第12話

扉を開けた。

閉めっぱなしの淀んだ空気が頬をくすぐり顔をしかめる。

まさか、こんなことになるとは。

琥珀を中に通しながら、ザクロはその言葉が常に思い浮かぶ状態だった。


「散らかってますけど、どうぞ」


成人女性が二人立てるほど、ザクロのマンションの玄関は広くない。

琥珀を廊下に上がらせてから注意深く扉を閉めた。鍵とチェーンも忘れない。オートロックとはいえ警戒は必要だ。


「ここが、ザクロの家なのね」


両手を広げれば両側の壁に手がついてしまう廊下で、琥珀がくるくると一周した。

どこにもぶつからずに回れるところに、体幹の強さを感じる。

玄関で靴を脱いで揃えた。琥珀の分はすでに綺麗に揃えられ、お手本のように壁際に置かれている。

ザクロのスニーカーと琥珀のパンプスが同じ玄関にある。

その現実がまだ飲み込めていなかった。


「琥珀さんのマンションと比べると小さくて申し訳ないんですけど」


「よっ」と小さな声を出しすれ違う。琥珀と狭い廊下ですれ違うには、どうしても半身になる必要があった。

体と体の距離が近づき、ふんわりと琥珀の香りがする。香水をつけていなくても、これだけ良い匂いを人は発することができるのだと変に感心した。

琥珀の前に出たザクロは数歩しかない廊下を進み、リビングの扉を開ける。壁際のスイッチを手で探して電気を点けた。


「いいじゃない、セキュリティはしっかりしてるんでしょ?」

「まぁ、そこを重視したら、この大きさになったんで」


扉を開けてすぐ左手にキッチンがある。ダイニングキッチンになっており、ダイニング部分は6畳ほどあったが、小さなひとり用のテーブルがあるだけ。

琥珀の家のような大きいソファなど入るわけもなく、他人をダメにすると有名なクッションが置いてある。使ったことはほぼなく、新品のような綺麗さだった。


「ねぇ、これ、座ってみて良い?」

「どうぞ」


部屋を見ながらキョロキョロしていた琥珀が、我慢できなかったようにクッションを指さす。

ザクロが許可を出すのが早いか、琥珀はクッションに体を埋めていた。

荷物をもう一つの部屋へつながる扉の近くに置く。

そのままドアをコンと小さく指でノックした。琥珀の視線が飛んでくる。


「見ての通り、2部屋しかありません」

「そうね。居候としては、リビングで寝るのかしら?」


にっこにこ。

琥珀の表情を文字にすればそうなるだろう。

ザクロは額に手を当てた。理解できないものに遭遇すると、人間は頭が痛くなるらしい。


「何でそんな楽しそうなんですか」

「女の子と二人って、新鮮で」

「そうですか」


返しづらい言葉に、ザクロは唇を真一文字に引き結んだ。

ザクロのマンションは、ダイニングキッチンこそあるが、いわるゆ1LDKに近い間取りになっていた。

違いは間を区切る壁がしっかりしているかどうか。

個室が欲しかったのは、ただ単なる習慣だった。


「……琥珀さんをリビングで寝かせられる訳ないでしょ」


もう一度、ドアをノックして、扉を開く。

興味を惹かれたのか琥珀も素直についてきてくれた。

ドアを奥に押し開けたまま明かりをつける。


「やだ、すごくザクロっぽい」

「褒めてるつもりですか?」


テンションが高い琥珀についていけない。

適当に畳まれた布団が乗ったままのベッドをなんとなく直した。仕事で使う雑誌や本が入った本棚、筆記用具があるだけのテーブルが目に入る。

ビジネスホテルと良い勝負の物の少なさだった。


「琥珀さんはここで寝て下さい。シーツ類や布団なら新しいものに替えますから」

「え、良いわよ。気にしないし、居候だもの」

「わたしが、気にします」


琥珀がベッドに腰かけ、シーツに手を滑らせた。

なんとなく顔をしかめる。何か、想像したくもない艶めかしさを感じた。

自分が使ったものをそのまま使わせる。そう考えただけで、胸の何処かがうるさくなる。

次からは自分でやってもらうつもりだし、教えるのも含めて変えるつもりだった。


「ザクロはどうするの?」

「クッションありますし、下もカーペットなんで布団さえあれば」


ボディーガードなんてやってると、どこでも寝れるようになる。

目さえつむれる場所だったら構わない。

ベッドで寝るのも、効率が良い部分が大きかった。ただ、誰かと一緒の部屋だと寝不足になりがちで、隣のリビングでゴロ寝しようと思っていた。

ザクロの言葉に琥珀がわかりやすく頬を膨らませる。


「駄目よ、身体が資本でしょ?」

「琥珀さんよりは、きっちり管理してますよ」

「私は仕事に使うものには厳しいわよ。お酒も飲まないしね」

「喉ですか?」

「そ、声が出ないなんて、死にたくなるわ」


さらりと零される言葉に、背筋が寒くなる。

借金も詐欺も、薬物にヤクザ関連だって、スキャンダルの中には含まれていた。

そのどれの時も、琥珀は何てことない顔でスルーしている。それなのに、声が出ないだけで死にたくなるとは。

歌姫のアンバランスさに肝が冷えた。

同時に、このアンバランスさが永田社長が惹かれた部分なのだろう。

ザクロは話題を変える様に、肩を竦めて見せる。


「まぁ、必要だったら買ってきます」

「出すわよ?」

「出さなくて、いいですから」


どこからか取り出したクレジットカードが指先の間で光る。

ひらひらと掲げられるそれを、手で押し戻した。

こういった所から直さないと駄目だろう。先は長い。

ため息を押し殺しながら、ザクロは琥珀をリビングへと連れ出す。


「とりあえず、ご飯にしましょうか」

「え、なに、作ってくれるの?」


キッチンへと琥珀を連れ、最低限置いてあるフライパンをコンロの上においた。

冷蔵庫から卵とハムを取り出す。米はないから洋風の朝食になる。

隣を見ればキラキラした瞳で食材を見ている。

そんな喜ばれるほどのことはしていない。けれど、悪い気はしない。


「わたしの家ですから。あ、食費は貰いますよ」

「もちろんよ!」

「そのうち、最低限は覚えて貰いますからね」

「はーい」


少しだけ勢いの下がった声に、ザクロは今度こそ苦笑を漏らした。

フライパンに油を引いて、火にかける。

ザクロの手元が動くと、琥珀の顔も動いた。


「嫌いなものは?」

「ないわ! 腐ってなきゃ、なんでも大丈夫」

「それは誰でもそうです。どんな食生活ですか」


油がパチパチと音を立て始めた。火を少し弱め、ハムからフライパンに並べていく。

カリカリが好きなので、琥珀に好き嫌いがなければそうしようと思っていた。

斜め上すぎる返答に、ザクロは呆れる。琥珀の視線はずっとフライパンだ。


「んー、自分の食べ物って一番おざなりになるのよね」


知っている。ホテルに買っていったもので、まともなご飯はほぼない。

おにぎりやサンドイッチなどの軽食ばかりで。たまにお弁当。

外食のときはペロリと平らげているから、食べれないわけではないのだろう。

気にしない。それだけ。


「食べないと、駄目ですよ」

「わかってるわよ」


身体が資本と言いながら、琥珀は歌以外には適当だ。

お腹が減ると声も出ない気がするが、満腹の方が調子は悪いらしい。

琥珀は色素の薄い髪の毛を耳にかけるとそのまま楽しそうに頬を緩めた。


「ふふ、ザクロって何だかんだお母さんみたいよね」

「こんなに大きい娘はいません」


言ってることは、お母さんというより姑に近い。実際は、身辺整理させようとしているボディガードなのだから、さらに厳しい関係だ。

楽しそうな琥珀が理解できず、眉間にシワを寄せた。

琥珀はそれが見えてないように笑顔のままだ。


「いいじゃない。色々教えてくれるんでしょ?」

「教えますけど……一人暮らしは長いですよね?」


琥珀の来歴は確認してある。

ライブ活動が活発化するのが、16歳くらいから。

一人暮らしを始めたのは恐らくその前後で家を出ている、はず。

じっと見ても琥珀は何も変わらなかった。ゆるゆると首を傾げる。


「んー、10年くらいかしら」

「今まで挑戦したことは?」


十年一人暮らしをしているにしては、家事能力がなさすぎる。

余程家にいなかったか、外を出歩いていたか。

ザクロの視線に気づいたのか、琥珀は肩を大きく竦めて、両手を上げる。


「生まれてこの方、家事なんてしたことないわよ」


生まれてこの方と来たか。

予想を超えてきた答えに小さなため息が漏れた。

呆れたというか、家事をしないと言い切る姿が似合っていたのもある。

納得しそうになった自分を追い出した。


「どんなお嬢様ですか?」

「しょーがないじゃない」


琥珀が漏らした言葉は、世間の知らない彼女の昔についてだった。

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