第10話
それからは順風満帆に思えた。あのディナーをきっかけに僕らは会社でも少し喋るようになり、今度はこちらからという言葉通り、今度は榊原さんのおすすめのカフェに行ったりして、日常の中のあちこちに宝箱があるような感じで日を刻むのが楽しくなった。僕と榊原さんのことは課内でもちょっとした噂になった。どうやってあの榊原さんを口説き落としたんだってね。本人は気づいてないだろうけど、彼女は清楚系だしミステリアスだから気になってる人は多い。そんな他の人に遅れを取らないよう、印象に残るような思わせぶりな行動も多く取った。いつか、かっこよく彼女に告白しよう。そうぼんやりとした思いはいつも頭にあった。でも今は、このなんと名前をつけてよいかわからない、心地よい関係を続けたかったんだ。
でもサイコロで6の目が永遠に出続けることなどない。そんなときだった。彼女の転勤が決まったのは。
転勤先は広島の支社。ここ東京からではやすやすと行けるところではない。しかも告知が急で、彼女は2週間以内にここを発つ事になった。
本人からこの話を聞いたとき、頭にガツンと嫌な衝撃が走った気がした。何を言ってるか分からなくて、ゆっくり3回、同じ説明を求めた。彼女も寂しそうだった。
なんで、どうしてを繰り返す僕に、分からないと首を振り続ける彼女。その場の空気はまるでお通夜だった。そこからはまともな会話もままならないほどになり、その日すぎに僕らは解散した。
何日か経つと冷静になって、残った日を大切に過ごそうという方針に転換した。ボウリング、カラオケ、食事。転勤の処理で忙しい中を縫って行きたいと思っていたことすべてを網羅してもなお、寂しさが癒えることはなかった。出発の前日、一日有給を取ってまるごと一日、一緒に過ごした。この日はやたらと時間が経つのが早く、気づけば夜になっていた。最初のディナーの待ち合わせと同じ駅に向かって、ゆっくり一歩一歩踏み出す。それでも否応なく駅にはついて、「さようなら。」という言葉に2重の意味を感じながら僕らは別れた。結局僕は最後まで彼女に告白できなかった。彼女を引き止めることなど、どうしてできよう。つらい。苦しい。行き場のなくなったこの思いはそうすればいいのだろう。僕はその場にうずくまった。まだ、僕にできることがあるとするならば新しい職場で、僕以上に彼女を救える事ができる人物がいることを、そしてその人と幸せになれることを願うことだけだった。
翌朝、新幹線の駅まで彼女を見送りに行った。
「体調を崩さず、頑張ってね。さよなら。」次に会う約束をしないことが、いつもとの唯一で最大の違いだった。
「榊原さんも、向こうむこうでも頑張ってね。バイバイ。」
僕は必死でいつもの表情を保ってそう返した。初めて会社で身についたポーカーフェイスが役に立った。
彼女はしばし僕を見つめて、すっと踵をかえしてのりばへ向かっていった。振り返らなかった。引き止めてほしいと思ってるように見えたのは、寂しい僕の心が見せた思い込みだと、そう信じたかった。
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