第40話
ツーツーと通話終了を告げる無機質な音が響く。
ザクロの名前が表示された画面が、勝手に切り替わり様々なアイコンが並ぶホーム画面に戻る。
雨が止んだことで、部屋の中には琥珀の息遣いしかしない。エアコンをつけ忘れたせいで、じんわりと汗ばんできていた。
スマホを胸元に抱え込むようにして、琥珀は耳を澄ませる。
(チェーンも切られたわけ?)
先ほど響いた金属音。切られたチェーンがぶら下がる音だった。
ザクロに聞かれたくなくて、通話を切った。琥珀の気持ちを伝えてしまったのは、万が一を考えてだ。
普通だったらあり得ない。鍵が開くことも、チェーンが切られて、人が侵入してくることも。
だが琥珀の人より良い耳は、ゆっくりとリビングの扉が開けられるのを聞いていた。
「琥珀ー、いるんでしょ?」
部屋に入った真剣は、琥珀の名前を呼びながら部屋をうろうとしているようだ。
徐々に近づいてくる音に体が強張る。
琥珀の知る真剣はいたって普通の男で、ご飯やお金を無心されたことはあっても、乱暴されたことはない。
扉をもう一度確認する。鍵はきちんと閉まっていた。扉の前にどうにか動かした机とベッドが並べて置いてある。
絶対に動かせなさそうな配置に、少しだけ余裕が持てた。
「琥珀ー?」
「何のつもりよ?」
扉をノックされ、名前を呼ばれる。
琥珀はじっと扉を睨め付けた。自分でもびっくりするくらい棘々しい声がした。
「だって、僕のもとにくれば全部解決するのにさぁ」
真剣の声は変わらない。
以前モノリスに来た時と同じ、下手すればもっと甘い。ザクロに見つかったときのような口調だ。
それにしても、勝手なことを言ってくれる。琥珀は苛立ちが恐怖を押しのけ始めたのを感じた。
「ここ、開けてよ」
「嫌よ」
福山か朝霞、もしかしたら永田あたりがさっさと来てくれる。
ザクロが電話できるくらいだから、状況はそんなに悪くない、はず。
琥珀はスマートフォンの画面をつける。さっきから部屋に置いてある時計の進みが遅い気がしてならなかった。
誰もしゃべらなくなると心臓の鼓動がうるさいほど聞こえてくる。
そこに飛び込んできたのは意外な人の声だった。
「琥珀さん!」
ザクロだ。ザクロの声。
琥珀はベッドサイドから恐る恐るベッドの上に移動し、少しでも声を聞こうとする。
「あっれぇ、何で君いるの? 入院中のはずでしょ?」
真剣の声が少しだけ遠くなる。
おそらく、扉を向いていた体をザクロの方へ向けたのだろう。
はぁと聞きなれたため息が扉の向こうから聞こえてくる。
不思議なことに先ほどまでうるさいほど聞こえていた鼓動は、気にならないくらいに収まっていた。
「何ででしょうね」
「病み上がりなら寝てたほうが良いと思うけど」
真剣の声に険が乗る。
対峙しているはずのザクロの声がいつも通りなので、温度差を感じた。
病み上がり。そうだ、ザクロを助けなければ。
琥珀は一気に蚊帳の外に置かれた状況に部屋を見回す。
腰を上げ、ベッドに手をかける。スマホはポケットに入れた。
「真剣社長、小桜に銃を渡したのはあなたですね?」
琥珀は動きを止めた。
ベッドを動かそうとしたのだが、それどころではない。
驚きが頭の中を走り回り、考えがまとまらなかった。
扉の向こうでは、ザクロと真剣の会話が続いていく。
「なんのこと?」
すっとぼけた回答だ。
社長としては百点満点なのかもしれない。
今度は、ザクロの声音が冷えた。
「……それどころか、モノリスに火を点けるよう唆したのも」
「あれは小桜が勝手にやったことでしょ?」
「なんで、小桜がやったなんて知ってるんですか?」
「小桜が言ってたからね」
琥珀の頭の中で少しずつ状況が整理されていく。
前のモノリスの事務所が燃えた事件は、まだ解決していない。警察は不審火で済まそうとしていた。
小桜がやったなんて、真剣が知っているわけがない。知っているとしたら、そう指示した人間だけ。
「……何のために?」
百歩譲って小桜と会っていたとしよう。だが、今度は、その理由が気になってしまう。
表面的には小桜と真剣の間に繋がりはないのだから。
ザクロと真剣の会話が進むにつれ、琥珀は血の気が引く気がした。
今、自分は犯罪の深淵を覗いている。
ザクロの淡々とした口調が続く。
「モノリスが燃えた時、一番被害が大きかったのはパソコンでした。入っている情報は、まぁ、復元できたんで良かったんですけど」
「何だって?」
真剣の声音が変わった。
怒っていた声に焦りが含まれる。
琥珀は募る危機感に、もう一度ベッドを動かそうとする。
早く扉を開けられるようにしないと、真剣を止められない。
「今どき、データのバックアップはとって当然らしいですよ?」
ザクロは真剣を馬鹿にするように少し噴き出してから、そう言った。
琥珀は確信する。
ザクロはわざと真剣を怒らせようとしているのだ。
「おかしいと思ったんです。インターホンの動画を消す理由なんて、小桜にはないですから。まーくんが琥珀さんのヒモだったなんて、バレたら大変ですもんね」
「僕は言ってない。そんなことを気にするのは、下っ端ばかりだ」
「でしょうね。体面を気にするのは、まーくんを社長に担ぎ上げた人間でしょうから」
ザクロの挑発は止まらない。
真剣が小桜に銃を渡した人間だとしたら、モノリスに火をつけさせた人間だとしたら、今一番危険にさらされているのはザクロだ。
どうにかベッドを引っ張り、あとは机を移動させるだけ。
少しでもずらせば、人間一人分くらいの隙間はできる。
「早く帰って下さい。今なら、何もなかったことにできますよ」
「いいや、君だけは消さないとマズイことになる」
重たい金属音がした。
海外の射撃練習場で耳にしたことがある音。
琥珀は少しだけ扉を開き隙間を作る。
想像通り、ザクロに銃を向ける真剣の姿があった。
「正気ですか?」
「僕はずっと正気だよ」
その指はしっかりと引き金にかかっている。
今にでも弾が飛び出しそうで、扉から身を滑り出し琥珀は叫んだ。
「止めて!」
「琥珀」
琥珀の声に、真剣がこちらを見た。
わずかな動き。その一瞬で、ザクロは銃身へと手を伸ばしていた。
「ザクロ!」
ザクロが真剣の銃を掴んでいる。銃口はまっすぐザクロに向いたまま。
銃を飛ばすとか、取り上げるとか。真剣自身を投げるとか、倒すとか。
他にもいろいろ方法はあったはずだ。
真剣が片眉を上げて、ザクロを信じられないというように見た。
「君、正気?」
「撃てるなら、撃ってください」
ザクロは微動だにせず、そう真剣に告げた。
リビングに銃を持った男と、突き付けられた女がいる。
それだけでも訳が分からないのに、真剣の方が追い詰められているような表情を浮かべていた。
引き金にかかった指が動く。スローモーションのように琥珀には見えた。
目を閉じたいのに瞼が動かなかった。
「なんで」
真剣の焦ったような声が落ちた。
引き金が動かなくなっている。
ザクロはそれを見せつけるようにしてから、銃ごと真剣の手を横に捻った。
びっくりするくらい軽い動きで、真剣の体が床にたたきつけられる。
「命も張れないくらいなら、病院を抜け出して来ません。以前のあなたのほうが、引き際をわきまえていて素敵でしたよ」
気絶したのか、真剣はまったく動かなかった。
茫然とその様子を見ていたら、玄関から人影が現われた。
固まっている琥珀にザクロは気づくことなく、ほこりを払うように服を叩いている。
傍に来た福山に銃を渡した。
「まったく、無茶をする」
「やられたままじゃ、癪ですから」
肩を竦めたザクロが、やっと琥珀を振り返る。
「琥珀さん、もう大丈夫ですよ」
そう言われて、琥珀は力が抜け床に座り込んだ。
同じ目線の高さにザクロがしゃがみ、背中を支えてくれる。
久しぶりに見た顔は、好戦的な笑顔が浮かんでいた。
「言い逃げはずるいと思います」
耳元で零された言葉に、琥珀は電話の最後を思い出す。
さっきまで震えるくらい寒かったはずなのに、今は顔が熱かった。
「それは……そのっ、言いたくなったから……って、それより、あなたなんでいるのよ!」
病院にいると思っていた。
ザクロの姿を改めて確認する。ザクロは琥珀の視線に両肩を竦めた。
「まーくんが家にいるなんて放っておけないじゃないですか」
「ばっか!」
視界の隅で、福山と朝霞により真剣が拘束されていく。
傍にはザクロがいて、琥珀の震える肩を撫でてくれている。
安心感が体を満たし始めた時、ザクロの額が琥珀の肩に着けられた。
「ザクロ?!」
「少し、動きすぎましたかねー」
苦笑いしている。
やっぱり、無理をしていたじゃないか。
脇腹を抑えるザクロの体に手を回し支える。体自体も熱っぽかった。
「急いで戻るぞ」
「琥珀さんも来て下さい」
「わかったわ!」
福山が真剣を、琥珀がザクロを支えながら、部屋を出る。
玄関を出たら、雨により冷え始めた空気に出迎えられた。
土の匂いが混じる中、琥珀はザクロとともに病院に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます