涙を見て他の子たちが心配する中、僕は途端に面倒になりその場を離れた。周囲の同級生たちの視線が不快だった。
不機嫌のまま出席した入学式はもちろんつまらなく、今も残っている最後の集合写真は見事なまでにふくれっ面をしていた。
家に帰ると遠くに父方の住む祖父母が駆けつけていて、僕の小学校入学を祝うために尾頭付きの鯛を用意してくれていた。
「こんな大きな魚、どうやって調理するのよ。」
僕の入学式の付き添いで疲れている母親が密かに愚痴る。鯛をまな板に乗せて、何かの拍子に母親は台所から出て行った。その入れ違いに、喉が渇いた僕が台所に来たのだ。唸る冷蔵庫から冷えたほうじ茶を取り出してコップに注ぎ喉を潤していると、シンクの横にある調理場にいた鯛に気が付いた。
初めて見る尾頭付きの鯛は大きく立派で、ぬらりと光っている。そして濁った瞳で僕を見つめていた。
気付いたら僕は、鯛の眼球を取り出そうと目の縁に指をねじ込んでいた。鯛の眼球の表面は弾力性があるものの固く、爪で傷つけてしまったのかゼリー状のコラーゲンに触れる。
一度指を引き抜き、指に付着したコラーゲンをまじまじと見つめた。透明で、どろりとしていて、舐めると塩辛さと生臭さが口腔内に広がる。
僕はもう一度、鯛の眼球をほじるように触れた。ぐちゃぐちゃになったそれを取り出すのはもう諦めた。その代わりに手に入れたのは、半透明の水晶体。魚の水晶体は丸く、指先で潰そうとしても潰れない硬度を保っていた。
「何してるの!!」
台所に戻ってきた母親が僕の行動をいたずらと思い、金切り声を上げる。鯛を粗末にしたことを散々叱られて、その日の夕食に上がった鯛はもう一つの残った眼球を表にされて鎮座していた。
生の眼球を取り損ねた僕は、夜、片目をボタンにされたアイちゃんを抱いてベッドで寝るふりをしながら考えていた。
どうすれば、本物の眼球を手に入れられるのだろう。
目を瞑る。
緩く動く瞼の動きで、自身の眼球の丸みを知る。そっと瞼を開き自分の人差し指で、そっと触れてみた。指にはぬるりとした感触、固い弾力。眼球には体温よりもずっと熱い痛みが痺れるように残った。パチパチと瞬きを繰り返すと、鈍った視力が涙の潤いを取り戻して復活した。
暗い室内の天井を見つめる。何度も数えた木目が笑う人のように僕を見下ろしていた。
あの子の目の形は小さいけど、柔らかい色が好み。
この子の目は黒々としていているけれど、白目が少し充血している。
その子は光彩部分が白目に比べて面積が少ない。でもきゅっと引き締まったような瞳孔が凜々しい。
僕は100%自分好みの眼球を求めてより一層、他人の眼球を観察するようになった。目を見ているのだから当然、目が合い、相手の瞳に自分が映る。ただじっと見つめているだけでは不気味に思われるのだろう。目をそらされてしまうか、良くて首を傾げられてしまう。
よって、僕は微笑んで相手の緊張を解すという技術を身に付けた。そして一言「君の目、とても綺麗だね」と呟いてやると大抵の子は喜ぶから、なんて愚かで可哀想なのだろうと思った。
僕はただ、品定めをしているだけなのに。
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