第35話
遠くから琥珀の歌う声がした。
名前を呼ばれた気がして目を開ける。
瞬間にすべては遠くなり、ザクロの目の前にあるのは薄暗い天井だった。
窓から赤光が差し込み、部屋を赤く染めている。逆光になったビルたちが長方形の影とななっていた。
「……ここ、っ」
視界が焦点を結ぶようになり、ザクロは顔を右へ左へと動かした。
シーツが擦れる音が響く。
病院特有の静けさと遠くのざわめきが感じられた。
長方形の影に同一化していた影が動く。警戒して体を引いた。
すぐに見慣れた人の形になり、ほっと息を抜く。
「目が覚めたか?」
「永田さん」
ザクロが名前を呼べば、頷いてくれた。
夕日に照らされた顔は表情が見えにくい。
永田の大きい背中が太陽を遮るようにザクロのベッドを覗き込む。日陰になったことで視界がぼやけた。
永田はザクロを数秒見つめた後、ザクロの頭の方に体を伸ばした。ナースコールが壁からオレンジのコードで繋がっている。
その先はザクロの顔の付近にあるようだ。
「病院だ。待ってろ、人を呼ぶ」
伸びてきた永田の腕をつかんだ。目をぱちくりとさせる永田に、ザクロはできる限りの力で腕を引き距離を近づける。
近くなれば永田のタバコの匂いがした。
ザクロは顔をしかめ、伝えたいことだけ音にする。
「琥珀さんの、ライブは?」
医者や看護師が来たら、こんなことを尋ねる時間は無くなる。
じっと永田の顔をザクロは見つめた。
永田はもう片方の手で頭をがしがしと掻くと、呆れと苦笑いをブレンドした顔で笑った。
「……安心しろ、ちゃんと開催された」
ザクロは永田の腕を離す。
少し起こしていた体をベッドに埋めれば、右側を中心にして鋭い痛みが走り、ザクロは顔をしかめた。そっと左手で右側に触れる。ガーゼの感触が指先に伝わった。
すぐに左手を元の位置に戻し、大人しく仰向けになる。
「良かった」
琥珀のコンサートが開催された。それを聞けただけで満足だった。
頬を緩めたザクロを、街中で見かけない珍獣を見た住人のような顔で永田は見つめ、今度こそナースコールを押す。
「これは何本に見えますか?」
「二本です」
目の前で指がゆったりと振られる。
片目ずつ確認され、両目でも同じ見え方か聞かれた。
ナースコールを押してすぐに来てくれたのは、看護師さんだった。ザクロが起きているのを確認すると「ちょっと待ってください。先生を呼んできます」となれた口調で言い、戻る。
5分も経たずに、ザクロが初めて見る先生が入ってきた。
「こっち握って、反対は?」
目が終われば、寝たまま右手、左手と握りしめる。わずかに痛みはあるが、感覚と動きに差はない。
足も動くことを確認され、ザクロは言われるがまま動かした。
「しびれはありませんか?」
「今のところ大丈夫です」
ザクロがはっきりとした口調で答えれば、医者は大きく頷いた。
「西園寺さんの状態ですが……」とテレビでしか聞いたことがない言葉で呼びかけられ、一瞬、自分のことではないように感じてしまう。
だがベッドサイドに立つ先生はまっすぐザクロしか見ておらず、返事をしたら上ずった声になった。
「ナイフによる裂傷です。場所が右脇腹だったので、肝臓に損傷が見られ手術になりました」
ナイフ、裂傷、肝臓と単語だけを拾っていく。
左手でそっとガーゼの部分を触れた。この下では傷が縫われており、その上に接着剤のようなものが塗られている。
そして、塗った部分を保護するためにガーゼが置かれているとのことだった。
言いなれているのか、医者の口から出る説明は滑らかでわかりやすかった。
「止血はしてありますが、内蔵の損傷は表面だけの傷と違い再出血や予期せぬトラブルが多く起こります。一週間は入院です」
「はい、分かりました」
一通りの説明が終わり、ザクロは素直に頷いた。リハビリのことなども含め、そうのんびりしている暇はないようだ。
一週間が長いのか、短いのかザクロには分からなかった。
再び二人だけになった部屋で、ザクロは福山に寝たまま頭を下げる。下げたと言っても寝ているので曲げるだけの不格好なものだ。
「ご心配おかけしました」
「まったくだ。福山から連絡が来たときは、こっちの心臓が止まるかと思ったぞ」
「小桜は?」
いつもの調子で話し出す永田に、ザクロは素早く切り込んだ。
余裕のない言葉に、永田は一度肩を竦めるとザクロが表情を変えないのを見て、すぐに左手で右肘を支え、右手を顎に当てた。
「福山がきちんと警察に引き渡した。今取り調べ中だが、まぁ……わめいてたな」
「逆恨みですか」
ザクロは小さく顎を引く。
やれやれと首を振る永田の姿から、何となく想像できた。
永田が言葉を探している間、一定の間隔でなる電子音がザクロの耳につく。
音に合わせて琥珀の姿が浮かんでは消えた。
「よっぽど、舞村ひなたが好きだったというのはわかるが……あれじゃ、舞村が可愛そうだな」
舞村ひなたは、自分のためと言って大切な恋人が誰かを襲うことを喜んだだだろうか。
いや、決してそういう類の人間ではなかったはずだ。
琥珀が女優の、人としての才能に憧れ、明子がいまだに大切にしている人間。
どちらかといえば、潔癖な部類だろう。だからこそ自殺なんて選択をした。
「銃はどこから?」
世知辛さを飲み込みながら尋ねる。
防弾チョッキは仕事柄、身に着けるようにしていたが。しがし、小桜が銃を持ち出すのは予想外だった。
永田は表情を一層険しくした。
「言わんだろうなぁ。かなり錯乱してたしな」
「薬物ですか?」
「もともと銃なんてぶっ放せる性格じゃないんだろう」
「そうですね」
震えていた両手を思い出し、ザクロも頷いた。
どこまで小桜の仕業か。取り調べによってはっきりしてくるまで時間がかかる。
だが、琥珀の危険はかなり減ったと考えていいだろう。
沈黙が広がった部屋でタイミングを見計らったように着信音が響く。
時間を見れば19時すぎ。午後はすべて夢の中に溶けていた。
「もしもし」
『……ザクロ?』
息をのむ音が聞こえた。そのまま黙って待っていると、恐る恐る名前を呼ばれる。
琥珀の声を聞いてザクロはやっと安心できた。
できる限りはっきりした声で答える。
「はい、心配かけました」
ザクロの声が届いたか、どうかで琥珀が爆発した。
『ほんっとよー! ほんとに、ほんとにっ……』
耳からスマートフォンを少し離す。すぐに琥珀の声に涙が混じり始める。
スピーカーにしたわけでもないのに、よく響く声だ。さすがは歌手だ。
永田と目があい、お互いに苦笑を交わす。
琥珀が落ち着くのを待つ。
「ライブ、大丈夫でした?」
『お客さんにも気づかれずに、開催できたわ。明日になればニュースになってるんでしょうけど』
眉間に皺を寄せる琥珀の顔が想像できるようだった。
ニュースを止めることはできない。特に今回の事件は刑事事件。
また琥珀のスキャンダル女王の逸話が増えてしまった。
『まぁ、いいんだけど』と琥珀が呟く。
『ほら、聞いて』
琥珀に言われて耳を澄ませる。
琥珀の名前を呼ぶ声や何とも言えないざわめきがそこにはあった。
ザクロはその正体に気づく。琥珀から何度も見せられたものだった。
「まさか、バックヤードで電話してます?」
『今からアンコールよ』
きっぱりとした声で琥珀が答える。
そんなときに電話してくるなんて。
ザクロは苦笑を隠さず永田と肩を竦めあう。しかし、不思議と気分は良かった。
こうなっては言えることは一つしかない。
「……頑張ってきて下さい」
『ええ、そこで聞いてなさい!』
「え?」と聞き返す前に、どうやら琥珀はスマートフォンを誰かに渡したらしい。
歓声が大きくなる。琥珀がステージに出たのだ。
ファンだったら垂涎もののライブ配信。
切るわけにもいかず、ザクロは布団の上にスマートフォンを置いた。
「これ、いいんですか?」
「琥珀がいいって言ってんだから、いいんだよ」
「そうですか」
琥珀が満足げに帰ってくるまで、ザクロはただじっと目をつむり、琥珀の歌を聞いていた。
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