第19話
琥珀の多忙は極まっていく。
以前は、時間になれば準備して待っていてくれていた。同居とともに少しずつ起床時間がズレ始め、今では。
「琥珀さん、入りますよ」
軽いノックとともに部屋に入る。
琥珀の部屋と化した寝室は、物が増えた。元々置いてあるザクロの私物より、琥珀のものの方が多いかもしれない。
窓際近くのベッドの上、琥珀は夏用のタオルケットを巻き込むようにして横になっていた。
頭から外れている枕の隣には、パソコンとノートが重ねて置いてあり、ペンだけ転がったのかベッドの下に落ちている。それを拾って近くの机に置くと、ザクロは琥珀の肩に手をかけた。
「琥珀さん、朝ですよ!」
首がガクガクするほど揺さぶると、ようやっと眠り姫の瞼が開く。
すぐにでもくっついてしまいそうな隙間だった。
言葉にならない音が琥珀から漏れた。
「もうちょい……」
タオルケットにしがみつくように体を丸め込む。
ザクロは自分の側の一辺を掴むと、強引に巻き取った。回転するように琥珀がこちらを向く。
寝起きでも美人は美人らしい。羨ましいことだ。
「いいんですか?」
腰に手を当てて、ザクロは告げる。
今日の予定は琥珀が一番気にしていたものだった。
何度も予定を確認して、自分の中で案を書き出していたのもザクロは見ている。
「今日はイベント会場を確認して、演出の打ち合わせですよ?」
イベント、演出の言葉に琥珀の瞼が動く。
わかりやすい人だ。ザクロは琥珀の動きを待った。
「あー、演出、かぁ」
目元をこすりながら、琥珀が体を起こす。「演出、演出……」と小さく呟く声が聞こえた。
何が彼女の中でそんなに特別なのだろうか。
ザクロは琥珀の姿を見ながら、心の中で首を傾げた。
「そうです。人も多く来ますし、一番遅れないようにしないといけない予定なんです」
まだ眠そうに琥珀の体が揺れ動いている。
大きなゆったりとした動きが、徐々に小さくなり、ぱちりと目を開けた。
「んー、行くわ」
大きく背伸びをして、ベッドから立ち上がる。
急に大きく目を開いて眩しかったのか、琥珀の瞳には水の膜が張っていた。
歩いているだけなのに、眠気が抜けず華奢な背中がフラフラしている。
危ないなぁ。
ザクロはつい手を差し出しそうになり、すぐさまその手を握り込んだ。今更だが、あまりにも甘やかしている気がしたのだ。
苦虫を噛み潰したような気分を味わいつつ、いつ転んでも助けられるように、重心だけはつま先にかけていた。
「演出くらい、他の人に任せたらいいんじゃないですか?」
軽くシャワーを浴びて、服を着替える。とはいえ、髪は濡れたままだし、身につけているのはブラジャーにショートパンツという刺激的な格好だ。
なるべく鏡を見ないように、琥珀の後ろに立ち、の髪の毛にドライヤーを当てた。
大体乾いてきたら、風量を下げブラシを通した。
ザクロの言葉に琥珀は表情を変えずに問いかける。
「どうして?」
「歌手の仕事は歌うことですよね。それ以外は人に任せてもいいんじゃないかと」
その無表情さに、ザクロはわずかに眉間のシワを寄せた。
琥珀は表情が豊かな人間だ。その落差に違和感を抱く。
「んー、私の歌を届けるために必要な演出は私が一番わかってるから」
「人に任せたくない?」
琥珀が顔に下地を塗り、メイクを始める。
自分の顔を見つめる姿は真剣そのもので、ザクロにはちらりとさえ視線は飛んでこない。
何かある。
普段柔らかな態度の琥珀の、頑なな姿にザクロは慎重に言葉を選んだ。
「修正を重ねるのも面倒くさいし、それだったら、私が演出して動いてもらった方が早いわ」
琥珀の言うことは正論に聞こえる。だが、イベントや舞台はそんなに簡単なものではない。
新曲のイベントなんて小さなものでも、使う場所や使える照明・音響に違いがある。それらをいちいち組み直していたら、時間が足りない。
これ以上疲労が重なれば彼女は倒れる。
「じゃ、せめて、アシスタントを置くとか」
「それは嫌」
ばっさり切られた提案に、怒りも出ない。
あまりに淡々と、当たり前のように言うからだ。
こうなるとお手上げだ。
「理由は聞いても?」
両肩をすくめ、ザクロはシャツに手を通す琥珀を見つめた。
夏らしい薄い紗に、体のラインが透けている。ボタンをすべて留め終わってから、くるりと琥珀は体を一回転させ、ザクロに向き合う形になる。
「何を聞いても、嫌いにならない?」
何を今更、と口に出さなかった自分を褒めたいとザクロは思った。
琥珀の好感度なんて出会ったときが一番低かった。マイナスからのスタート。悔しいことに現在は、中々のプラスに転じようとしている。
ザクロは苛立ちを隠すように自分の耳の上に手を差し込み髪を掴むようにして頭を抑えた。
「内容によりますね」
嫌いになりません、とも、大丈夫ですよ、とも言えなかった。
そんな無責任な言葉を言えるわけがない。
ザクロにとって人の信頼なんて不確定なもので、人の好意なんて吹けば飛ぶものだ。
ザクロは自分にできる最大限の譲歩を口にした。
「ですが、今更ちょっとやそっとのことで放り出しはしません」
すっと琥珀の髪の毛を耳にかける。
ドライヤーで整えたつもりだったが、甘い部分があったようだ。
ザクロは口を真一文字に結んだ。
「仕事ですから」
そうとしか言えない。
ザクロの言葉に、それでも琥珀は嬉しそうに唇を緩ませた。
「そうね、あなたなら、そう言うわよね」
一瞬足元に落ちた視線は、次に顔が上がったときには、見たことのない色をまとっていた。
暗くて、重い色。いつもの琥珀がパステルカラーの黄色だとしたら、滅茶苦茶に絵の具を混ぜて、黒になる一歩手前の色だった。
先程の甘えた態度は、これを隠すためだったのか。
ザクロは身構える。何を言われても表情を変えないように。意地だった。
「私、人殺しなの」
ぽつんと零された言葉は、小さいのによく響いた。
ザクロは渡された爆弾発言を飲み下す。
何も反応しないザクロの姿に琥珀のゆっくりとした宣言は続いた。
「歌というか舞台で手を抜けない人間で」
「ええ、存じてます」
琥珀付きになってから嫌というほど感じている。
歌が一番、なのではない。彼女は歌うために生活をしている。スキャンダルを呼ぶ恋愛を好む理由はまだ見えない。
琥珀の独白を邪魔しないように、ゆっくりと息を吐く。
「ここを良くすれば、って思うと我慢出来なかった」
彼女のこだわりからすれば当然だろう。
完璧にしたものさえ、編曲をかけるのだから。
だがーー琥珀の顔が曇る。
「なんで、皆そうしないのかわからなくて」
歌に全てを捧げている人間だけではない。ある程度での妥協が必要な場面も多い。
最善、最高を目指す人間と、ついていけない人間。その二組がいれば、ぶつかるのは自然なことだ。
「口出しすぎて、駄目になっちゃった」
苦笑い。
琥珀の顔に浮かんだのは、いまだ消化しきれていない感情だった。
何も言えずザクロは彼女の変化を受け止める。
「だから、私の作品は私が作り上げる。そう決めてるの」
そんな風に言い切る女に、一体なにが言えるというのか。
ザクロにできたことは、琥珀をいつも通りに仕事場へ送り届けること。
それだけだった。
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