第21話
琥珀の新曲発売イベントは、小規模のライブ会場を借りて行うことになった。
場所は地下にあり、コンクリートジャングルの街中と比べれば数度低い。クーラーもしっかりと利いているというのに、会場は陽炎ができそうなほどの熱気に包まれていた。
ザクロは簡易的に作られた仕切りの隙間から客席の状態を確認する。
「琥珀―!」
「待ってたよー!」
服装は様々。琥珀の以前のライブTを着ている歴戦の猛者から、きちんと物販で新しいTシャツを買って着ている男性ファンもいる。
かと思えば、どこぞのアイドルかと思えるほど可愛らしい服装の女の子もいたりして、全体としての統一感は薄い。
(いや、みんな、琥珀さんの名前を呼んでるか)
ごたごたのせいで久しぶりのイベントだったせいもあり、ファンの熱量はピークに近いらしい。
そこかしこから、琥珀の名前や感謝の言葉を叫ぶのが聞こえた。
もう一度「琥珀ー!」と大きな声を耳にして、ザクロは唇を固く結びながら覗いていた顔をひっこめた。
「すごい熱気ですね」
「んー、久しぶりのイベントだから」
緞帳の中、ステージ脇に簡易的なパーテーションで区切られた場所があった。置いてあるのはテーブルと椅子が2脚。テーブルの上にはメイク直しの道具。これはすべて琥珀の私物だった。
それ以外は飲み物と衣装をかけておくためのラックだけだった。
今日、琥珀はここで着替えや休憩をすることになる。
椅子に座って琥珀は薄くほほ笑んでいた。
メイクされた姿は何回か見ていたが、ステージに立つ琥珀を見るのはこれが初めてだ。
「倒れないでくださいよ?」
歌もダンスも、リハーサルの時点で完璧なのは確認している。
ザクロは唯一残った心配事だけを口にした。
「後でいくらでも倒れられるんだもの、わざわざ今、そんな勿体ないことしないわ」
緊張している様子もない。祭りの前にうずうずしている子供のように琥珀の口は良く回る。
倒れないんだろうなぁとザクロは思った。
きっと、この人は、ステージで倒れることは絶対しない。ステージ袖に下がった瞬間、意識を飛ばすことはあっても。
そして、その時、琥珀を支えることになるのは、きっと自分なのだ。
「でも、その時はよろしくね」
「……承知しました」
琥珀が椅子から立ち上がる。
笑顔で念を押されるように、ザクロに顔を近づけてきた。
距離が近い。両手で押しとどめながらステージの上へ見送る。
「これが、琥珀かぁ」
ステージの上の彼女は、誰よりも輝いていた。
*
ちょっとしたサプライズ発表があって、琥珀が怒り顔で舞台の袖に帰ってくる。
琥珀にも伝えていなかった。完璧なサプライズ発表。
ファンは歓声を上げ、手を振り上げている。好反応だ。
むしろ、何も知らなかったことに琥珀が一番拗ねていた。
「ちょっと、どういうことよ!」
ステージ上で「ありがとうございました!」と深く頭を下げた琥珀が笑顔で手を振りながら帰ってくる。
袖に入れば表情は一転し、ザクロはイベント前とは逆の状態で詰め寄られた。
「あの通り、ライブが決まりました」
琥珀がしたいと言っていた、今までの楽曲と新曲を携えてのツアーだ。
事務所を移るタイミングで一度ベストアルバムを出していた。レーベルとしては前の事務所のものだが、イベントだけで終わっている。
琥珀のファンの中でも待ち望んでいる声が多かった。
「知らなかったんだけど?」
「サプライズです」
「性格悪いわよ、ひとりだけ先に楽しいこと知っちゃうなんて」
腕を組んで、少しだけ背を逸らせる。わざとザクロとは別の方を向いているのは、怒っていることをアピールするためだろう。
その口の端がぴくぴくと動いていることから、嬉しさを誤魔化しているのがわかる。
ザクロはわざと明るい声を出した。
「あら、知りませんでしたか?」
「知りませんでしたっ」
ぷっくりと頬を膨らませる琥珀の額を汗が流れていく。ザクロは準備していたタオルを渡すために琥珀の正面に移動する。
受け取ろうとしない琥珀に苦笑しながら、汗をタオルで拭った。
「事務所も決まって、ライブの場所取りもできるようになったんですよ」
小さな会場ならまだしも、年間予定で決まるような会場は、信用が物を言う。動く金も莫大だが、それだけで、どうにかなるものでもなかった。
第一、金で黙らせられるほどの資金力はモノリスにはない。
ザクロの態度にやっと実感が湧いてきたのか、琥珀はザクロからタオルを奪うとそこに顔を埋めた。
もごもごと布にこもった声が聞こえる。
「もっと頑張らなきゃね」
あなたは頑張ってますよ。
ザクロはそう思いながら、顔を上げるまで見守っているしかできなかった。
しばらくしてタオルから離された顔はひどいもので。メイクがタオルでずれてしまっている。
ザクロは琥珀の目じりに滲んだ涙だけをティッシュでふき取った。
「ちょうどよいタイミングなので、引っ越しもしてもらいます」
「え?」
琥珀の動きが止まった。
メイク落としを探しているザクロからは表情を見ることはできない。
永田に丸め込まれ、城田に新しい物件を渡された。内見はすでに行っているので、あとは琥珀が気に入るかどうかだ。
準備が良すぎる。結構前から、あの二人はこうする気だったのだと思う。
「危険も少なくなったし、さすがにわたしの部屋じゃ狭いですから」
あった。見つけたふき取るタイプのメイク落としを琥珀に渡す。
いつもならさっさと落とし始めるのに、まったく動く気配がない。
久しぶりのライブで疲れたのだろうか。
ザクロはメイクが乱れても、美しさが損なわれていない顔を優しくシートで拭い始めた。寝落ちした後、何度かしたことがあったので慣れたものだ。
「そんなことないわよ……別に、もともと一部屋あれば十分だし。ザクロはそりゃ、部屋が減ってたかもしれないけど」
目元以外を拭き終わったくらいで、琥珀が再起動した。復活したなら、自分でしてもらおうと新しいシートを手渡す。
メイクを落としながら、琥珀はへにゃりと眉毛を下げた。
「物件も、前回の希望を踏まえて、こちらで大体選んでおきました。あとは確認するだけで、いつでも入居できますから」
いまいち琥珀の言いたいことが分からない。
大きな部屋になれば喜ぶかと思ったのだが、違うようだ。
琥珀の要望だったソファと大きな画面の入る広さの部屋があり、琥珀とザクロの部屋を一つずつとなるとファミリー用になった。
イベントが終わったら確認してもらおうと、伝えていなかったため戸惑っているのかもしれない。
「そう……本当に、しないとダメ?」
「ダメです」
メイクを落とし、素顔になった琥珀は少し幼く見える。
下から伺うような視線にザクロは強く頷いて見せた。さらに、琥珀の眉毛が下がる。
「ライブまでで良いから、今のままの生活でいいんじゃない?」
「ライブまでって、半年はありますけど」
「さすがに長いかしら」
長いだろう。今の調子で琥珀の私物が増えたら、ザクロの家では確実に間に合わなくなる。
家にいる時間が長くなってから、琥珀は私物を増やし始めた。家で快適に過ごすための物は嵩張る物が多い。
この頃、琥珀がソファのカタログを見ているのには背筋が冷えた。
絶対、入らない。
「今の状態でそんなに長い期間を置いておけません」
大きな会場でのライブとなれば、確認用の資料も増える。
大体、海外にも進出しているような歌手の仕事部屋が六畳一間の寝室なのがおかしいのだ。
かなり不自由をさせている。活動が大きくなるなら、琥珀にも自由に活動してもらいたい。
それを支えるのが自分の仕事だとザクロは思っていた。
「ザクロいないと、生活できないわよ」
「大分、できるようになったじゃないですか」
「ライブ近くなったら、さらに疲れるから、寝落ちしやすくなるし」
「ベッドまでは運びますよ」
琥珀の家事能力はあがっているが、さすがに忙しいときにさせる気はない。
ベッドに運ぶのだった今まで通りだから、引っ越しを拒む理由にはならない。
どうにか引っ越しを伸ばそうとする琥珀に、ザクロは首をかしげて、言葉を探す姿を眺める。
「……そんなに、一緒の生活嫌だった?」
ぎゅっと琥珀の手が握られる。元々白い肌が、力が入ったことでさらに白くなった。
下がり切った眉の下で瞳に薄い水の膜が張っている。
さっきの残りではない。今、この瞬間にどんどん溜まっていく。
溢れそうになる瞬間に、ザクロはやっと勘違いに気づき、慌てて言葉をこぼした。
「え、一緒ですけど。別が良かった、ですか?」
これでは、一緒が良かった言っているみたいじゃない!
口から出た言葉を自覚して、ザクロの頬は秋の夕日のように真っ赤になった。
顔が熱い。誤魔化すように、ザクロは自分の頬を叩いた。
「え」
「すみません、勝手に決めて。今からでも隣とかにはなれると思うんで」
勢いよく頭を下げる。
隣でも今と同じくらいの安全は確保できるだろう。琥珀が寝静まってから、隣の部屋に行けばよい。
頭の中で新しくプランを立て始めたザクロの手を、琥珀が掴んだ。
さっきまで力なく中心に寄っていた顔のパーツたちが、驚きで目いっぱい見開かれていた。
「え、いいの、いいのよ! 一緒なら、それで……それがいいのっ」
手が熱い。琥珀の熱が移ってきたからだ。
顔が熱い。まだ勘違いの熱が冷めないからだ。
そして、琥珀の顔もザクロの赤さが移ったように頬が染まっていた。
時計の針の音が部屋に響く。
どうにか切り替えたのはザクロが先だった。
「じゃ、ライブ成功までよろしくお願いします」
あと半年。その間に、できる限りのことをする。
火事の犯人も、脅迫状の不審者も見つけ出す。そして琥珀のライブを成功させる。
妙にすっきりした頭で、そう決意した。ザクロの言葉に琥珀は蠱惑的にほほ笑んだ。
「ライブまでなの?」
たまに、こうやって、琥珀は爆弾を投げてくる。
何も言えなくて、ザクロは首を折るようにして頭を抱えた。
「勘弁して下さい」
「ふふっ、一緒が良いって言わせてみせるわ」
大したことない力で引き寄せられ、耳元で囁かれる。
その距離は人を取り押さえる以外で、初めての近さだった。
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