第38話


雨が窓を叩く音に琥珀は目を覚ました。

瞼を指でこすりながら、スマートフォンの画面をつける。

表示された時間は20時過ぎ。

連絡はない。ネットニュースを見る気にもなれず、滑り落とすようにベッドの上に戻した。

自分が寝ていたベッドから立ち上がり、窓に近づく。


「雨、か」


大粒の雨が分厚い雲から打ち付けられる。

温度差に窓ガラスが曇り、街の輪郭を曖昧にした。

琥珀は喉に手を当てる。目をつむり、呼吸を整える。

集中。


「っ」


歌おうとした瞬間に、どうしても、声が出ない。

まるで酸素が足りない魚のように何度か口を開閉させた。

腹に力を入れ、体を振り絞る。それでも音は少しも発せられなかった。

しばらく一人芝居のように悪戦苦闘を繰り広げ、どうにもならない現実に、ベッドへ身を投げる。

スプリングが軋む感触。電灯をぼんやりと見上げ、額に腕を当てた。


「誰?」


ピンポーンとインターホンが鳴った。スマホだけを持って移動する。

来客などあるわけもない。モノリスから人が来るならば、事前に連絡が来る。

自分の部屋から、インターホンが置いてあるリビングへ移動する。

3日ほど人間らしい生活をしていない。集められているゴミを避けながら歩く。空気が淀んでいた。


「……え?」


暗い室内にインターホンの画面が明るく光る。

映し出された人影に、琥珀はもう一度瞼を擦った。


『琥珀ー? 遊びに来たよ?』


明るい表情で手をふる真剣がそこには立っていた。

スーツではなく、昔のようなパーカーとTシャツ姿。


「まーくん?!」


慌てて口元を抑える。早鐘を打つ鼓動を抑えるように胸元に手を当てた。

インターホンだからボタンを押さない限りこちらの声は聞こえない。

画面の中の真剣が反応しないのを確認して、ほっと息を吐く。


『いるんでしょ? わかってるよ』


だが、真剣は笑顔のまま。

まるで琥珀が見えているかのように話し続けた。


『琥珀を慰めに来たのに、無視? 酷いなぁ』


何で?と、どうして?が交互に頭をよぎる。

曲がりなりにも、ここはセキュリティのきちんとしたマンションだ。

どうやって部屋の前まで来たのか。

あるはずもない情報を探して、インターホンに映る真剣の周りを注意深く見た。


『まぁ、開けなくてもいいよ。聞いてはいるんだろうから』


怖い。けれど、目を離すのはもっと怖い。

ポケットに入れていたスマホを震えそうな手で探す。

ぎゅっと握り、確かにあることを確認してから、いつでも電話できるように両手で持った。

『あ、ちなみに』と真剣は、今気づいたように言葉を発した。


『今日このマンションは撮影で使われることになったから、誰かが来てくれるとか考えるだけ無駄だよ』


まるで琥珀の考えを見抜いているような発言に、琥珀は思い切り眉間にシワを寄せた。

もっとマシなことにお金を使えないのだろうか。

ひとり、真剣への嫌悪感を募らせる。

こうやって琥珀と話すためだけに来たのか。電話や他の手段もあっただろおうに。


「嫌なやつ……!」


呟いてから、琥珀ははっと玄関へ視線を向ける。

チェーンをしたかが気になった。

鍵は確かに閉めた。だが、チェーンをかけたか、覚えていない。

確認すべきか、部屋に戻って内鍵をしめるべきか。

エアコンのお陰で室内は快適に保たれている。それでも嫌な汗が琥珀の背中を伝っていった。


『僕だったら、歌えない君でも必要だよ』


勝手な言葉を垂れ流すインターホンの前から足音を立てないように移動する。

ゆっくりゆっくり動く。ほんの数メートルがとても長く感じた。

背後から真剣の声が追いかけてくるようだ。


『ザクロだっけ? あの女の子は歌える琥珀しかいらないでしょ?』


ピタリと琥珀は足を止めた。

ドクドクと自分の心臓の音がうるさい。

歌えない琥珀は、ザクロに必要とされるだろうか。

歌う以外何もできず、一緒に住んでいても全ておんぶに抱っこ。それでも許されていたのは、ザクロが琥珀が歌うことをサポートすると決めてくれていたからだ。


「ザクロはっ」


思わず、声が出た。琥珀はぎゅっと胸元を掴む。

脳裏に表情をあまり動かさない同居人の顔が浮かんだ。その下で思ったより感情豊かな部分があるのを琥珀は知っている。

ザクロはそんなことしない。

そう思っているのに、否定しきれない。


『元々歌手の琥珀のためのボディガードなんだから、歌手じゃなくなったら側にいてくれないよね』


唇を噛みしめる。真剣の言葉に小さく頭を振ってから、琥珀はチェーンが見える位置まで足を進めた。

いつもなら数秒もいらないのに、足が震えるせいで中々進まない。

やはりチェーンはかかっていなかった。


「私は、歌えるわ」


自分に言い聞かせる。

琥珀という人間は歌うことでのみ、生きてきた。

歌えないカナリアに価値がないように、歌えない琥珀にも意味はない。

だからこそ、歌うしかない。


『いつかは歌えるかもしれない。でも、芸能界はそんなに長く待っていてくれないよ』


チェーン。とにかく、チェーンをかけて、自分の部屋に戻る。

そうすれば、真剣も諦めていなくなってくれるだろう。

嫌な動悸が続き、琥珀は荒い息遣いを鎮めるように吐き出した。

一歩分さえないようなすり足で、距離を詰める。

慎重に手を動かす。震えているせいで、金属がぶつかり音を立た。うまくロックに入らない。


『特にモノリスなんて小さい場所じゃ、忘れられる。真剣だったら、歌以外の方法でもアプローチできるけどね』


正論ばかりだ。社長になると人はこうも変わるのか。

苦々しい感情を飲み込む。

琥珀はどうにかチェーンをかけ、扉の向こうから聞こえてくる真剣の言葉に口を真一文字に結んだ。

部屋に戻ろうと、背中を向けた瞬間、カチャンと聞こえてはならない音がした。

顔だけで振り返る。

廊下に電灯の人工的な光の筋が差し込んでいた。


「ねぇ、琥珀、どうする?」


目があった。

一欠片の声も出ず、リビングへと走る。

なんで、鍵が空いたのか。いつから、タイミングを測っていたのか。

リビングへ入り、扉を閉めた。がくがくする膝を叩き足を進める。

部屋の中を見回す。特に変化はないはずなのに、見慣れない部屋のように思えた。

インターホンへ視線を戻し、琥珀は気づく。


「私と、会話してた?」


その可能性にゾットとする。

リビングでも安心できない。鍵が空いた時点で、チェーンだって切られる可能性はある。

自室に戻り、内鍵をかける。

それでも足りない。

部屋の中にあるもので、扉を塞ぐ。机やベッドを扉にくっつけた。

大きな音が出たが気にしていられなかった。もしかしたら、真剣により自分以外の住人がいない可能性さえある。


「ザクロ、出てっ」


ベッドの段差に隠れるように床に腰を下ろす。

震える指先に、スマートフォンがうまく反応してくれない。

窓の外ではまだ激しい雨が振り続けている。

いつもの何倍も時間をかけてコールを鳴らす。数コールがとても長く感じた。


『もしもし?』


耳元でザクロの声がする。それだけで、部屋の温度が暖かくなった気がした。

堰を切ったように琥珀は状況を説明しようとする。


「もしもしっ、ザクロ、まーくんが!」

『……何ですって?』


真剣の名前にザクロの声が鋭くなる。

心配してくれている。

琥珀は体を抱えるようにしながら、どうにかザクロに状況を説明した。

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