第5話

目覚ましの音がゆっくり、しかし確実に意識におはようを促している。ゔーっとうめきながら僕は手足をバタつかせた。僕の動きに合わせて布団が呼吸をするように蠢く。僕、朝は苦手。確かに早朝の空気やまだ新しい太陽の光は三文の徳というぐらいの価値はあるけれど、目覚ましや人に無理やり眠りから引き剥がされるのはまた別。つらいこと、この上ない。これを毎朝克服しないといけないと思うとそれだけでまだ1日目のサラリーマンライフを投げ出したくなる。さすがに、意識が浮上してくるにつれきちんとしゃきっとしようと思い直した。元気が出るよう、ハムエッグとパンの朝食を平らげ、歯を磨く。パリッとしたスーツに颯爽と袖を通し、シュッと小気味良い音を立ててネクタイを締めると準備完了。もちろんカバンは忘れない。いつでも出社できる。鏡で自分の姿を確認すると自分で言うのも何だがなかなか様になっている。「行ってきます。」誰もいない部屋に向かって声を投げ掛け、文字通り新しい生活の一歩を踏み出した。

イトウ商事へは電車を使って通勤する。元の持ち主が定期を使っていたので切符を買う必要はない。通勤の人に揉まれつつ、電車に乗り込む。僕が電車に乗るのは今の体でも元の体でも久しぶりだ。行き先につくまでの間、中吊り広告をぼーっと眺めていた。最近やっているイベントのものらしい。カラフルで印象的、それでいて鬱陶しくならない配置。よく作られてるなぁ。行きたくなっちゃうじゃないか。元アーティストとしての血が騒ぐ。なんだかんだすべての広告を網羅していると気づけば目的の駅だった。もう少し眺めていたい名残惜しい気持ちを押し込んで他の人とともにホームへ流れ出た。イトウ商事のオフィスは駅から徒歩6分の立地抜群のところにある。万年運動不足の僕にはありがたい。自動ドアを抜けると外界とは違う空気の群れが僕を押しつつみ、無音のバリアでが膜をはる。自分の部署がある部屋まで進んでいくと、「おー、旭川じゃん。おはよ」と声を掛けられた。

林澄太。高身長、黒髪だが髪をかきあげていて、手をひらひら振りながら歩いてくる様子は少しチャラく映る。旭川祐介の同僚で会社用の携帯にも名前が登録されている人物。声掛け的に社内ではまだ近しい人物なのだろう。あまりに堅苦しいのもなんだと思い「おはよ。今日も元気だな。」と返しておいた。

「お前は今日も今日とて死にそうな顔してるなあ。それよか、昨日休んでたろ、無理がたたったんじゃないか。」

「いや、ただの熱だよ。心配してくれてありがとな。」

「まぁ、無理だけはすんなよ。」いいやつらしい。

「しかし、一日休んだらいつもと比べてちょっと顔色良くなったか?表情も明るいし。」

しまった、油断していた。彼は人のことをよく見ている油断ならない人物らしい。

「そうか。やっぱり一日でも休みがあるのはいいな。」

「そうだな。俺も休みが待ち遠しいわ。それじゃ、今日も頑張れよ。」

そう言ってまた手をひらひらさせながら去っていった。僕は内心ほうっと息を吐いてその場に立ち尽くした。

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