第36話
永田は琥珀のライブが終わるとすぐに帰っていった。
帰り際、電気を点けてもらったので部屋は先ほどまでと比べると明るい。とはいえ、ベッドの上でできることなど限られている。
テレビは好きじゃない。スマートフォンでのネットサーフィンも今は気分じゃなかった。
(そろそろ、ニュースも出るころかな)
時計を見れば、琥珀の電話が切れてから一時間ほど。
小桜のニュースはすでに出始めているだろう。琥珀のライブに、小桜の逮捕。
SNSは好きに騒ぎ立てるに決まっている。爆速で流れていくタイムラインが見えた気がした。
窓の外を見ると、すでに日は完全に落ち、赤かった空も群青に変化している。
静かな部屋にアンコールで聞いた琥珀の歌を少しだけ口ずさむ。
ーーコンコン。
部屋の扉をノックする音に、歌うのを止める。
窓際に向けていた顔を反対側に向けた。
そろそろと静かに扉が開かれる。看護師とは正反対の開け方だ。
ベッドの上からでは誰か確認できなかったが、ザクロは何となく名前を呼んだ。
「……琥珀さん?」
がたりとドアが大きな音を立てる。
急激に大きくなった足音共に、ザクロから見える位置まで人影が移動してくる。
ラフなTシャツに黒い太めの七分パンツ。上には少しだけ厚手のパーカーを羽織っている。
キャップを深くかぶり、顔は見えない。それでも琥珀だと分かったのは、そのキャップが最初にザクロが購入して渡したものだったからだ。
「っあ」
ベッドサイドに立った琥珀と目が合う。瞬間、琥珀の口から音がこぼれた。
キャップの下に隠れていても、今更見失ったりはしない。
幽霊でも見たかのような顔でじっと見てくる琥珀は、彼女自身が幽霊のように朧げで、危うい。
そっとできる限り手を伸ばす。
「急に泣かないでくださいよ」
「だって」
ザクロが限界まで手を伸ばしても、琥珀の顔までは届かない。
彼女の大きな青い瞳から涙がぽろぽろと零れ落ちる。膜がはって、珠になり、頬を伝う。
それだけで絵になる人間。確かに、琥珀は怪物なのかもしれない。
芸能界という場所だけで生きていける怪物。
プルプルと手を震えさせる琥珀に気づいたのか、琥珀は膝立ちになるようにベッドサイドに顔を近づけてくれた。
ザクロは琥珀の涙を拭う。
「琥珀さんの泣いた顔、見たくないです」
最後に顔を見たのは小桜の襲撃のときなのだ。ライブで聞いたのは声だけ。
できれば明るい顔を見たい。
ザクロは困ったように首を傾げた。
「泣かせてるくせに」
「それは……すみません」
琥珀に手を取られて握りしめられる。握手にしても、強すぎる力だった。
痛いところを突かれた。
苦笑しつつ謝るしか、ザクロに選択肢は残されていない。
琥珀はザクロの言葉に小さい子供がするように何度も顔を横に往復させた。
キャップが落ち、あふれた髪の毛がふわふわと舞う。
「いいえ、助けてもらったのに、こんなんじゃダメね」
左手でザクロの手を握ったまま、琥珀は自らのしずくを拭った。
まだ潤んではいるが、どうにか止めることに成功したようだ。
いつ球になって落ちてくるのか。ザクロはひやひやした。
キリリと表情を引き締めた琥珀が、涙でぐしゃぐしゃな顔で笑う。
「ありがとう、ザクロ」
ザクロは息を止めた。
これより、綺麗な顔を何度も見た。
これより、輝いている笑顔を何度も見た。
これより、尖っている顔だって、何度も見た。
けれども、これほどまでに心奪われる琥珀の表情は初めてだった。
「……どういたしまして」
言葉を探して、出てきたのは一言だけ。
ザクロと琥珀は顔を見合わせお互いに笑いあう。
「歌、聞きました。ライブ、すごく盛り上がってましたね」
「アンコールだけ聞けるなんて、贅沢な楽しみ方ね」
「そうですね」
さすがに恥ずかしかったのか、頬を少しだけ赤く染めた琥珀がザクロの手を離す。
それから傍に置いてあった椅子に腰かけた。
ザクロも当たり障りのないライブの感想を口にする。あの電話からそう時間は経っていないのに、よく病院に来れたものだ。
「そのまま会場から来たんですか?」
「あんま見ないで」
ザクロの言葉に、琥珀は今気づいたというように、目を大きくさせ、素早くパーカーのチャックを上にあげた。
それで隠れるのは中のTシャツくらいだが、琥珀の乙女心にとっては意味があるようだ。
目を瞬かせるザクロに、琥珀は顔を横に向けると唇を尖らせた。
「急いでたのよ」
顔のメイクは落ちている。
きっとライブが終わった瞬間にメイクだけ落としてここに来たのだろう。
ザクロの目元を隠すように琥珀の手のひらが添えられる。
ふわりと鼻先を琥珀の香りが掠め、ザクロは安堵と可愛らしさに頬を緩めた。
「ふふ、今更すっぴんの琥珀さん見ても驚きませんから」
「複雑」と、琥珀が眉間に皺を寄せて呟くのでさらに笑いがこみ上げてくる。
ザクロの笑いが収まるまで、琥珀は憮然とした表情を崩さなかった。
「ここまでは?」
「城田が連れてきてくれたわ。まぁ、福山と朝霞も一緒だったけど」
「面白い空間ですね」
その四人が同じ車にいるとき、一体どんな会話になるのか。
病院に全員で入るのは難しいだろうから、福山か朝霞のどちらかが部屋の傍に待機しているのだろう。
くるくると指先で自分の髪の毛をいじる琥珀に、ザクロは言い忘れていた謝罪を口にする。
「約束、守れなくて、すみませんでした」
「っ……ほんと、よ」
収まっていた涙が再燃する。
ああ、しまったとザクロは思った。
まだぼんやりしている頭は、普段より考えずに言葉を口にしてしまう。
「私、が、どれだけっ」
ひくりと琥珀の喉が引きつった。肩が息にあわせて揺れ始める。
ザクロは穏やかな声で問いかけた。
「怪我はなかったですか?」
こくんと琥珀の顔が揺れる。
良かった。安堵が胸に広がる。
小桜は確保した。永田にも聞いた。
それでも本人に聞きたかったのは、ザクロのわがままだ。
「わたしがいない間、傷つくようなことは起きなかったですか?」
ぴたりと一度動きが止まって、また大きく頷かれる。
ほっとザクロは息を吐いた。
「よかった」
それから、しばらく、琥珀の震えが収まるまで待っていた。
琥珀が子供の様に両手の甲で顔をこする。
そんなことしたら、腫れてしまう。
意識が戻ってから一番もどかしくザクロは感じた。
「誰も、ザクロのこと教えてくれなくて」
「ええ」
「大丈夫ですの一点張りで。朝霞は『あの人は殺しても死にませんよ』なんて言うし」
小桜と対峙したザクロを琥珀は見ていた。
そのザクロが帰ってこなかったら、心配もするだろう。
だが、詳しい説明を琥珀に控えてくれて、ザクロとしては安心していた。
琥珀が一段と声を低くする。
「私のせいで、って」
「琥珀さんのせいじゃないですよ」
こう、思ってもらいたくなかった。
ザクロの怪我は、ザクロの責任だ。
福山も朝霞もそう言うだろう。だが、琥珀が、庇われた人間がそう思うのは難しいのも、ザクロは知っていた。
琥珀の涙で赤い瞳がちらちらとザクロを見る。
「でも、歌いたくて……歌わなくちゃいけなくて」
「いいんですよ。それで」
ザクロは深く頷いてみせる。
琥珀に歌ってほしくて、あんな方法を取った。
ライブがどうでもよければ、もっと取れる方法はあったのだから。
「自分を助けた人を放っておく人間でも?」
「ふふ、琥珀さんがライブを止めてた方がダメージが大きいですね」
すがるような声音に、ザクロはわざと明るく返した。
今さら、そんなことでダメージは受けない。
歌を第一にする人間だと知っているし、ザクロもそういう琥珀だから手伝った。
「その考えは……まずいわよ、ザクロ」
「琥珀さんのヤバさが移ったのかもしれませんね」
ザクロの言葉に、琥珀がやっと涙を止め「もう!」と声を上げた。
ほぐれた表情を見ながら、ザクロ自身も頬を緩める。
「とにかくライブ成功、おめでとうございます」
「ありがとう」
鮮やかな笑顔。
その顔が見れれば満足……なんて、昔のメロドラマのようなセリフが過る。
この時、琥珀は確かに満足していた。ようやく枕を高くして寝られる。
そう思えたのも、次の日に琥珀から歌えないと電話が来るまでだった。
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