第39話


窓には大粒の雨が打ち付けている。

車の走る速さに水滴が玉になり、斜めに流れていった。

永田には電話をした。福山にもすぐにマンションへ向かうようお願いする。

病院にいるザクロにできるのは、それがすべてのはずだった。


「あとで大目玉かな」


ぼそりと呟く。

任せておいていいはずだった。

それなのに居ても立っても居られず、タクシーで琥珀との家に向かっている。


「雨がひどいねぇ……お客さんは運が良いよ」

「ほんと、助かりました」


タクシーの運転手が激しく動くワイパーを見ながら話を振ってくる。

ザクロは調子をあわせて返事をした。

病衣から着替えて、外に出たはいいが、すぐに雨が振ってきた。

通りがかったタクシーを捕まえられたのは幸運だったろう。

スマホの画面をつけ、メッセージを琥珀に送る。


『琥珀さん、大丈夫ですか?』


緑の吹き出しに囲まれた文章が画面に表示される。

すぐさま既読の文字が吹き出しの隣につく。

そのまま画面を見つめていたら、琥珀のアイコンが軽快な音ともに表示された。


『大丈夫。まだ、何も音はしないわ』


絵文字もない簡潔な文章。

ほっと息を吐く。吐息で車窓がわずかに曇る。

フロントガラスは打ち付ける雨とそれを掃き出すワイパーで目を凝らさないと数メートル先も見えない。

それでも見慣れた建物が増え始めていた。車の数も人通りも少ない。

普段と違うものがないか、目を凝らす。


『永田さんに連絡しました。福山たちもすぐ来ますから』


指先で言葉をつづる。

電話できないのがもどかしい。ザクロはスマホの縁を唇の下に当て、天を仰ぐ。

琥珀の名前は売れすぎている。

今でもラジオからは琥珀の新曲が流れていた。ライブとともに大々的に宣伝したため、耳にする数はさらに増えた。


『ありがとう、ザクロ』


レスポンスの早さが、琥珀の無事を示している。

今はメッセージでしか繋がれない。

車を降りれるくらいの距離になれば電話もできる。そう自分に言い聞かせた。


『ねぇ、ザクロは歌えない私にも価値があると思う?』


送られてきた文章にザクロは顔をしかめた。

答えづらい。その上、文章で返すには重すぎる。

いや、ただ単に、声を聞かず、顔さえ合わさず返すのが嫌だったのかもしれない。


『どうしたんですか、急に』


逃げるように話を逸らす。

タクシーはもう歩いて家にいける距離まで近づいていた。

雨も小降りになってきている。夏の雨は夕立のようなものだ。

一気に降って、あっという間に止む。

ザクロは少しだけ後部座席から背中をあげると、運転手に話しかける。


「すみません、次の角で下ろしてください」

「うん? こんな半端なところでいいのかい?」

「ええ、半端でも家にはちょうど良いんですよ」


指示通り、車が路肩に止まる。

愛想よくお金を払い、まだ濡れている地面を踏みしめる。生暖かい、雨上がり特有の空気に包まれた。

歩けば傷は引きつる。痛みもある。だが、動けないわけではない。

タクシーが行ったのを見てから、ゆっくりと足を進める。

画面が光り、ザクロは通知を確認する。スマホにまたメッセージが届いていた。


『まーくんが……歌えなくてもいいって』


ザクロは左手を顔に当て、大きなため息を吐いた。

まーくんが、真剣が歌えなくてもいいと言ったから、何だというのだ。

周りを見回す。人影は疎らだ。

周囲を確認しながら電話をかける。


『もしもし?』


少し驚いたような声だった。

ザクロは琥珀の声に口の端を上げる。

機嫌が良くなった。なんて思うのは現金だろうか。

時間はない。無理はできないが、のんびり会話だけしてるわけにもいかない。

ザクロは単刀直入に切り込んだ。


「琥珀さんは、歌えなくてもいいんですか?」

『っ、良くない! 良くないけど、今の私は』


息をのむ音が聞こえた。すぐに反論が返ってくる。

ザクロは一人頷いた。

そう、琥珀が歌うことを諦めるわけがないのだ。

歌うことを諦められない人間に、歌えなくていいと言うことになんの意味があるだろう。


『歌えない私にも価値が、意味があるのかしら?』


行き先がわからない迷子のような琥珀の声に、ザクロは鼻の頭に皺を寄せた。

その答えをザクロは持っていない。言えることは一つだけ。


「わたしは琥珀さんが歌いたいなら、歌えるようにします』


琥珀が歌いたいなら手伝う。それだけだ。

街灯に照らされた水たまりを避ける。顔を上げれば琥珀がいるはずのマンションが見える位置まで来ていた。

不自然な車も、怪しい人の集団もない。

スマホの向こうで、琥珀が何度か息を吸ったり吐いたりした。


『歌えなかったら?』


足を止める。

ザクロは右手の人差し指で頬を掻いた。

ゆっくり何でもないことのように話す。


「まぁ、琥珀さんくらい養えますし……側にいてあげます」


数秒の沈黙。

夏のざわめきさえ消えてしまった世界で、ザクロは自分の心臓の音が大きくなるのを聞いた。

音のない世界でザクロの脇を見慣れたバンが通り過ぎ、数メートル先で止まった。


『ザクロの方が小さいのに生意気』


ぷっと琥珀が噴き出した。ザクロの世界に音が戻ってくる。

ザクロは唇を尖らせる。

そんなに笑うことはないのに。

琥珀が肩を揺らす姿が想像できて、ザクロは声を大きくした。


「今それ関係ないですよね!」


『ごめんごめん』と軽い調子で、琥珀が謝ってくる。

何度か深呼吸を繰り返し、大笑いしていた声が、徐々に徐々に収まっていく。

最期に残ったのは、生暖かい夏の空気だった。


『ねぇ、それもう、ほとんどプロポーズだってわかってるわよね』

「……黙秘で」

『私、好きって言われたい派なんだけど』

「わたしは、逆なんですよ」


ザクロはいつかのように、そう答えた。

琥珀の性格も行動も、ザクロにしてみれば不可解そのもの。

足元の水たまりを靴のつま先でちょんと触った。綺麗な波紋が立つ。


「好きって言われたから、好きになったなんて癪ですから」

『ほんと、ザクロって……』


呆れを含んだ声が耳をくすぐる。

バンから人が下りてくる。福山に朝霞だ。

琥珀のいるマンションは一本道に面している。かち合う可能性は二択だったが、合流できたようだ。

街灯の明かりの下でさえ、福山たちが困惑した顔を浮かべているのがわかる。二人に軽く手を上げ、幽霊でないことを示す。


「なんですか?」

『好きよ』

「なっ」


とびきり、色のある声だった。

耳が痒くなった。痒みが熱に変わり、スマホを少し離す。

頬が熱い。今が夜で良かった。


『言いたくなっただけ。ありがとう、またね』


ガチャンとスマホの向こうで、大きな音がした。

それに琥珀も気づいたのだろう。声の熱をがらりと下げて、義務的な色さえ感じるお礼とさよならを告げられた。

気付いたら通話は切れていた。

青い画面を見ながら、ザクロはスマホの光を落とす。


「言い逃げなんて、許すわけがないでしょう」


ポケットにスマホを突っ込んで、福山と朝霞の顔を見る。

何が何でも琥珀に会わないといけなくなった。

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