第30話
モノリスの廊下は基本的に消灯している。
昼の時間帯であれば、窓から差し込む光で足元に苦労することはない。
大きな曇りガラスがはめ込まれた廊下はそう長いわけもなく、琥珀は自販機が置いてある入り口付近にたどり着いていた。
(この事務所だって、なくなるかもしれない)
じっと事務所と外を区切る扉を睨みつける。
元々、モノリスには琥珀以外が目立った芸能活動をしている人間はいない。
ザクロはスタントをしているようだが、琥珀の付き人になってからセーブしている。
城田は事務といっていいのか分からないが、事務と情報収集専門。
永田も本人は芸能活動をしていない。妙に顔が広いから、昔はしていた可能性はある。
その他にもメンバーはいるらしいが、琥珀は知らなかった。
「琥珀さん、外はダメですよ」
「……ザクロは、私が話を受けたほうが嬉しいのかしら」
後ろから城田の声が聞こえた。
スタッフルームを飛び出して数秒で扉の開閉音がしたから、驚きはしない。ただザクロでないことにガッカリした自分がいることも事実だった。
何度か大きく深呼吸する。肩を揺らさないように、慎重に深く息を吸い込んで、細く長く息を吐く。
それでも出た琥珀の声は震えていた。
「琥珀さん?」
城田の気配が少しだけ近づいて、止まる。
それ以上距離が近づいたら、また逃げ出していた。伺うような声に、振り返らず頭を振る。
「歌のことなら分かるのに……人のことはさっぱり」
木目調の扉に背中を預ける。どうにかこうにか、口角を引き上げる。
向き合った城田は戸惑っているのか、野生の猫を保護しようと頑張る人間のような顔をしていた。
城田のはるか後ろを見つめる。扉が開く様子は、ない。
ふーともう一度声の調子を整えた。
「ザクロ、この頃、家でも難しい顔でパソコンを睨みつけてるのよ」
ザクロの仕事は多岐にわたる。
琥珀が知っているだけで、付き人業務なんて名ばかりの雑用全般。琥珀の使うスタジオの予約はもちろん、その場で会った人たちへの営業もしているようだ。
脅迫状のことがあってからは、福山たちとも連携して外への警戒も強めている。
ライブの準備も増えたし、ひなたの件でも独自に動いていた。
「料理もして、洗濯も、ほとんどザクロで」
ザクロを押し切る形で始めた同居。
最初こそ、独り立ちできるようにと家事について色々教えてもらった。もう洗濯機から泡を溢れさせたり、電子レンジで爆発物をつくることはないだろう。
(誰かとのんびり過ごすのって、楽しかったのね)
同じものを共有したり、意見を言い合ったりする人がいるのは、思いのほか楽しかった。
琥珀は初めて家にいることを楽しんでいたのだ。
だが、今の新しい家に越してから、ライブが忙しくなるにつれ、そういう時間は無くなり、家事もほとんどザクロの仕事になっていた。
「あー」と城田が大きく何度も頷いた。
「ザクロさん、地味に完璧超人の世話焼きなんで……色々してくれますよね」
城田が少しだけ空間を開けて、琥珀の隣に並ぶ。
ザクロを思い出している横顔は、さっきの戸惑った顔と違い穏やかだった。
ああ、やっぱり、あれはザクロの基本的な性質なのだ。
少しだけ悲しくて、琥珀は眉根を下げた。
「あの子、なんでこんなに頑張ってくれるのかしら?」
分からない。無理をさせたいわけではない。
ただ、離れたいわけでも、もちろんない。
数秒の沈黙を破ったのは「ふはっ」という、城田が堪えきれなかった笑い声だった。お腹を抱えるようにして、城田の体がくの字になる。
「ははぁ、琥珀さん、本当にダメ男としか付き合ったことないんてすねー」
「どういう意味?」
こんな場面で馬鹿にされてる?
尖った声が出た琥珀に、城田は「怒らないでくださいよぉ」と、まだ笑いの収まらない声で答えた。
目じりに溜まった涙を拭った後、城田が子供に物を教えるように人差し指を立てた。
「ザクロさんは、真面目で、責任感があります。そりゃ、潔癖すぎて人間不信みたいなとこも見えますけど……基本的には良い人です」
「そうね」
城田のザクロ評はとても的を得ていた。
この業界に長くいるとは思えないほど、ザクロは潔癖な性格をしている。
まるで教師や弁護士のようなお堅い仕事の人間のようだ。どういう流れで芸能界なんてものに入ったのか、聞いてみたいくらいだ。
「そういう良い人は、一度懐に入れた人間のためなら何でもしてあげたくなっちゃうんですよ」
にやりと笑って城田が、どこかで聞いたことのある言葉を告げる。
もっともその時、立場は反対だったが。
「琥珀さんも、そうでしょ?」
図星を突かれて、琥珀は両肩を大きく上げると、顔を横に振った。
自分の何でもしてあげると、ザクロの献身を同じ括りにしたくない。
右、左と視線を動かして、言葉を探した。
「私の場合は、歌が最優先になっちゃうから」
歌が出てくると、結局は後回しになる。
だからこそ、スキャンダルになる事が多かったのだし、後悔もしていない。
好きだと言われれば嬉しい。嬉しいならお返しをしたくなる。それだけ。
あとは歌に使えるようなことをしてくれたら、言うことはない。
ーー自由に歌えるならば、何でも良かった。
そう思ってしまう自分がいることに、琥珀は気づいていた。そして、そんな自分がひどく冷たい人間のようにも思えた。
城田がすっと目を細める。
「じゃ、なんでザクロさんのことは気にするんですか?」
ぴたりと動けなくなる。考えたこともなかった。
「それは」
違うから。ザクロと、今までの人間は、違うのだ。
何が違うの?
出てきた疑問に琥珀は言葉を紡げなくなる。
そんな琥珀を見て、城田は真剣な色を緩めた。
「答え、もう出てると思いますけど」
城田が壁から背を離した。琥珀もつられるように彼女の動きを目で追う。
「ザクロさんとよく話して下さいね」
「そろそろ戻りましょう」と言われ、琥珀は素直に頷くしかできなかった。
※
「ねぇ、ザクロ」
家に戻り部屋に戻ろうとしたザクロの背中に、琥珀は意を決して話しかけた。
城田との会話をしてから、ずっと考えていた。
ちらちらと視線が飛んできているのを感じてはいたが、頭の中を整理することを優先させた。
ザクロは大きく背中を震わせると、振り返る。
肩口で切りそろえられた髪の毛が顔に影を作る。こげ茶色の瞳が琥珀を見た。
「何ですか?」
硬質な声に琥珀は怯まなかった。
久しぶりに真正面から見た、綺麗な二重に縁取られた丸い瞳。表情が少ないため分かりづらいが、笑うと幼く見えるのを琥珀は知っている。
「私、自由に歌いたいの」
「……知ってますけど」
琥珀の宣言に、ザクロは訝し気に眉間に皺を寄せると首をわずかに傾げた。
今更何を、と顔に書いてある。
表情が少ないわりに、感情が読みやすいのはなぜか。きっと元来素直な性格なのだろう。
琥珀は質問を重ねた。
「まーくんだったら、自由に歌わせてくれると思う?」
「経済的には、そうなんじゃないですか?」
軽く腕を組んで、斜め上を見つめる。
こんなどうでもいいことでも、一応は考えてくれるらしい。
本当に真面目。だが、気に食わないのか口はへの字になっていた。
琥珀は頬が緩むのを必死に抑えた。
「経済以外では?」
じっとザクロの表情の変化を見ながら聞く。
城田に言われたことが身に染みる。
確かに答えはすでに琥珀の中にあったのだ。
「あなたみたいに、世話を焼いてくれるかしら?」
「社長だし、無理じゃないですか?」
ザクロは呆れたように目を丸くさせる。琥珀は間髪入れずに同意した。
「そうよね。なら、行かない」
「は、あ……どうして急に」
琥珀の言葉が理解できなかったのか、半端に口が開けられていた。
ザクロは眉間の皺を深くする。しかし、その表情に安堵の色が浮かんでいるのを確かに琥珀は見た。
抑えきれなくなった笑みをそのまま溢れさせ、琥珀はザクロにお願いをする。
「ライブまで、これまで以上に迷惑かけるけど支えてくれる?」
「……しょーがないですねぇ」
お願いでも何でもなく、これはきっとザクロの仕事になる。
わざわざ口にした理由は一つだけ。ザクロに意識してもらいたかったから。
琥珀は生まれて初めて、ハンター側の気持ちを味わった。
獰猛さを含んだ笑みが生まれる。
「特等席で、見せてあげるわ」
「いえ、いつも見てるんで大丈夫です」
素っ気なくそう言ったザクロに、琥珀は満足げに頷いた。
ザクロを特等席に座らせる。魅せる。魅せてやる。
(どうやら私、あなたのことが好きみたい)
自分の中に降って湧いた感情を、ようやく掘り出して、琥珀は人生で初めての恋心を認めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます