今年の夏は、花火が咲かない。
見咲影弥
本編
今年の夏は、花火が咲かない。兄さんが死んじまったから。
例年、うちの村では夏祭りの夜に何百発かの花火を打ち上げる。ところが去年、事件が起こった。花火の不発弾を処理する過程での爆発事故。それによって、花火師の手伝いをしていた兄さんが大火傷を負って死んだ。そういう痛ましい事故があったから、今年の花火は中止になった。祭は開催するらしい。いつもより静かな祭になる。
*
耳元で線香花火がパチパチと弾ける音がした。暫くしてその正体が花火なんかではなくサイダーの泡が弾ける音だと気づく。
「どうしたの。ぼーっとしちゃって」
彼女が言った。
「はい、
彼女はプラカップを差し出していた。僕のために買ってきてくれたのか。
「あ、ありがとう」
思わずどもってしまう。受け取ったサイダーをぐいっと飲み干すと、強烈な炭酸の刺激が走り、干からびた喉の奥が一気に潤う。茹だるような暑さが幾分かマシになった。澄華さんはビールを持っていた。僕の隣に座って彼女はそれをくい、と飲む。黄金色の液体がゆらりと揺れた。
「美味しい」
その姿に魅入られる。僕の視線に気づいたのか、彼女が言った。
「お酒はだめよ。これは大人の特権」
きっとビールを羨ましそうに見ていると勘違いしたのだろう、彼女はカップを少し高く持ち上げて僕に微笑む。屋台の電燈に照らされた彼女の顔がとんでもなく綺麗に見えた。同時にその美の対極に位置する、兄さんの無惨な顔を思い出す。包帯の隙間から覗く焼け爛れた赤い皮膚、火炎に冒された黒焦げの顔。苦悶の表情。多分これからも、祭の季節になる度に兄さんのあの顔を思い返すのだろう。いっそ彼のことを忘れてしまいたいような、忘れたくないような、複雑な気持ちだ。
兄さんの最期を時折思い出す。兄さんは自宅での看取りとなった。回復の見込みはないだろうと病院で宣告されたのだ。彼は痛みのせいか一晩中唸り声を上げていた。それも次第に弱まっていって三日後にとうとう死んだ。体液を拭き取ったり包帯を変えたりと、つきっきりで看病していた澄華さんが睡魔に負けて眠りに落ちた後に、ひっそりと。死に顔を拝むと、唇は何処か緩んでいるようで、かろうじて判別できる表情は心做しか穏やかであるように見えた。生きているんじゃないかと思って、投げ出された手にそっと触れると、彼の深緑色の指先は驚くほど冷たかった。
彼が死んだ後、澄華さんに言ったことがある。
「兄さんのことなんか忘れてさ、この家出て幸せになりなよ」
彼女は応えた。
「いいの、彼から沢山の愛を貰ったから。もう満ち足りてる。それにね——」
私は幸せになっちゃいけないから——。
彼女は僕を見てふっと笑った。あの自嘲が滲んだ顔は今でも鮮明に覚えている。
澄華さんは、落ち着いた黒のワンピースを着ていた。祭だからと張り切って紺の甚平を着た僕とは大違いだ。
「浴衣、着なかったんだ」
と聞いてみた。
「まだ、着る気分になれないんだ」
彼女は翳りを帯びた表情でそう言った。先日、兄さんの一周忌があった。その時でさえ、彼女は静かに泣いていたし、やはり一年経った今でも踏ん切りがつかないでいるらしかった。この祭でさえ、彼女は行きたくないと言った。半ば強引に彼女を連れ出したのは僕だ。今日こそ、僕はこの気持ちをはっきりさせなければならない、そんな強い意志を持って彼女を誘い出したのだ。
*
祭囃子が一層騒がしくなった。昨年は死人も出る騒ぎだったというのに、そんなことは微塵も感じさせないほどの陽気っぷりである。通りを歩く人も増えて、屋台は大繁盛だ。急に二人でベンチに座っているのが恥ずかしくなって、僕は思わず立ち上がった。
「何か食べたいものあるの?」
彼女が聞いてきたので、うん、と頷き、そのまま僕は人混みに突っ込んでいった。
ぐるりと屋台を巡って悩んだ末に買ったのは綿菓子だった。ただの砂糖の塊なのだとは分かっているけれど、大切なのは雰囲気だ、そう自分に言い聞かせ、屋台のオジさんに声をかけた。何色がいいと聞かれたので、あまり深く考えず、花火みたいな色、と注文した。出来上がったのは、紫やら赤やら橙やらが混じった砂糖の塊、じゃなくて綿菓子。見栄えだけは良かった。もう一つ注文して、澄華さんにあげることにした。
彼女に綿菓子を差し出すと、ほんのり赤みのさした顔を綻ばせた。ありがとう、と言って、それを口に含もうとしたその時、彼女は動きを止めた。
「ちょっと持ってて」
一度返され、何をするのかと思ったらどこからともなく髪留めを取り出した。
「齧り付くと髪にくっついちゃうから。ベタベタするの嫌だし」
そう言って、長い黒髪を無造作に後ろで留める。その時にふわりと——。生温い夏風が彼女の匂いを運び、僕の鼻腔を擽った。蚊取り線香の匂い。兄さんの好きだった匂いだ。澄華さんが我が家に来てからは、殺虫剤を部屋中に撒いていた。兄さんはこんなのまるで趣がない、と不平を言っていたが、こっちの方が効果があるんだから、と彼女は彼の言葉に耳を貸さなかった。彼がいなくなってからは蚊取り線香の煙がしょっちゅう縁側で燻っている。彼女はその隣でぼんやりとして時折鼻を啜っていた。彼との思い出の匂い、それ以上に特別な理由があるのだろうと僕は考えた。
綿菓子を頬張ると、口の中であっという間に溶けていった。あんなに美しかったものがあっという間に無くなってゆく。花火に似ていると思った。そう言えば、兄さんが口癖のようによく言っていたっけ。花火は散るから美しいのだ、と。
「あれは散って完全に無くなっちまう。それがいい。朽ちて地に張りついてまで生きようとする花より、生き様が清々しい。俺はあぁいう風になりたい」
分かるようで分からない彼なりの美学を呆れながら聞いていたあの頃が、酷く懐かしかった。
綿菓子に齧り付く彼女を横目で見つつ、僕は時機を見計らっていた。どの頃合いで彼女に誘いを切り出すべきだろう、と。至極勇気のいることだけれど、僕はこの行為に及ばねばならない。兄さんのためじゃない。僕自身のため、この気持ちに決着をつけるためだ——。彼女が綿菓子を食べ終えてビールを一口飲んだのを見て
「澄華さん」
と彼女に呼びかけた。僕はとうとう腹をくくった。
「二人で、展望台に行かない?」
*
「今年は、花火の打ち上げはないみたいだけど」
僕ら二人だけの展望台にて、並んで夜空を見ていた。街灯が少ないからか星が明るく感じる。それでもいいんだ、と僕は言った。
「澄香さんと、二人きりで、話をしたかった」
彼女が驚いた顔をして、それから唇をぐっと噛み締めた。彼女も何かを察したようだった。
「僕、気づいてしまったんだ」
彼女と向き合う。途端、怖気づいて目を逸らした。落ち着いて、と自分に言い聞かせ、一度深く息を吸い込む。改めて彼女を真っ直ぐ見た。鼓動が速くなってゆくのを感じる。彼女に告げる言葉を何度も空で反芻して、ようやく、覚悟が決まった。
「澄香さんが——」
彼女は淋しげな笑みを口元に浮かべた。
兄さんが死んでからどことなく感じていた違和感。
彼女が蚊取り線香を使うようになったこと。
彼の死を境に、愛用していた殺虫剤をぱったりと使わなくなったこと。
最初はほんの小さな疑問だった。けれどそれは次第に膨れ上がって、僕を行動へと突き動かした。彼女が使っていた銘柄が、自殺によく使われるものだと分かった時、もしや——と信じたくない仮説が脳裏を過った。
兄さんは、殺されたのではないか。
あの殺虫剤を飲まされて——。
図書館でさらに詳しく調べて、殺虫剤には誤飲防止などの理由で着色を施す規定があることを知った。それは服毒死した死体の鼻口や手先に、ある色を出現させるという。
あぁ、確か——彼の指先も、そんな色をしていたのだ。お医者が見逃してしまったのも無理はない。彼は大火傷が原因で、じきに死ぬ運命だったのだから。それに火傷の変色もあって色彩の判別は人によっては困難だったかもしれない。偶々僕が気づいただけなのだ。
では、誰が薬を飲ませたか。
それが可能だったのは一人だけだ。つきっきりで看病していた彼の妻。
澄華さんが、兄さんを殺したのだ。
残るは動機だ。僕にとって、これは彼女の潔白を信じるための最後の砦だった。彼らは愛し合っていたのだ。だから、殺す動機がない。しかし、その砦はあっけなく崩れ落ちた。
愛していたから、澄香さんは兄さんを殺したのではないか。
あぁ、そう言えば——。彼が事ある毎に言っていた——
もがき苦しみながらも生き続ける花より、ぱっと散ってしまう花火のようでありたいと——。
散り際は美しく、呆気なく——、その理念を、彼女は尊重した。痛み、苦しみから彼を解放してあげたい、そんな思いから彼女は彼の死期を早めたのではないか——。
これが、僕が導き出した答え。どうしてもはっきりさせておきたかった。なぜかは分からない。強いて言うなら、僕も、兄さんが好きだったから。愛していたから。彼の死の真相を知りたかった。僕は彼女と対峙する。切なげな表情の彼女、その真紅の唇がゆっくりと動いた。彼女の告白が始まるのだ。僕は、真実に辿り着く——。
「私が、彼を——」
その瞬間。
轟音が鳴り響いた。ありとあらゆる音を呑み込むように。それは彼女の細い声をも掻っ攫っていった。一体何が、と反射的に音のした方向を見やる。あぁ、そんな——。僕は思わず息を呑んだ。寂しかった筈の夜空に、一輪の見事な華が咲き乱れていた。一瞬にして見惚れてしまうほどの鮮やかな色。優しい光が僕らに降り注いでいた。
あぁ、兄さん——。
僕は悟った。おそらく、彼女も。
もう、いいんだね、兄さん——。
一瞬を彩った花火は酷く美しく、儚げに散っていった。最後の花片が暗闇に解けるまで、僕らは陶然とその景色に酔い痴れていた。
【了】
今年の夏は、花火が咲かない。 見咲影弥 @shadow128
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