第18話


イベントが決まってから琥珀の一日はひどく目まぐるしい。

作詞作曲ともに彼女自身が手掛けているのだが、琥珀は必ず編曲をお願いする。

過去の作品でデモと本録音の2つを聞いても、ザクロには違いはわずかな気がした。

琥珀に言わせれば、自分一人だけでは出せない色を出すため、ということになるらしい。


(わたしには、やっぱり分からないなぁ)


編曲から返ってきた曲は、確かに変わっている。どこがどう変わったかは分からない。

その曲を聞いて琥珀が満足そうに頷いたので、それで良いのだろう。それだけでザクロには十分だった。

曲ができれば今度は録音だ。その日に向けて、琥珀はボイストレーニングを予定にねじ込んだ。


「はい、そこでもっと声を出して」

「はいっ」


琥珀行きつけのボイストレーニング教室は、存外地味な場所だった。ビルの地下にあり、駐車場までは少し歩かなければならない。

人通りは少なくすれ違う人もまばらだ。芸能人が使っている教室ではあるので、他の芸能人に会わないか神経を尖らせた。


(琥珀さん、頑張るなぁ)


始まってしまえば、ザクロの仕事はほぼ終わったも当然だ。

防音の扉の中から声が漏れ聞こえてくる。曲の練習ではなく、発声や音階の確認など、綺麗な音を出すことを中心とした基礎練習だ。

廊下の白い壁に背中をつけ、ザクロは壁を見上げていた。ここを利用している人たちが貼っていったのかコンサートや舞台のポスターが所狭しと飾られている。

琥珀のトレーニングを聞きながら、城田から送られてくるメールに目を通して終了を待った。


「琥珀さんって、きちんとボイストレーニングしますよね」


トレーニング後、車に乗り込んだ琥珀にザクロはそう尋ねた。

バックミラー越しに見るとぼんやりと外を眺めるている。

疲れているのに、予定を詰め込むからだ。ここ数日の日程は過密過ぎる。


(だから、言ったのに)


小さく漏れたザクロの吐息に琥珀はハッとしたよう前を向き、首を傾げた。

顔には「元気です!」と書いたような笑顔が貼り付けてあった。


「どういう意味? ボイストレーニングは皆してるでしょ」


本当にそう思っているのか。

ザクロは眉根を寄せた。

練習しない歌手や俳優などたくさんいる。

彼らは天性のものは天性のものとして、磨くことを怠る。それでも通用するのが、才能の厄介な部分なのだけれど。

天性に努力を添えられる琥珀のような人間が出ると霞んでしまう。

琥珀と競わなければならない人のことを、今のザクロは憐れんでさえいた。


「歌手だけじゃなく、女優さんだって発声練習はするし。私は歌手なんだから当然するわよ」


そうじゃない。いや、ある意味正しいんだけれど。

それを普通と捉える精神が違うのだ。


「いや、自分で発声練習するのと、先生をつけてボイストレーニングをするのは違うじゃないですか」


車のウィンカーを上げる。カチカチという音がリズムを作った。

琥珀は先程までの疲れを洗い流すように、喋るのをやめない。

ザクロの言葉に、琥珀はやっと合点が行ったように頷いた。


「ああ、だってその方が良いじゃない」


良い、とは?

ザクロが視線にこめた意味を琥珀は正しく汲み取ってくれた。


「自分がいくら聞いて、良いって思っても、結局は他人にどう聞こえるか、見えるかが大事」


後部座席のシートに背中を預け、流れていく車窓を見つめる。

その瞳に映っているのは景色ではない。きっと今まで重ねた舞台の数々なのだろう。

ちらりと確認した横顔は現実世界のものとは思えない儚さがあった。


「だって、この世界は他人の評価が必要だから」


その通りだ。

琥珀が口にした真理ににザクロは深く同調せざるを得ない。

芸能界は、他人が指標になる。自分だけ満足していても、仕方がない。

多くの人間を満足させるには、圧倒的な何かが必要だ。


(そこがわかるから、彼女は芸能人としての道を踏み外さないんだよね)


スキャンダルで身を崩す人間は多い。売れて勘違いするのも一緒。

自分が変わらなくても、他人の評価が変われば、世界が変わるのが芸能界なのだから。


「琥珀さんらしいです」


ザクロが呟いた一言の意味を琥珀は受け取ってくれただろうか。

感心とも感嘆ともつかない。ある種の尊敬をザクロは抱いていた。


「評価されたくないなら、芸能界じゃなく、芸術の方に行けばいいのよ。あそこだったら好きなだけ極められるわよ。分かる人にしか分からなくなるけど」

「……そうですね」


琥珀が口に出したその道こそが、大抵の人には一番難しい道だろうに。

ザクロは苦笑するしかなかった。

その会話を最後に車内には沈黙が満ち、琥珀は時間をおかずに夢の世界へと旅立っていった。


「琥珀さん、着きましたよ」


サイドブレーキを引く音が響いた。エンジンを止めれば、数分と経たずに熱気がこもってくるだろう。

ザクロは運転席に座ったまま、一度後ろの琥珀に声をかけた。

これで起きるなど露にも思っていない。

シートベルトを外し、後部座席へ後ろから回る。ドアを開ければ、やっと琥珀は半目を開けたところだった。


「んぅー、眠い」

「肩貸しますから、部屋まで歩いて下さい」


琥珀の荷物を左肩にかける。

それから、後部座席のシートでぐずっているザクロの肩を軽く揺り動かす。その動きに合わせるように琥珀は薄目のままじっとザクロを見る。


「おんぶは?」


甘えを多分に含んだ言葉にザクロはにっこりと微笑む。


「駄目です」

「けち」


言っただけだったのか、口では文句を言いつつ、降りてきてくれる。

眠そうにフラフラする琥珀の手がザクロの服の裾を掴んだ。今日は夏用のジャケットを着ていたため伸びることもない。

ちょうどよいかとそのままにさせた。


「家に入ったなら、すぐにシャワー浴びて下さい」

「やだ、寝る」


悪戦苦闘しながら部屋まで戻ると、琥珀が人をダメにするクッションに体を沈ませ、またごねた。

このまま寝かせてあげたいが、夏の汗とメイクは落としてしまわないと体に悪い。

寝てからメイクだけ落とすという経験は、すでに何回かしていたため心を鬼にした。


「だーめーでーすー」

「いーやー」


ザクロの口調を琥珀が真似をする。首を振れば彼女の長い髪がバッサバッサと攻撃してきた。

駄々っ子を相手にしているようだ。

ザクロは一度天井を見上げてから、なるだけ優しい声が出るようにした。


「ハーブティ、冷たくして待っててあげますから」


だいぶ、琥珀の扱いも上手くなったものだ。

琥珀は疲れが限界を超えると、妙に甘えたになる。

ベタベタとした甘え方は丸っ切り子供のようで、こうなると叱るとか怒るとかいう方法では無理で、優しくご褒美でつるしかない。


「ほんと?」

「ええ」


疑り深く聞き返す琥珀に、ザクロは「約束します」と言葉にする。

夏にハーブティを入れて冷やすのは中々の労働なのだが、琥珀を動かすためだ。我慢しよう。

じっと睨み合いのような我慢比べが続いた。

先に腰を上げたのは琥珀だった。


「入ってくる」

「どうぞ」


眠気が少し取れたのか、ぷいと顔を背けると一度寝室に入る。

すぐに着替えを持って出てきた。その背中が洗面所に入るのを見たあと、ザクロはお茶を入れるために台所に立った。

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