第33話


モノリスの近くで車から降りたザクロは足早に事務所へ向かった。

オートロックになったキーにカードを当て、解除させる。

予想に反し、廊下はいつもと変わらない静けさを保っていた。

自分の息遣いが一番響くような状態に、ザクロは一度、胸に手を当てて呼吸を整えた。


(真剣の声?)


自販機、廊下の奥、太陽が照り付けるすりガラスと見える範囲をもう一度確認する。

それから、靴音に気をつけつつスタッフルームへと近づいた。中に繋がる扉にそっと手をかけ、小さな音さえ出ないよう慎重に開ける。

外に変わった様子はなかったが、城田の電話内容だ。気を抜けるわけがない。


「ねぇ、琥珀、今の僕だったら、君のために色々できるんだよ」


入った瞬間に飛び込んできた声にザクロは顔をしかめた。

声はあの日聞いた、まーくんのものだ。

閉めるときも音を出さないように後ろ手でゆっくりと扉を戻す。声のする方へ向かい、ザクロは足を進めた。

滅多に使われない応接室は、やはり使われていないらしい。


「あら、そう。ありがとうね。でも、自由に歌わせてはくれないんでしょ?」


そっと物陰から琥珀と真剣の様子を伺う。

ザクロに気づいた城田が手招きをしていた。

琥珀はこちらに完全に背中を向けている。真剣も琥珀しか見えていない様子だ。

「どういう状況?」と、ザクロはこっそり城田に尋ねた。

城田のデスクにはパソコンが置いてあり、視界が大きく遮られる。コソコソ話をしたところで、気づかれる可能性は低かった。


「真剣社長が急に訪ねてきて……でも、琥珀さんはあんな感じで」


眉を下げた城田が顎で琥珀の背中を指し示す。

パソコンの画面と画面の間から覗くようにして、琥珀の横顔を見る。

長い金糸は結びもせず腰の位置くらいで揺れていた。何回か、無造作にかき上げたのだろう。

数束、流れに逆らっているのが見えた。

横顔だが、真剣を見る瞳に甘さは欠片もない。細められた瞳から放たれる視線が突き刺さるような鋭さを持っていた。


「真剣には色んなアーティストをプロモーションしてきた手腕があるから、今までよりもっと色んなところで歌える」

「それを自由とは言わないわ」


真剣はいつかに見たに軽い笑みを浮かべていた。

髪の毛はビジネスマンらしく整えられ、上品に流されていく。スーツ自体も着られている雰囲気はあったが、質の良い生地のようだ。

社長と紹介されれば、違和感がないほどにはなっていた。

もっとも琥珀にはそんなことは関係ないようで、事情を知らない人が二人のやり取りを見たら真剣がかわいそうな程だ。

二人の間に永田が所在なさげに立っていた。両手を握ってタイミングを伺っている。


「真剣社長、琥珀もこう言ってますし、融資の件は本当にありがたかったのですが……」


珍しく髭を添っている永田が、二人の間に割って入る。

だが琥珀の言葉は止まらなかった。


「まーくん、いや、真剣社長、私が何を一番大切にしてるか知ってるでしょ?」

「歌とライブ、だよね?」


こてんと首を傾げた真剣が答えた。琥珀はすぐに頷いて、組んでいた腕を解いて、腰に手を当てた。


「そう、そのためにも、今は邪魔されたくないの」


琥珀の視線が、スタッフルームに置いてある大きな机の上を見た。

机の上には何枚かの紙とノートパソコンが置いてある。

事務所で待機している間に使うというので、ザクロが部屋から持ってきた琥珀の私物だ。

机の上だけでなくソファの上や、テーブルの下にまで散らばっているところをみると、音楽の神が下りてきていたようだ。

琥珀の不機嫌の原因が分かった。


「悪いけど、他をあたって? 融資してくれるって言ってくれたことは本当に嬉しかったわ」


ばっさりと琥珀は言い放った。

真剣が悲し気に眉毛と唇を下げる。


「本気なんだね」

「どんなときも、私は本気よ」

「そっか……やっと僕にも何かできると思ったのになぁ」


琥珀の取り付く島もない様子に、真剣は一度大きく肩を落とす。

顔を俯かせ、次に上げた時にはすでに余所行きの笑顔を浮かべていた。


「いつでも、助けが欲しいときは言ってね」

「ありがとう、覚えておくわ」


琥珀が体を引き、出口までの道を開ける。永田が誘導するように真剣とともに歩き出した。

城田のデスクの脇を通るとき、ザクロたちに気づき足を止めた。


「あのときのオネーサン、本当に琥珀のボディガードだったんだね」


足元から頭の先まで眺められる。

忘れてくれている方が楽だった。ザクロはそう思いながら、笑顔を浮かべ、その視線を正面から受け止める。


「あなたのお陰で、琥珀さんの男癖をよく知ることができました。ありがとうございます」

「ふふっ、嫌味だねぇ」


真剣の瞳が細められた。あの時も思ったが、頭の回転は悪くない。

状況判断も素早いし、自分に向けられた言葉の意味にも敏いようだ。

ザクロの言葉に真剣はさらに口角を上げると、ザクロの耳元に口を近づける。

何だか負ける気がして避けることはしなかった。


「まぁ、よろしく頼むよ。琥珀は僕の大切な人だから」


耳元から悪寒が走った。

鳥肌が立つ感覚を顔に出さないように堪える。隣に立っていた城田がすごい勢いでザクロと真剣の顔を高度に見ていた。

「真剣社長」と永田に声をかけられて歩き出す。その背中が扉から出ていくまでザクロは見つめていた。


「キモっ」

「なんでしょう……あの違和感」


ばたんと扉が閉まり、その瞬間に城田が声を上げた。ザクロに近づくと、まるでごみを払うように顔が近づいた方の肩を叩かれる。

ザクロはされるがまま、真剣の様子に首を傾げた。

すぐに永田が戻ってきて、大きな背中を少し丸めてため息を吐く。


「とんだ曲者くさいなぁ」

「えー、だってまーくんですよ?」


永田は自分の椅子に戻るため歩き出す。

城田は納得いかない顔で目を瞬かせていた。その脇を通り抜けて、琥珀の元に戻る。

ザクロは小さく肩を竦めた。


「わたしも社長の意見に賛成、ですね」


ザクロの言葉に城田はまた首を傾げた。

それを視界の端に追いやり、琥珀を探す。すでに散らかったソファの上に彼女は戻っていた。

紙の中心に胡坐をかいて座っている。片手で紙を拾っては、別の神を拾い上げる。

見慣れた光景に胸を撫でおろし、小さく頭を下げた。


「琥珀さん、遅くなりました」

「んー、あ、いいわよ……ちょうど良いフレーズとメロディが出たところだったから」


琥珀の姿をちらりと見たかと思うと、すぐにパソコンへと視線を戻す。

猛烈な勢いで、キーボードが叩かれる。

はてさて生まれているのは歌詞なのか、メロディなのか。

ザクロには分からなかったが、邪魔をする気にはなれず、永田のデスクへ向かう。


「よく、この状態の琥珀さんに真剣は話しかけましたね」


永田はぐったりと背もたれに背を預けていた。両足までデスクの上に放られている。

脱力しきった姿にザクロは両肩を上げて、真剣の勇気を称えた。

今は休息をとるのが先とばかりに、微動だにせず永田が答える。


「図太くないと社長もヒモもできないだろ」

「……いやに、説得力がありますね」


ばっさりとした言い草にザクロ頬を緩めた。

確かに、そうかもしれない。まーくんとして会った時も、真剣社長として会った時も、図太さは変わらない。

創作に集中している琥珀の横顔を見る。すでに真剣が来たことなど忘れたように自分の世界に入り込んでいた。

その横顔をみていたザクロに、やっと足を机から下ろした永田がデスクの上に肘をつき顔を支えた。


「気をつけろ、ザクロ……ありゃ、ほんとに琥珀を手に入れたいみたいだぞ」


こくりとザクロは頷く。

今、琥珀はライブに向けてスケジュールが詰まっている状態だ。

その期間に琥珀がいる瞬間を狙い、事務所へ訪問することができる。

さすが大手と、ザクロは気を引き締めた。


「ええ、わかってます。小桜のことでも気になることがありました」


ザクロは永田に対し、小桜が出版社に出入りしている写真を机の上に置いた。

ライブを成功させるために、琥珀がこちらの世界に帰ってくるまで、作戦会議は続けられた。

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